散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

日光へ行った(7)  2013.02.28 22:00修正

東照宮(6)

ここを訪れた多くの方は、陽明門と唐門とに目を奪われ、今回取り上げる東西回廊と東西透塀とは印象が薄い存在だったかもしれない。しかし、こちらも立派な国宝である。装飾の手が込んでいることに関しては、東西回廊と東西透塀とも同様である。

東西回廊 2棟(附 潜門)…国宝
正式名称が『東西』となっているが、これは東側に伸びて折れ曲がる東回廊と西側に伸びて折れ曲がる西回廊ということのようだ。
東西回廊 2棟(附 潜門)_1
東西回廊 2棟(附 潜門)_2
この下2つの画像はフリーウェアから借用
東西回廊 2棟(附 潜門)_3
東西回廊 2棟(附 潜門)_4
回廊
回廊内側の柱や床、壁、屋根裏などは総朱塗り
陽明門から左右に延びる廊下が回廊で、総延長220メートル。コの字に本社を囲んでいる。回廊の外側の彫刻は、欄間に雲、胴羽目に花鳥と動物、腰羽目に水鳥というふうに、天・地・水にちなんだものが彫り分けられている。どれも1枚坂の透かし彫り。
東回廊から石の間に通じる20メートルの廊下が御供廊下で、神前に供える神饌-しんせん-を運ぶ。虹梁-こうりょう-に描かれた墨絵-すみえ-の浪-なみ-、雲と鳳凰-ほうおう-が見事。


東西透塀 2棟…国宝
正式名称が『東西』となっているが、これは東側に伸びて折れ曲がる東透塀と西側に伸びて折れ曲がる西透塀ということのようだ。なお、唐門については、別の回で取り上げることとする。
東西透塀 2棟_1
東西透塀 2棟_2
東西透塀 2棟_3
東西透塀 2棟_4
東西透塀 2棟_5
東西透塀 2棟_6
東西透塀 2棟_7
東西透塀 2棟_8
透塀-すきべい-
唐門から左右に延びて本社を囲んでいる。塀の中が透かし見えるのでこの名前がある。
総延長は160メートル。塀全体に彫刻が施されている。上の欄間に山野の鳥と植物、下の腰羽目に波や水鳥といった具合に対比させている。唐門の左右の千鳥は図柄も左右対称で、1枚の原画を裏と表に使い分けたらしい。

 

日光へ行った(6)

東照宮(5)
陽明門…国宝
よけいな感想などは挟まないでおく。
表側
陽明門_1
陽明門_4
随身像
陽明門の両側の柱には本殿を守る随身像が安置されていますが、随身像の袴の家紋が、織田信長の家紋「木瓜」や明智光秀の家紋「桔梗」に似ているので注目されています。
陽明門_2
裏側
陽明門_3
陽明門_5
表側
陽明門_6
陽明門_7
陽明門_8
陽明門_9
陽明門_10
陽明門_11
陽明門_12
陽明門_13
裏側
陽明門_14
陽明門_15
陽明門_16
陽明門_17
陽明門_18
陽明門_19
陽明門_20
陽明門_21
阿吽の狛犬
陽明門_22
陽明門_23
日光東照宮の象徴的な建築である陽明門は寛永12年(1635)に建てられもので、三間一戸、八脚楼門、入母屋、四方軒唐破風、銅瓦葺きの楼門建築です。陽明門の名称の由来は京都御所にある十二門の東の正門が陽明門と呼ばれているところから授かったとされ、正面唐破風下には元和3年(1617)に後陽成天皇から賜った「東照宮大権現」の額が掲げられています。陽明門には当時の技術の最高峰がつぎ込まれ彫刻の数は508体にのぼり、軒下には金と極彩色に彩られた麒麟、その下には白色の竜、さらに下が子供達の透かし彫りが施されています。1層目には獅子や子供達が彫り込まれ、1日中見てても飽きない事から"日暮門"の別称があります。柱は全部で12本あり胡粉が塗られ、グリ紋と称する渦巻状の地紋と鳥獣、草花が彫られています。特に裏側の左手2番目の柱は"魔除けの逆柱"と呼ばれグリ紋の向きが逆で、"完成した瞬間から崩壊が始まる。"という古事からわざと未完成の部分を残しているそうです。日光東照宮陽明門は国宝に指定されています。

 

久しぶりの文楽鑑賞

第182回公演の千秋楽第2部を見に行った。今回は、週末から1週間ほどカンボジアの奥地でNPO活動に励んでくる予定の妻の壮行の意味を兼ねて、一緒にランチを食べ、国立小劇場に赴いた。
千秋楽が終わった今頃言うのは何だが、見ておいて非常に良かったと思った公演だった。


ランチ
渋谷の東急プラザでランチをとった。いつものイタリアンで、特別な感想はないが、嫌いだったら行かないはずなので、…。
東急プラザでランチ_1
東急プラザでランチ_2
東急プラザでランチ_3
東急プラザでランチ_4
東急プラザでランチ_5

文楽鑑賞
ご存知の向きも多いと思うが、文楽は大阪がホームグラウンドであり、今までは大阪市から補助金を受けていた。それを廃止したいと橋下市長が言い出したから大変な騒ぎに。いっそのこと、本拠地を東京に移したらどうかと思うくらいの騒ぎだった。
東京では、2ヶ月に1度くらいの頻度で公演がなされるようだ。年齢を重ねた所為なのかもしれないが、文楽のようなものが嫌いじゃなくなり、1年に1-2度見に行くようになった。
第182回公演は3部興行のようで、第2部は『小鍛冶』『曲輪ぶんしょう(吉田屋の段)』『関取千両幟(猪名川内より相撲場の段)』の3作品。この内の『曲輪ぶんしょう(吉田屋の段)』『関取千両幟(猪名川内より相撲場の段)』の2作品がすごく印象に残った。

公演ポスター…摂州合邦辻
ポスター_1
公演ポスター…妹背山婦女庭訓
ポスター_2
国立劇場
国立劇場_1
国立劇場_2
国立劇場前庭
国立劇場_3
国立劇場前庭にあったチラシ入れ
国立劇場_4

『曲輪ぶんしょう(吉田屋の段)』
下記のような筋書き。元々は歌舞伎の演目。かなりの長編だが、大夫は豊竹嶋大夫が一人で何役をも演じきる見応えのあるもの。後方から大きな声援が飛んだが、人間国宝クラスが休場中の状況では屋台骨を支える立場なのだろう。そうした期待に違わぬ大熱演だった。三味線は同じく豊澤富助が一人で務める。この演目にふさわしいしっとりとした味のある音色だった。人形遣いは桐竹勘十郎他が務める。勘十郎は私が応援している人形遣いだ。今回も、観客を魅了する人形遣いぶりだったように思う。

夕霧太夫は恋人の伊左衛門に会いたいがために,病をおして久しぶりに正月の吉田屋へ出勤してきます。放蕩三昧で勘当された伊左衛門は,廓通いもままならない身の上ながら,亭主・喜左衛門を頼って顔を見せます。隣座敷に夕霧がいることを知った伊左衛門は踏み込もうとしますが,夕霧の心変わりを疑って顔を見ずに寝てしまいました。夕霧はしばらく会うことができなかった,愛しい伊左衛門の傍に寄りますが,彼の態度は冷たく,向き合おうとしません。夕霧は切々と愛情を訴えます…

『関取千両幟(猪名川内より相撲場の段)』
下記のような筋書き。何と言っても、人間国宝吉田簑助の絶妙な人形遣いぶりが見ものだ。大夫は、おとわ役を演じるはずだった人間国宝の竹本源大夫が休場したため、ごく若く見える豊竹呂勢大夫が代役を務めた。人間国宝の代役を勤められるとは立派なものだ。この呂勢大夫と三味線の鶴澤藤蔵は以前にもあったようで、評価が高かったようだ。
大夫が役別に数人で演じているのに対し、三味線は鶴澤藤蔵が一人で担当した。彼の三味線もまた熱演だった。そして、舞台のセッティングを変える繋ぎに行った曲弾きがまた、観客をわかせた。
これは相当な見て得をした演目だったと思う。


力士・猪名川は,贔屓筋の旦那が身請けしようとしている太夫・錦木を,ライバルの鉄ヶ嶽の旦那に請け出されそうになっています。本日の取り組み相手は鉄ヶ嶽。猪名川の女房おとわは夫が勝ちを譲ろうとしている姿を見て,思いやりながら髪を結います。櫓太鼓が賑やかに鳴り響くなか,二人の取り組みが始まります。


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日光へ行った(5)

東照宮(4)
今回は陽明門の一段下の地面にあるものを取り上げた
鼓楼・鐘楼
高さ12.6メートル。下にいる人と比べれば、その大きさがわかる。手前が鼓楼で奥が鐘楼。
鼓楼・鐘楼_1
鼓楼
鼓楼・鐘楼_2
鼓楼・鐘楼_4
鐘楼
鼓楼・鐘楼_3
鼓楼・鐘楼_5
鐘楼は釣鐘、鼓楼は太鼓を納める建物。陽明門の前に左右対称に配置されている。向かって右が鐘楼で、左が鼓楼。
建物の規模や構造など基本的な形式は同じだが、細部の飾り付けをよく見ると違いがある。たとえば、彫刻の種類と数。陽明門に向かって右側の鐘楼には鶴・竜・飛竜-ひりゅう-・麒麟-きりん-・波など合計78体に対し、左側の鼓楼には亀・竜・雲など38体。装飾は、鐘楼のほうが豪華である。


(附)鐘舎(鐘楼前)…重要文化財
鐘楼の脇の参道寄りにある。通常は『朝鮮鐘』と呼ばれる。フリーの画像を拝借した。
(附)鐘舎(鐘楼前)

3代将軍家光公の長子(後の4代将軍家網公)誕生を祝賀して、日本にやってきた朝鮮通信使が献納したもの。鐘の天井に小さな穴が開いていることから「虫食いの鐘」とも呼ばれるが、この穴は鐘の響きをよくするための工夫という。

本地堂…重要文化財=>東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中
本地堂
鼓楼の後ろにある建物は、本尊が薬師瑠璃光如来-やくしるりこうにょらい-(薬師如来)であることから「薬師堂」、また乱世を鎮めた家康公が薬師如来の生まれ変わりと考えられたので、本来の仏(本地-ほんじ-)をまつったことから「本地堂」と呼ばれる。
本地堂(薬師堂)の内陣天井に描かれているのが、有名な鳴竜。竜の頭の下で拍子木を打つと、天井と床が共鳴して鈴のような鳴き声に聞こえる。もとの絵は狩野永真安信-かのうえいしんやすのぶ-の筆によるが、堂とともに焼失したため堅山南風-かたやまなんぷう-画伯が復元した。


境内の燈籠
(附)燈台穂屋(鼓楼前、釣燈籠)…重要文化財
(附)燈台穂屋(鼓楼前、釣燈籠)
(附)燈台穂屋(鼓楼前、回転燈籠)…重要文化財
(附)燈台穂屋(鼓楼前、回転燈籠)

 

日光へ行った(4)

東照宮(3)
今回取り上げた分は、前回と同じ平面にあるもの
御水舎-おみずや-…重要文化財
サイフォンの原理で水が噴き上がる仕組みになっているとのことだ。どこか高いところに水をためておくところがあるはずだが、そこが何処かなど一切わからなかった。ただただ、装飾の美しさに心を奪われて見ていただけだった。
御水舎_1
御水舎_2
御水舎_3
参拝者が手と口を清める場所を御手洗-みたらし-・手水所-ちょうずどころ-といい、今ではどの神社にも水盤を置いた施設がある。しかし、かつては自然の川や湧き水-わきみず-の場がそれとされ、境内に独立した建物を構えたのは東照宮の御水舎が最初といわれる。幅1.2メートル、長さ2.6メートル、高さ1メートルの花崗岩-かこうがん-の水盤は、九州の鍋島-なべしま-藩主が元和-げんな-4(1618)年に奉納したもの。くり抜いた15センチの穴から、サイフォンの原理で水が噴き上がる仕組みになっている。
屋根の下には、逆巻く波と飛竜-ひりゅう-の彫刻がある。飛竜は翼-つばさ-のある竜で、水をつかさどる霊獣-れいじゅう-とされる。
西側の屋根の角が切り落とされているのは魔除け説のほか、杉の成長を邪魔しないためという説もある。


輪蔵(経蔵)…重要文化財=>東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中
輪蔵(経蔵)_1
輪蔵(経蔵)_2
2層屋根、しかも建物の形が12メートル四方の正方形をしているので、重層方形造り-じゅうそうほうぎょうづくり-という。仏教の経典を納める経蔵だが、建物の真ん中に一切経1456部、6325巻を納めた8角形の回転式の書架が置かれていることから輪蔵の名がついた。

(附)内番所…重要文化財
撮り損ねたので、フリーの画像を借用した。ただの小屋のように思ったが、立派な附(つけたし)指定の重要文化財の一つだったのだ。
(附)内番所
神厩の隣で、お札やお守りを扱っている小さな建物も、国指定の重要文化財である。たかが授与所とあなどってはいけない。江戸時代は日光奉行が支配する番所で、昼夜を問わず警備の役人が詰めて、目を光らせていた。昭和55(1980)年の漆の塗り替え修理には、1300万円もかかっているのである。

(附)鳥居(銅製)…重要文化財
二の鳥居の唐銅鳥居の方。奥宮にも唐銅鳥居があり、実に紛らわしい。そちらは、文化財登録名称は『奥社唐門(銅製)(附 銅製狛犬2躯)』というようで重要文化財指定。『附指定』ではなく『指定』である。
(附)鳥居(銅製)_1
(附)鳥居(銅製)_2
日本で最初に造られた青銅製の鳥居。3代将軍家光公が金2000両を費やして建てた。柱の足元には、神社としては珍しい仏教様式の蓮-はす-の花弁が刻まれている。

境内の燈籠
(附)鉄燈籠2基…重要文化財
(附)銅燈籠16基…重要文化財
南蛮鉄燈籠(階段右脇)と唐銅燈籠(階段左脇)
南蛮鉄燈籠(階段右脇)と唐銅燈籠(階段左脇)
石段に向かって左(政宗の鉄燈籠と対称の位置)には薩摩藩主島津家久が奉納した唐銅燈籠(からがねとうろう)がある。東照宮の入り口を東北の雄伊達藩と九州の雄薩摩藩の2大大名が守る形をとっており、徳川家の権威を象徴している。
   :
東照宮の境内には、諸大名などが献納した123基の燈籠がある。銘文から女性の奉納であることがはっきりしているのは、内番所の正面 、上神庫-かみじんこ-の角にある2基。銘文は「黒田筑前守長政妻-くろだちくぜんのかみながまさのつま-」。妻とは、家康公の養女・栄姫のことである。
仙台藩主伊達政宗-だてまさむね-が、ポルトガルから鉄材を輸入し、領内の租税3年分の費用をかけて作ったと伝えられるのが「南蛮鉄燈籠-なんばんてつどうろう-」。オランダから贈られたのが、鐘楼のそばに立つスタンド型の蓮燈籠-はすどうろう-、鼓楼わきのシャンデリア型釣燈籠、そして8角形の回転燈籠だ。三葉葵-みつばあおい-の紋が逆さまについている。

 

日光へ行った(3)

東照宮(2)
表門までは地味な感じが続いたが、表門をくぐった途端、華やかな世界に一変。あまりの豪華さに声も出ない感じだった。
三神庫(さんじんこ)
おお、いきなり校倉造りの建物が目に飛び込んできた。それも極彩色だ。
三神庫
下神庫…重要文化財
下神庫_1
下神庫_2
中神庫…重要文化財
中神庫_1
中神庫_2
中神庫_3
上神庫…重要文化財
上神庫_1
上神庫_2
上神庫_3
上神庫_4
上神庫_5

表門を入ると右から正面へ鉤の手-かぎのて-に3棟が並ぶ。右から下神庫-しもじんこ-・中神庫-なかじんこ-・上神庫-かみじんこ-。奈良の正倉院に代表される校倉造り-あぜくらづくり-を模した建物で、春秋の渡御祭-とぎょさい-(百物揃千人行列-ひゃくものぞろえせんにんぎょうれつ-)の1200人分の装束や流鏑馬-やぶさめ-の道具などが収蔵されている。春秋の祭りの1週間ほど前から準備のため扉を開けるので内部をのぞける。
上神庫の妻-つま-(側面)に2頭の大きな象の彫刻があるが、耳の付き方や尻尾-しっぽ-の形が実際とは異なる。東照宮建立時のいわばアート・ディ レクターのチーフだった狩野探幽-かのうたんゆう-が、実物を知らずに想像で彫刻の下絵を描いたことから、「想像の象」と呼ばれている。


(附)西浄…重要文化財
下神庫と上神庫の間にチラと見える建物は『西浄』のようだ
下神庫_2
フリーの写真を借用した
西浄_2
彫刻や彩色などのない間口9間、奥行き2間の細長い建物。内部には漆塗りの9個の便器が並ぶ。一般公開していない西浄は神様専用のトイレで一般には使用していない。東照宮のすべての建物が、軒先の瓦-かわら-は三葉葵-みつばあおい-の紋だが、西浄だけは三巴-みつどもえ-の紋。

神厩(しんきゅう)…重要文化財
左甚五郎の作品は、意外と小さなものばかりのようだ。ここのものも例外ではない。
神厩舎・三猿_1
見ざる・言わざる・聞かざる
神厩舎・三猿_2
手をかざした母猿が子猿の将来を見ている。子猿は信頼しきって母猿の顔をのぞき込む。
神厩舎・三猿_7
子どものときは悪いことを「見ザル、言わザル、聞かザル」
神厩舎・三猿_6
一人立ち直前の猿。まだ、座っている。
神厩舎・三猿_5
口をへの字に曲げ、大きな志を抱いて天を仰ぐ。青い雲が「青雲の志」を暗示。
神厩舎・三猿_4
人生にまっすぐ立ち向かうが、がけっぷちに立つときも。迷い悩む仲間を励ます友がいる。
神厩舎・三猿_3
6~8面は正面側にはなかった
神様に仕える神馬-しんめ-の勤務場所が神厩舎。勤務時間は午前10時から午後2時まで。雨や雪の日は休みだ。神馬は雄の白馬が条件で、現在2頭が飼育されている。百物揃千人行列-ひゃくものぞろえせんにんぎょうれつ-には神馬もお供をする。
神厩舎は東照宮で漆を塗っていない唯一の素木造り-しらきづくり-。長押-なげし-の上には「三猿」で有名な猿の彫刻が8面掲げられ、あたかも8ページの彫刻絵本になっている。昔から猿は馬を病気から守るとされ、室町時代までは猿を馬屋で飼う習慣があった。

 

日光へ行った(2)

輪王寺から東照宮へ向かう

東照宮(1)
今回取り上げるゾーンは、東照宮にあっては地味な感じのするものばかり。華があるのは次回以降に取り上げるものになる。
表参道
すごく広々として気持ちのよい空間だ
表参道_1
アイスバーンになっていて非常に歩きにくい
表参道_2

石鳥居…重要文化財
鎮座の翌年の元和4(1618)年、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政公によって奉納された。石材は、まず九州から船で小山まで運ばれ、その後の陸路は人力でこの日光まで運ばれた。
上手く将軍家とも関係を保った黒田長政公らしく、逸早く目立つことをしたようだ。

石鳥居_1
石鳥居_2
黒田藩52万石の藩主、黒田筑前守-ちくぜんのかみ-長政が元和-げんな-4(1618)年に奉納した石造りの鳥居で、高さ9メートル、柱の太さ3.6メートル、柱の中心の間隔が6.8メートル。京都八坂神社、鎌倉八幡宮のものと合わせて日本三大石鳥居と呼ばれるが、江戸時代に建てられた石造りの鳥居としては日本最大。後水尾-ごみずのお-天皇が書いた「東照大権現」の額だけでも畳1枚分の大きさがある。使われている石は筑前(福岡県)産の花崗岩-かこうがん-で、エジプトのピラミッドなどと同じ、土嚢-どのう-を積む方法で引き上げた15個の石材で組み立ててある。石材を心棒で継ぎ、柱の上に渡した笠木-かさぎ-・島木-しまぎ-は軽量化のため空洞がある。こうした耐震設計の働きで、昭和24(1949)年に日光を襲った地震のときは、最初の強い揺れでかなりずれた継ぎ目が、余震で元の位置に戻ったという。

五重塔…重要文化財
初層には方位を示す十二支の彫刻があり、正面(東)の彫刻は、徳川三代の干支。寅は家康、卯は秀忠、辰は家光だそうだ。ちょうどうまい具合に並んだものだ。見逃してしまって残念。
五重塔_1
五重塔_2
五重塔_3
若狭-わかさ-(福井県)の小浜-おばま-藩主、酒井忠勝の寄進で慶安-けいあん-3(1650)年に建立されたが、文化-ぶんか-12(1815)年に焼失し、3年後の文政-ぶんせい-元(1818)年に忠勝の子孫、忠進によって再建された。
高さは約36メートル。内部は吹き抜けになっていて、中心を貫く直径60センチの心柱-しんばしら-が4層(4階)から鎖でつり下げられ、その最下部は礎石の穴の中で10センチほど浮いている。建物が揺れても重心は常に中心にあって倒壊を防ぐ耐震・耐風対策といわれる。また、年を重ねると木材が縮んだり、建物自体の重みで屋根が沈み、建物に隙間-すきま-が生じる。そこで心柱を浮かせれば、屋根の下降とともに心柱も下がり、隙間が生じないというわけだ。
初層から4層までは屋根の垂木-たるき-がまっすぐ平行の和様、5層は垂木が扇の骨のように放射状で曲線の唐様-からよう-になっている。初層を飾る動物彫刻は子-ね-(ネズミ=北)、卯-う-(ウサギ=東)など十二支で方角を表している。


御仮殿…重要文化財
本社を修理する際にご祭神(東照宮の場合は徳川家康公)をお移ししてお祀りする御殿で、現在の社殿は寛永16(1639)年の建立とのことだ。御仮殿が常設されているのはここだけだそうだ。
仮殿_1
仮殿_2
仮殿_3
仮殿_4
仮殿_5
御仮殿は、本社を修理する際、神霊-しんれい-を一時的に移しておく建物。寛永-かんえい-16(1639)年の建立とされる。本殿の建て替えや修理にあたっては仮設の社殿を建て、新しい本殿が完成したらそれを取り壊すのが一般的だが、日光東照宮では本社の修理が頻繁だったため、御仮殿は常設の建物になっている。御仮殿といっても本社と同じく拝殿・相の間・本殿からなる権現造り-ごんげんづくり-。神霊が御仮殿に移っているときは、すべての神事が御仮殿の境内でおこなわれ、神事に必要な神楽殿-かぐらでん-・護摩堂-ごまどう-・神輿舎-しんよしゃ-・雪隠-せっちん-などが仮設される。神霊を御仮殿に移すことを外遷宮-げせんぐう-といい、これまで19回おこなわれた。文久-ぶんきゅう-3(1863)年以降は一度もない。

表門…重要文化財
東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれているそうだ。これから続く絢爛豪華な世界に誘う門としてはかなり地味な感じだ。
表門_1
表門_2
表門_3
表門_4
表門_5
表門_6
此処から先はめくるめくような絢爛豪華な世界が
表門から内部は別世界
表門は正面左右に「阿吽-あうん-」の仁王像(身長4メートル)を安置しているので、昔は仁王門と呼ばれていた。仁王は仏教の守り神。明治4(1871)年実施の神仏分離で、この仁王像は大猷院-たいゆういん-の仁王門に移された。それ以来、門の名称も表門と呼ばれるようになった。仁王像が戻ってきたのは明治30(1897)年。
門の側面にいる唐獅子-からじし-や獏-ばく-、通路に面した麒麟-きりん-や虎-とら-など82の彫刻が施されている。裏面の虎のうち右から2頭目の体の模様が違う。縞-しま-ではなく丸、つまりヒョウであるが、江戸時代、ヒョウは虎の雌-めす-と思われていた。

 

日光へ行った(1)

One-Shot Photo Blogさんに取り上げられた日光の写真を見ている内に、無性に日光に行きたくなった。
日光をすべて回る時間的余裕がとれないため、日光山内に限定して見て回る計画を立てた。


浅草から東武日光へ
いつの間にか浅草駅が綺麗な駅に変身していたのに驚いた
浅草駅
東武特急スペーシアで行く
東武特急スペーシア
電車を下りた直後はそんなに寒く感じなかったが
東武日光駅_1
世界資産エリアは十分に寒そうな予感が
東武日光駅_2

日光山輪王寺
比叡山延暦寺、東叡山寛永寺と並ぶ天台宗大本山の一つ。日光開山の起源から歴史が続く名刹で門跡寺院。ここから見て回ることとした。東照宮の南方の境内には重文に指定されている本堂(三仏堂)があるが、生憎、平成の大修理実施中で、写真に撮ることができる被写体は少なかった。

日光山を開いた勝道上人
日光がかつては山岳信仰の地として栄えていたのはこの上人のお蔭
勝道上人
本堂(三仏堂)…重要文化財
平成19年から平成30年までの長期修理を実施中。描かれている絵が本堂の実物大だそうだ。
本堂(三仏堂)
金剛桜
金剛桜_1
金剛桜_2
大護摩堂
日光唯一の護摩祈願所。毎日3回護摩が行われている。
大護摩堂_1
大護摩堂_2
大護摩堂_3
相輪橖(そうりんとう)…重要文化財
天下泰平の祈りを込めて家光の発願によって建てられた13.2mの青銅の塔。内部には千部の教典が収められているとのこと
相輪橖_1
相輪橖_2

輪王寺の堂塔は1か所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在している。東照宮の南方の境内には本堂の三仏堂や寺務所があり、ここには本坊表門、護法天堂、相輪橖(そうりんとう)などがある。二荒山神社西側には大猷院霊廟の建築群があり、その南側には常行堂と法華堂、そこから長い石段を上った先には中興の祖・天海を祀る慈眼堂がある。勝道を祀る開山堂は東照宮北方、滝尾神社への参道の途中にある。このほか、神橋近くの二荒山神社本宮に隣接した四本龍寺の旧地には、観音堂と三重塔があり、少し離れて児玉堂がある。中禅寺湖畔の中禅寺(立木観音)も輪王寺に所属している。
   :
天応2年(782年)、勝道は日光の神体山である男体山(2,486メートル)の登頂に成功した。観音菩薩の住処とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んでこの山を二荒山(ふたらさん)と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。男体山の山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代から山岳信仰の聖地であったことは確かである。

 

江戸東京たてもの園(20)

W9小出邸(こいでてい)
小出邸は外観にかなり特徴があるそうで、瓦葺・急勾配の宝形屋根と水平に張り出した軒に特徴があるそうだ。
そのように案内に書いてあったのに、読みもせず、肝心の写真を撮りそこねてしまった。大失敗だ。冒頭の写真で多少はお分かりいただけるだろうか。
外から見ると紛れも無い洋館なのだが、内部は和の色彩がかなり強い。少ない家族で静かに暮らしていた家なんだろうと思った。
隣接の前川國男邸は、建築家前川國男氏本人のための邸宅で仕事部屋的色彩が強かった。しかし、こちらの小出邸は、建築家堀口捨己がクライアントのために設計した個人用住宅だ。用途が違っているから、受ける印象もかなり違ったものになった。

小出邸_1
小出邸_2
小出邸_3
小出邸_4
小出邸_5
下記参照HP3によれば、聚楽壁というものなんだそうだ。
小出邸_6
小出邸_7
小出邸_8
小出邸_9
小出邸_10
小出邸_11
小出邸_12
小出邸_13
すごいロフト
小出邸_14
小出邸_15
小出邸_16

日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計した住宅です。
当時ヨーロッパで流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっています。
[文京区西片二丁目/1925年(大正14)]


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江戸東京たてもの園(19)

W6前川國男邸(まえかわくにおてい)
すごい建物だと思った。江戸東京たてもの園で私が最も感銘を受けた建物だ。
戦時中の無い無い尽くしのご時世にこのような建物が目黒駅近くに建てられたなんて、信じられないほどだ。「木造建物建築統制規制」の中でも、十分、現代に通じるモダンな設計を施してある。そして、よく空襲にも遭わずに残ったものだ。
前川國男氏の作品は弘前市に多く残っているとのこと。いつか機会を見て訪ねてみたいものだ。

前川國男氏略歴
1905年生まれ
1928年東京帝国大学建築学科卒業と同時にパリに渡り、2年間ル・コルビュジェのアトリエで学ぶ。
帰国後アントニン・レモンドの事務所を経て、1935年前川國男設計事務所を設立。
代表作は東京文化会館、紀伊國屋書店など
1986年没

前川國男邸_1
前川國男邸_1_2
前川國男邸_2
前川國男邸_3
前川國男邸_4
前川國男邸_5
前川國男邸_6
前川國男邸_7
前川國男邸_8
前川國男邸_9
前川國男邸_10
前川國男邸_11
前川國男邸_12
前川國男邸_13
前川國男邸_14
前川國男邸_15
日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として、品川区上大崎に1942年(昭和17)に建てられた住宅です。
戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工しています。外観は切妻屋根の和風、内部は吹き抜けの居間を中心に書斎・寝室を配したシンプルな間取りになっています。
[品川区上大崎三丁目/1942年(昭和17)]


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上野界隈散歩(4) 2013.02.18 07:54追記

旧東京音楽学校奏楽堂
明治23年に創建された日本最古の木造の洋式音楽ホール。東京芸術大学から台東区に移管され、昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存され、一般に公開されるようになった。移築後、昭和63年1月に国の重要文化財に指定された。
移築後25年を経過し、設備等に老朽化がみられるようになったことから、平成24年度に老朽度・耐震強度等の調査を実施した。その結果を踏まえ、平成25年4月から建物保全のため、しばらくの間、休館する予定とのことだ。
前述したとおり、木造の洋式音楽ホールだ。今の木造建築であれば、壁の内側にロックウールを詰めたり、ウレタンフォームを注入したりするところだが、何とその部分に藁を詰めて音楽ホールの響きを調節していたようだ。小規模だが、演奏しやすそうなホールだと思った。

旧東京音楽学校奏楽堂_1
旧東京音楽学校奏楽堂_2
奏楽堂ホール_1
奏楽堂ホール_2
奏楽堂ホール_3
奏楽堂ホール_4
滝廉太郎は別格の扱いのようだ
滝廉太郎の像
旧東京音楽学校奏楽堂_3

ついでに、向かいも門が開いていたのでパチリ。

旧因州池田屋敷表門(黒門)
東京国立博物館の一隅にあり、普段は門が閉じられている。休日だったので開けられたようだ。時間がなかったので、柵外からパチリ。
旧因州池田屋敷表門(黒門)_1
旧因州池田屋敷表門(黒門)_2
旧因州池田屋敷表門(黒門)_3
旧因州池田屋敷表門(黒門)_4

この門は、もと因州(現在の鳥取県の一部)池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は明らかではないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。
国立博物館正門の西にあって道路に面して建ち、国の重要文化財に指定されている。東京大学にある赤門に対してこちらは黒門とも呼ばれる。東京国立博物館の屋外展示のひとつとなっており、土・日・祝日に開門される。

 

上野界隈散歩(3)

東照宮の牡丹園にて(2)

素人が簡単に扱える範疇のものではないようだ。相当に手間暇がかかる感じ。それだけ苦労しても苦労しがいのある花であることは間違いがなく、古来『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花』と美しい女性のことを形容するのに使われてきたほどなのだから。
冬牡丹_20
冬牡丹_21
冬牡丹_22
冬牡丹_23
冬牡丹_24
冬牡丹_25
冬牡丹_26
冬牡丹_27
冬牡丹_28
冬牡丹_29
冬牡丹_30
芍薬も牡丹も同じボタン科なので、花自体はよく似ています。しかし、芍薬は草で牡丹は木。その違いから、牡丹は枝分かれした横向きの枝に花をつけるため、まるで座っているかのように見え、観賞するときも座って観賞したほうがきれいに見えます。中国では花の王と呼ばれ、華やかさの象徴です。

粋な火鉢だ
粋な火鉢だ
園内にはミツマタも
ミツマタ_1
ミツマタ_2
ミツマタ_3
アカバナマンサクも
アカバナマンサク
紅千鳥という品種だそうだ
紅千鳥

 

恵比寿にて  2013.02.17 22:58追記

恵比寿の様子をコンデジで撮ってみた

渋谷橋のたもとの空き地に植えられた桜と思しき樹木
2週間前くらいから花が咲いているのに気づいた。なんという名前の桜だろうか?熱海桜は咲き出し、河津桜はまだだと聞いたが。
桜と思しき樹木_1
桜と思しき樹木_2
桜と思しき樹木_3
桜と思しき樹木_4
こちらは恵比寿西の梅
間違いなく梅だと思う
間違いなく梅

恵比寿西のとあるビルの側壁に描かれた不思議な図案の絵
現代人と武者とが…
不思議な図案の絵_1
不思議な図案の絵_2

代官山駅の工事
もう間もなく渋谷駅-代官山駅間が地下化される。そして、代官山駅で地上に出ることになっている。その一環での工事なのだろうか?
調べてみたら現在よりホームが少し下がるようだ。25~35パーミルの急勾配も凄い。
代官山駅の工事_1
代官山駅の工事_2

なお、渋谷駅と代官山駅の間にはかなりの高低差があるため、渋谷側から先の区間は25~35パーミルの急勾配となる予定です。トンネル出口は代官山駅手前の渋谷1号踏切付近にできる予定で、代官山駅ホームの中央付近まで上り勾配となるため、代官山駅のホームは地下化時に現在よりも低い位置に付け替えられる…

上記記述があるHPへjump

線路側設備に特殊装備を持たない「粘着運転」式の急勾配としては箱根登山鉄道の80パーミルが最高といわれている。
旧国鉄線では碓氷峠(信越本線/66.7パーミル/長野新幹線開通時に廃止)、セノハチ(山陽本線/22.6パーミル)などが有名。
現存するJRの路線では40パーミル級が最大と言われているが、そのぐらいの勾配は現在では電車の性能向上により全国各地で数多く存在し、都内の地下鉄や私鉄線でも珍しくない。
前述の碓氷峠廃止と同時に開通した長野新幹線では大きく迂回して約30パーミルの連続勾配(局所最大33.3パーミル)を時速200キロで登っているが、それより後に開業した九州新幹線ではそれを上回る35パーミルの連続勾配区間がある。

 

上野界隈散歩(2)

東照宮の牡丹園にて(1)
不忍池から上野の山に上り、東照宮の牡丹園に向かった。上野東照宮の案内によれば、寒牡丹のうちで、お正月に間に合わせるように栽培に工夫を凝らしたのが冬牡丹ということのようだ。私には、どれが冬牡丹でどれが寒牡丹なのか、皆目見分けがつかなかったが、幟も『冬牡丹』一色でもあることだし、見てきたものは殆ど冬牡丹と看做して良いのではなかろうか。
2回に分けて取り上げる。今回こそ、RAWで撮影すべきだった。そのことをついぞ失念してしまった。また、3段の露出を試そうと思っていたのに、それも失念してしまった。あ~~あ~~

冬牡丹_01
冬牡丹_02
冬牡丹_03
冬牡丹_04
冬牡丹_05
冬牡丹_06
冬牡丹_07
冬牡丹_08
冬牡丹_09
冬牡丹_10
冬牡丹_11
冬牡丹_12
冬牡丹_13
冬牡丹_14

冬牡丹と寒牡丹
牡丹には二期咲き(早春と初冬)の性質を持つ品種があり、このうち低温で開花した冬咲きのものが古来より寒牡丹と呼ばれています。
寒牡丹の花はその年の気象に大きく左右され、着花率は二割以下といわれています。そこで、花の少ない冬にお正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬牡丹です。春夏に寒冷地で開花を抑制、秋に温度調整し冬に備えるという作業に丸二年を費やし、厳寒に楚々とした可憐な花をつけます。
苑内には約40品種600株の冬牡丹の他に、大切に育てた寒牡丹もございます。また、蝋梅、満作、早咲きの梅などの花木も苑内に彩りを添えています。

 

上野界隈散歩(1)

不忍池の鳥達
ある方のブログに不忍池にいるオオバンを写した写真が載っていた。決して美しい鳥だとは思わないものの、一度も見たことがない鳥だったので、是非とも見たいと思った。同じ頃、2Xのテレプラスを購入したので、どのくらい使えるか試す意味をも込めて、不忍池の鳥さん達を撮りに出陣した。時間があまりなかったので、動物園側に入らず、外側からだけ。

オオバン…ツル目クイナ科
何枚も撮ったのに、奥目がちなのか、日光の加減が良くないのか、目がはっきり映らないショットばかり。というか、目を凝らして肉眼で見ても同じこと。どうしたら良いのか頭を抱え込んでしまった。このショットはかろうじて目が分かるかと思うが如何だろうか?
姿カッコウはお世辞にも素晴らしいとは言いがたい。

オオバン
バン…ツル目クイナ科
オオバンよりはまだ姿カッコウがマシだ。特に嘴あたりはおしゃれな感じだ。大きさもかなり違って見えたが、データによれば大差がないようだ。そうなのかな?
バン_1
バン_2
キンクロハジロ
この鳥は目だけはやけに目立つ。
キンクロハジロ
オナガガモ
スタイルはかなり良いが、性格はかなり荒っぽい感じ。
オナガガモ
ホシハジロ
どういう性格かしばらく観察することにしようと思っている鳥
ホシハジロ_1
ヒドリガモ
最初はホシハジロかと思っていたが、よくよく見るとヒドリガモのようだ。オナガガモと比べるとかなり小さい感じだ。
ヒドリガモ_1
ヒドリガモ_2
入り乱れて
オオバンもバンもホシハジロも、いろいろな種が入り乱れて陣取りをしていた。禁じられている餌を与えようとする御仁が現れるのを待ち構えているのかもしれない。
入り乱れて

 

浜離宮恩賜庭園に行く+α(7)

中の御門を出る
途中に頑張っている木があった。その根性に『あっぱれ』
頑張っている木

ゆりかもめの高架下に沿って竹芝に向かう道すがら
JR東日本の発電所
JR東日本は自前の発電所を所有しているんだ。凄い周到な準備ぶりに驚かされた。
JR東日本の発電所_1
JR東日本の発電所_2
劇団四季の専用劇場
我が娘も独身時代はかなり通ったところだ。
劇団四季の専用劇場_1
劇団四季の専用劇場_3
ゆりかもめ
東京臨海新交通臨海線ゆりかもめの軌道。下からは走行する車両が見えないところが殆どだ。
東京臨海新交通臨海線ゆりかもめの軌道_1
東京臨海新交通臨海線ゆりかもめの軌道_3
東京臨海新交通臨海線ゆりかもめの軌道_5
東京臨海新交通臨海線ゆりかもめの軌道_6

東京湾湾奥部と隅田川河口の様子
ホウスイの前は間違いなく東京湾湾奥部と言えるが、少し左側にある小さな黒いビルからは隅田川なんだろう。台風の後などは、右端に見える船舶の辺りは上流からの泥水で黄土色に変色する。
東京湾湾奥部と隅田川河口の様子_1
右に小さく見える船舶の辺りが、私が隅田川河口だと思っているところ。左端に緑が見えるところは浜離宮恩賜庭園
東京湾湾奥部と隅田川河口の様子_2
隅田川河口から浅草方面に向かう松本零士プロデュースの『ホタルナ』もしくは『ヒミコ』。今回はどちらだろう?素晴らしく格好が良い。
東京湾湾奥部と隅田川河口の様子_3
東京湾湾奥部と隅田川河口の様子_4
こちらは『龍馬』。海・東京に関係した偉人シリーズの1号船だそうだ。アーリーアメリカン調の船内に一歩足を踏み入れると、そこにデジャ・ブを感じるはずとのことだが。上流からやってきてあの地点で旋回したが、浜離宮恩賜庭園に入ろうとしているのだろうか?
東京湾湾奥部と隅田川河口の様子_5
河口に新しい橋が架かるのだろうか
河口に新しい橋が架かるのだろうか_1
河口に新しい橋が架かるのだろうか_2

竹芝桟橋からの眺め
レインボーブリッジ
レインボーブリッジ
晴海埠頭方面
晴海客船ターミナル、晴海信号所などが見える
晴海埠頭方面

伊豆七島へ向かう東海汽船の『虹』
意外にコンパクトだが、沖合で大きく揺れないだろうか
伊豆七島へ向かう東海汽船の『虹』_2
伊豆七島へ向かう東海汽船の『虹』_3

スカイツリー
スカイツリー_1
スカイツリー_2

帰り道
浜松町の跨線橋から
芝離宮恩賜公園が見える。秋にこの前を通ると自分の耳が難聴になったかと思うほど、昆虫の啼き声が姦しい。
芝離宮恩賜公園
直ぐ前に列車やモノレールが見え、遠くに東京タワーが見える
直ぐ前に列車やモノレールが見え、遠くに東京タワーが見える
おなじみ浜松町駅の小便小僧。ボランティアのグループが定期的に衣装を交換しているそうだ。
小便小僧_1
小便小僧_2

以上で今回の『浜離宮恩賜庭園に行く+α』シリーズはおしまいです。お付き合いいただき有難う御座いました。

 

浜離宮恩賜庭園に行く+α(6)

浜離宮恩賜庭園(6)
鴨場の施設が見られるのは全国で5箇所しかないそうだが、東京では浜離宮恩賜庭園のみ。簡単に見られるものではないようだ。
新銭座鴨場
元溜り
波風一つ立たないし、人間に見られている感じも与えない。カモがゆっくり羽根を伸ばせるような環境にしつらえてある。中の島もその一環だろう。
元溜り_1
元溜り_2
元溜り_3
元溜り_4
元溜り_5
解説イラスト
解説イラスト
大覗
ここから覗きながら鳥の集まり具合や風向きを判断してどの引堀を使うかを決める
大覗
その穴から見た様子
大覗の穴から見た様子
小覗
板木を叩きながらヒエやアワを撒き、飼いならされたアヒルが引堀に入ってくる。それにつられて引堀に水鳥たちも入ってくる。
引堀側から見た小覗。目立たないようにカモフラージュされている。
小覗_1
こちら側から覗いていた。
小覗_2
板木を叩いて囮のアヒルに合図を送った
小覗_3
引堀
鷹匠が確認し、頃合いを見計らって合図を送る。その配下の鷹師たちが配置に付き、鷹でカモを捕まえた。
明治時代は鷹ではなく叉手網(さであみ)でつかまえ、逃げそうに鳴ったものは鷹で仕留めた。あの池は危険だという情報を仲間に知らせないためだったとのことだ。

新銭座鴨場の引堀
引堀_3
庚申堂鴨場の引堀
引堀_2
庚申堂鴨場の引堀
引堀_1
鴨場は、庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つがあります。築造は、前者が1778年、後者が1791年という古いもの。鴨場は池と林を3mほどの土手で囲い、土手には常緑樹や竹笹をびっしりと植え、鴨が安心して休息できるように外部と遮断しました。ここでは池に幾筋かの引堀(細い堀)を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら、稗・粟などのエサとおとりのアヒルで引堀におびきよせ、機をみて土手の陰から網ですくいとるという猟を行っていました。

鴨塚の碑
2つの鴨場では昭和19(1944)年まで鴨猟が行われていた。昭和10(1935)年、宮内省の鷹匠戸部与四郎がカモの供養のために建立したとのことだ。
鴨塚の碑

馬場跡
吉宗がことのほか乗馬習得に熱心だったとのことだ。この頃アラブ種などを導入した。ここではヨーロッパの馬術を練習した。当時の日本の馬術は中央アジア、欧州に比べ遅れていたようだ。それどころか、彼の時代には武士も馬に乗れないものが珍しくなくなっていた。蹄鉄も一緒に入って来たそうだ。
馬場跡

浜離宮恩賜庭園散歩の最後に

浜離宮ユビキタス
庭園めぐりに際して、「携帯端末を使った庭園案内サービス」を無料で利用することができる。50台あるが、絶対に使いたいという人は予約もネットできるとのこと。日本語、英語、中国語繁体、簡体、ハングルの5カ国語対応。
浜離宮ユビキタス

 

浜離宮恩賜庭園に行く+α(5) 2013.02.11 23:12訂正

浜離宮恩賜庭園(5)

築地川沿いに進む

旧・稲生(いなぶ)神社
ご神体がなく神社の機能がないかつての神社って、何のために残してあるんだろうか?暫し考えてしまった。
旧・稲生(いなぶ)神社_1
旧・稲生(いなぶ)神社_2
旧・稲生(いなぶ)神社_3
「旧・稲生(いなぶ)神社は浜離宮庭園内に天明(1781年~1789年)、稲荷神社として建立されました。その後、明治時代に同じ浜離宮庭園内の現在の場所に移転してきたそうです。関東大震災で本殿は破損し、昭和6年に大修理が行われました。残念ながら現在は”ご神体”が無く、神社としての機能はありません。東京都では修復保存しているようです。

牡丹園
牡丹園はまだまだこれからのようだ。冬牡丹などではなく、普通に咲く牡丹のようだ。60種約800株もあるんだと、開花時に再訪する価値がありそうだ。
牡丹園_1
ヒヨドリツグミも牡丹の生育状況が気になるのだろうか…kanageohis1964さんに感謝
牡丹園_2
ぼたん園は60種約800株が植えられており、春には色とりどりの花が優雅さを競っています。

内堀に架かる橋を渡る

三百年の松
確かに見事な松だ。よほど手入れが良いのだろう。
三百年の松_1
三百年の松_2
三百年の松_3
六代将軍家宣が庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられた松。太い枝が低く張り出し、堂々たる姿を誇っています。

延遼館跡
標識の写真部分を拡大したもの
延遼館跡_0
延遼館跡_1
延遼館跡_2
延遼館跡_3
延遼館跡_4
延遼館跡_5
浜離宮大手門を入ったすぐに延遼館跡があります。
今は広い芝生と石灯籠など庭園跡だけが残る延遼館は、明治2年(1869)に落成した我が国最初の洋風建築で、鹿鳴館ができるまでは迎賓館としても用いられ、明治12年、第18代アメリカ大統領グラント将軍が引退後ここに2ケ月も滞在し、明治天皇とも交流を深めたところとして知られています。
当時の建物は明治20年の地震により損壊し取り壊されました。そして今回の東日本大震災で、庭園跡の石灯籠が倒壊したままとなっていました。


内堀に沿って庚申堂鴨場に向かう

内堀
内堀_1
内堀_2
内堀_3
内堀_4
内堀_5
ここにもスライドゲートがあった
ここにもスライドゲートが
内堀から庚申堂鴨場にかけてかなり多数のムクドリを見かけた
ムクドリ_1
ムクドリ_2
ムクドリ_3

庚申堂鴨場
道のあるところからは写真が撮りにくかった。仕方がないので、もう一つの新銭座鴨場の方を撮影することにする。(次回取り上げる)

庚申堂鴨場から新銭座鴨場の方に向かう途中に松の茶屋の前を通る

松の茶屋
対岸から見た様子
松の茶屋
近くから見た様子…ここからだと内部は見えない
近くから見た松の茶屋_1
近くから見た松の茶屋_2

 

浜離宮恩賜庭園に行く+α(4)

浜離宮恩賜庭園(4)
横堀
一旦海手お伝い橋を渡って横堀の様子を見る
ここにもカモが
オナガガモかな。今はカモの狩猟を行なっていないにせよ、元々は鴨場。鴨がいないようでは名が廃るというもの。
オナガガモかな
覗き窓付の土塁
1778年に出来た庚申堂鴨場付近にある鴨猟用の覗き窓付の土塁。目指す鴨場は木々の先にある。
庚申堂鴨場付近にある鴨猟用の覗き窓付の土塁_1
庚申堂鴨場付近にある鴨猟用の覗き窓付の土塁_2
庚申堂鴨場付近にある鴨猟用の覗き窓付の土塁_3
カワウらしい
カワウらしい_1
カワウらしい_2
横堀水門
水門_1
水門_2
水門_3
水門_4

海側の様子(2)
将軍お上がり場
当時のままに残っている史跡で、将軍が隅田川から浜御殿に来た時や、舟遊びの休息の際に立ち寄られた時などに使用された。明治元年(1869)1月12日未明、最後の将軍徳川慶喜は大阪から軍艦開陽丸で江戸に戻り、この場から上陸して騎馬にて江戸城へ向かった場所でもある。
将軍お上がり場_1
将軍お上がり場_2
ユリカモメ
近くを東京臨海新交通臨海線ゆりかもめが走っているが、本家本元はこちらだ
ユリカモメ_1
ユリカモメ_2
灯台跡
いくら江戸時代でも灯台くらいはあったんだ
灯台跡

築地川沿い
水上バス発着所
水上バス発着所_1
水上バス発着所_2
水上バス発着所_3

 

浜離宮恩賜庭園に行く+α(3) 2013.02.09 16:22追記

浜離宮恩賜庭園(3)
浜離宮とその周辺の地図
浜離宮周辺地図
海側の様子(1)
海側とされてはいるが、この部分を海というのはちょっと無理がある気がしないでもない。地図を見れば、主張する意味がお分かりいただけるかもしれないが、場所的には隅田川の河口付近で、池の水は海水と言うよりは真水と混じった汽水だ。
黒松
内湾との池泉との境には黒松が植栽されて、潮風を防いでいる。見事な枝振りだ。これらの松が身を挺しているお蔭だろう、池泉の岸には、潮風に弱いはずのイロハモミジが元気に生育している。これらが相俟って、池泉はさざなみが立ちにくく綺麗な水面となっているようだ。
黒松_1
黒松_2
黒松_3
黒松_4
内湾の様子
東京湾という内湾の内にあるごく小さな内湾
内湾の様子_1
内湾の様子_2
内湾の様子_3
内湾の様子_4
内湾の様子_5
隅田川の河口に向かって切れ込みが入っていて、ここから船が出入りする
隅田川河口に向かっての切れ込み_1
水上バスもこのように出入りする
隅田川河口に向かっての切れ込み_2
隅田川河口に向かっての切れ込み_3
大木も
大木も
海手茶屋跡
竹で囲われたあたりにあったとのこと。残念なことに、関東大震災で焼失した。今見えるのはお台場のフジテレビの建物くらい。海手茶屋は別名汐見の茶屋といい、宝永4年(1707)、6代将軍徳川家宣が、舟遊びや漁夫達の漁の様子を見る為に建てた休憩所。
海手茶屋跡_1
海手茶屋跡から海側を見た様子
海手茶屋跡_2
さらに目を凝らして見たら
海手茶屋跡_3
外の水門
池の水の量を調節する水門とは別に、この辺りの高潮被害を防止するために隅田川や東京湾に向かって水門が設置されている。浜離宮側からは写真が撮れなかったので、紹介しているHPのURLを下記に記しておく。
築地川水門から船舶が出入りする。必要以上に川の水が流入してこないように設置角度を考えているようだ。汐留川水門からは出入りしないと思われるが、こちらから流入する水の方が塩分濃度が高くなるだろうと思われる。


紹介しているHPへjump

 

浜離宮恩賜庭園に行く+α(2)

浜離宮恩賜庭園(2)
お伝い橋と中島の御茶屋
潮入の池の岸と中島を結ぶ、お伝い橋。中島には「中島の御茶屋」があり、水の面に映える橋と茶屋の姿は、風趣に富んでいます。かつては、眺めもよく、海のかなたに房総を望め、夕涼みや月見に使われたようです。現在の御茶屋は、昭和58年に再建され、抹茶を楽しむことができます。
お伝い橋
お伝い橋_1
お伝い橋_2
お伝い橋_3
お伝い橋_4
小の字島
小の字島_1
小の字島_2
小の字島_3
小の字島_4
中島の御茶屋
中島の御茶屋_1
中島の御茶屋_2
中島の御茶屋_3
中島の御茶屋_4
中島の御茶屋_5
中島の御茶屋_6
中島の御茶屋_7
中島の御茶屋_8

 

浜離宮恩賜庭園に行く+α(1)

芝離宮恩賜庭園程近くはないが、それでも会社から歩いて15分くらいしか離れていない浜離宮恩賜庭園に行ったことがなかった。
定年後の生活にもある程度慣れ、少し行きたいところを回り始めた。その一環として、今回は浜離宮恩賜庭園に出陣した。


浜離宮恩賜庭園(1)
潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この潮入りの池や池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。
この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。

下図の通り四方を水路に囲まれている。その内の南東側は海に面しているとも隅田川に面しているとも言えるところであるが、一応海水が入ってくるということになっている。潮の満ち干によって池の趣を変えるほど長い時間いたわけではないので、断言はできないが大分様相が変わるのだろう。
浜離宮周辺地図の地図。南の水面が隅田川の河口で東京湾になる辺り
浜離宮周辺地図
浜離宮のイラスト
浜離宮案内図

潮入の池
都内では唯一の海水の池。東京湾の水位の上下に従って水門を開閉し、池の水の出入りを調節しています。池にはボラをはじめ、セイゴ、ハゼ、ウナギなどの海水魚が棲んでいます。池の周囲に配置された岩や石にはベンケイガニやフナムシがはいまわり、フジツボがついています。また、池の上空にはカモメの舞う姿がみられます。
池の様子
潮入りの池の様子_1
潮入りの池の様子_2
潮入りの池の様子_3
池の奥に見える方が海側になる
潮入りの池の様子_4
潮入りの池の様子_5
潮入りの池の様子_6
潮入りの池の様子_7
潮入りの池の様子_8
潮入りの池の様子_9
潮入りの池の様子_10
潮入りの池の様子_11
潮入りの池の様子_12
頭部が焦げ茶で、胸は黒く、羽根は白く、尾のあたりが黒。これらの特徴からホシハジロだと思うが、こちらのへなちょこ望遠レンズをあざ笑うかのような距離で、加えて寒さのためか変な格好をしていたので、判断には自信がない。
ホシハジロ
外国人の方が目立つほど
外国人観光客の姿が目立つ
松の茶屋はこちら側からしか見えない
松の茶屋

 

江戸東京たてもの園(18)

W7田園調布の家(大川邸)(でんえんちょうふのいえ)

1925年(大正14)郊外住宅地の一つである大田区田園調布に建てられた住宅です。
居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されています。また、当時としては珍しく全室洋間となっています。
[大田区田園調布四丁目/1925年(大正14)]


建てたのは当時の鉄道省の土木技師大川栄氏で、創建当初は、夫婦と子ども2人、お手伝いさんの合計5人で住んでいたそうだ。当時は殆ど無かっただろう全館洋室の建物で、モダンな生活を楽しんだのだろう。
田園調布の家(大川邸)_1
田園調布の家(大川邸)_2
田園調布の家(大川邸)_3
田園調布の家(大川邸)_4
田園調布の家(大川邸)_5
田園調布の家(大川邸)_6
田園調布の家(大川邸)_7
我が家にも同じミシンがあった
田園調布の家(大川邸)_8
田園調布の家(大川邸)_9
田園調布の家(大川邸)_10
田園調布の家(大川邸)_11
都市ガスで沸かすポットのようだ。骨董品もいいところ。
田園調布の家(大川邸)_12
超モダンなキッチン。当時の主婦垂涎の的だったのでは。
田園調布の家(大川邸)_13
田園調布の家(大川邸)_14
田園調布の家(大川邸)_15
田園調布の家(大川邸)_16
田園調布の家(大川邸)_17
田園調布の家(大川邸)_18
田園調布の家(大川邸)_19

 

星薬科大学(3)

薬用植物園の温室。商業施設の温室はお客様に見てもらうことを前提としているので、見易く写真が撮り易く設計されているだろうが、ここはそういう気遣いはしていない。飽くまでも研究用である。
ということで、こちらも気になったもので写真が比較的撮り易い位置にあるものを中心に撮ってみた。


バニラ
細いインゲン豆のような形状のものが、なんとも言えず甘い香りを放っていた。ランの一種であるとかで、言われてみればなかなかの美形だ。
バニラ_1
バニラ_2
バニラ_3
ピナンガクーリー
幹の上部から葉柄にかけてアイボリー色なのが特徴の珍しいヤシ
ピナンガクーリー
カカオ
果実は約6か月で熟し、長さ15-30センチメートル、直径8-10センチメートルで幹から直接ぶら下がる幹生果で、カカオポッドと呼ばれる。形は卵型が多いが、品種によって長楕円形、偏卵型、三角形などで、外皮の色も赤・黄・緑など多様である。中に20から60個ほどの種子を持ち、これがカカオ豆 (cacao beans)となる。種子は40-50%の脂肪分を含む。果肉はパルプと呼ばれる。
収穫期は産地によって異なるが、概ね年2回で乾期と雨期に行われ、収穫された果実は果皮を除いて一週間ほど発酵させ、取り出されたカカオ豆は、ココアやチョコレートの原料とされる。

カカオ_1
カカオ_2
カカオ_3
ゴレンシ
果樹を水平にカットすると星形になるそうで、スターフルーツと呼ばれるとのこと。かなり派手な外観だ。美味しいかどうかは、かじってみたわけではないので断定はできないが、美味しそうに見えた
スターフルーツ( star fruit、carambola 、学名: Averrhoa carambola )は、カタバミ科ゴレンシ属の常緑の木本。和名は五歛子(ごれんし)。
ゴレンシ
キセロサイキオス
クセロシオキスと表示されているものもあるが、同じものだろう。何だかよくわからないが、金のなる木よりもまん丸い多肉の葉っぱをつけていた。
キセロサイキオス

サンジャクバナナ
三尺バナナだから通常のバナナよりは小ぶりなのだろうが、それでも堂々とした『体格』を誇っていた
サンジャクバナナ_1
サンジャクバナナ_2
カエンボク
和名ではカエンボクだが、African Tulipの名前の方がぴったりの花木だそうだ。残念ながら花を見ることはできなかった。世界3大花木の一つ。他の2種はジャカランダ、ホウオウボク。
カエンボク
ショウベンノキ
枝を切るとくさい樹液が出てくるのでこの名が付けられたそうだ。
ショウベンノキ

 

星薬科大学(2)

露地植栽のものはまだまだこれからなので、今の時期に見られるものは殆ど無い。予めご承知おき頂きたい。

オオアラセイトウ
星薬科大学の校花に指定されている品種だそうだ。校花指定の経緯は標識記載の通り。
オオアラセイトウ_1
オオアラセイトウ_2
ラベンダー
こんなふうに標識が付けられている
ラベンダー_1
ラベンダー_2
イソギク
まだかすかに花が残っていた
イソギク
杜仲
樹皮も葉も、今の私の身体には必要不可欠の薬になる。もらって帰りたいほどの有用な樹木だ。
トチュウの樹皮は「杜仲」という生薬名があり、医薬品として扱われる。これは腰痛、足腰の倦怠感解消、頻尿、肝機能・腎機能の強化、高血圧に効果があるとされる。
葉を煎じた杜仲茶は、血圧の降下や肝機能の機能向上に効果があるとされる(なお、葉は効能を謳わない限り食品扱い)。

杜仲
アーティチョーク
何だかアザミに似ていると思ったが、その通りだった。和名は朝鮮アザミ
アーティチョーク
サフラン
花が咲いているところを見たかった
サフラン
イヌサフラン
葉も何も見えていなかった。標識だけ。花はサフランに似、葉は行者にんにくに似ているようだ。後者の葉を行者にんにくと誤認して中毒症状を起こす事例があるようだ。
イヌサフラン

『自然毒のリスクプロファイル:高等植物:イヌサフラン』へjump

シナマオウ
風邪などのときに効き目がありそうだが、…
シナマオウ

カイソウ(海葱)
ごく普通にさり気なく『有毒植物』の表示がある。
流石に園内に猛毒のトリカブトは植えられていないと思ったのだが、調べてみると、ハナトリカブトが植えられているそうだ。紫の美しい花だ。ただし、不心得者が悪用するのを避けるために、表示を外してあるとのこと。ヒメウズ(姫烏頭)も植えてあるとのことだ。
カイソウ(海葱)_1
カイソウ(海葱)_2

薬用植物園の概要
薬用植物は人類誕生の太古から人々の病気や健康維持に利用されてきました。現在でもその重要性は変わらず、医療に直接用いられたり、医薬品の製造原料として盛んに利用されています。また新しい医薬品を開発する資源としても欠かせません。薬用植物園はこうした植物を収集・栽培し、薬学的研究や啓蒙活動を行う施設で、一般には薬草園といい慣わされています。
本学薬用植物園は品川区荏原(えばら)にある大学キャンパス内に付設されており、約3000平方メートルの広さに薬用を中心とした有用植物約800種が栽培されています。大学構内に設置されているところから、本校学生が直接生きた教材で学べるだけでなく、都心には他にこのような施設が見られないところから、学外の方々にも広く利用されています。
園内はおおまかに樹木園、水生植物園、標本園、野草園、温室などに区分けされ、よく知られた民間薬や漢方薬、あるいは医薬品の原料となる重要な植物が見学できます。なかには有毒植物や染料、繊維、油糧、食用などに供する植物も栽培されています。温室内には熱帯産の薬用植物が集められていますが、時にはスパイス原料やトロピカルフルーツをつけた植物を目にすることもあるでしょう。これらの植物にはいずれもラベルがつけられており、植物名や薬効・成分などが紹介されています。
薬用植物は人類の永い歴史の中から見出されたもので、いわば人類共通の貴重な文化遺産ともいえます。本園でも、こうした先人たちの知恵と植物からの恩恵を大切に受け止めていきたいと考えています。

 

星薬科大学(1)

星薬科大の薬草植物園を見せて貰いたいと思って行った。しかし、今の時期、特に露地のものは殆ど見るべきものがなかった。そちらは次回以降取り上げることにして、今回は本館やその中にある大壁画などを中心に取り上げることにする。

創立者星一先生
創立者星一先生
星薬科大の創立者星一先生は、我が郷里いわきが誇る偉人だ。
福島県には野口英世もいたが、野口はお金と女性とにだらしがなかったといわれ、破滅型の人生を歩んでいたようだ。その彼を米国時代の星一が支えていたらしい。帰国後、星製薬を設立し星薬科大学を創立した。
SF作家の星新一は彼の息子だ。『明治・父・アメリカ』という著作に父親のことが詳しく書かれている。


本館
階段が一切ないつくりに驚いた。著名な設計家アントニン・レイモンドの手になるものだ。もうちょっと丁寧に見学し記録しておくべきだった。
星製薬商業学校大講堂(現本館)の設計者は、アントニン・レイモンド(Antonin Raymond)である。レイモンドはチェコ生まれで、米国に帰化し、フランク・L・ライトに師事して来日し帝国ホテル建設に当たった。以来、戦前と戦後に計44年間日本で暮らし、関東大震災も経験している。アメリカでも有名な建築家である。
    :
星一は若き日に米国ニューヨークのコロンビア大学に留学したが、コロンビア大学ローホールに似せて設計を依頼した。そのため八角形の星型アーチなど全体のおおまかな姿は似ている。

レイモンドが設計した本館_1
レイモンドが設計した本館_2
レイモンドが設計した本館_3
アール・デコ様式の館内
アール・デコ様式の館内_1
アール・デコ様式の館内_2
アール・デコ様式の館内_3
アール・デコ様式の館内_4
アール・デコ様式の館内_5

大壁画
星薬科大学の本館正面玄関両側スロープの壁画4幅は、星薬学専門学校設立3周年記念として制作された。創立者星一の提案による。完成は戦時中の1943(昭和18)年5月であった。当時の星製薬株式会社おかかえの6人の画伯(関口隆嗣、清原重以知、服部亮英、内藤隶、笹岡了一、笹鹿彪)による時代考証研究ののち、推古時代における「薬狩」「鹿茸狩」を如実に表現し、心血を注いで描かれた大作である。
大壁画_1
大壁画_2
大壁画_3
大壁画_4

 

東京駅ビルを見に行く(6)

今回の東京駅見学+αの最後に、皇居東御苑に行ってみた。以前に気になったところのおさらいをしてみる。

皇居正門石橋旧飾電燈
これだけ、江戸城ゆかりのものではないのに展示してあった。何故、この場所にあるのだろうか?
皇居正門石橋旧飾電燈

百人番所
任務についていた4組の内、伊賀組、甲賀組、根来組の3組は名称通り忍者集団であることは明白だが、『二十五騎組』という組がどうしてもわからなかった。あちこち調べてやっと分かった。黒田二十五騎組で、「酒は飲め飲め、飲むならば、日の本一のこの槍を、飲み取るほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」に出てくる母里太兵衛友信も当初のメンバーの一人だったようだ
百人番所
江戸城の正門である大手門から本丸に入る最大の検問所が、百人番所です。ここには、伊賀組、甲賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組がそれぞれ同心百人ずつを配して鉄砲隊を組織し、江戸城の護りを固めていたので、百人番所と呼ばれています。
なお、当初は下記のような本来の伊賀、甲賀、根来等の忍者、あるいは黒田二十五騎のような剛の者の集まりであったが、それが組の名前として存続していったと思われます。

伊賀組:伊賀上野(三重県上野市)の服部氏が率いる伊賀武士の集団で、家康により召抱えられ、徳川幕府のために諸大名の内情を探ったり、江戸城下の治安を警護したりした。伊賀組同心を支配していたのが、服部半蔵であり、江戸城の半蔵門は、伊賀者が警護しており、服部半蔵の名に因んでその名が付けられた。なお、松尾芭蕉も伊賀上野の出身であり、隠密であったという説もある。定かではないが、「奥の細道」も密偵の旅であったかもしれない。
甲賀組:滋賀県の南東部(滋賀県甲賀市)の甲賀武士の集団で、伊賀組同様、家康に召抱えられ、江戸城の警護に当たっていた。地理的に伊賀上野と隣り合っており、当時は甲賀流、伊賀流という忍術の2大流派を形成していた。
根来衆:紀州根来(和歌山県那賀郡)の根来寺の僧兵を中心とした紀州の鉄炮軍団。信長の時代から活躍していたが、秀吉の根来攻めにより敗北した。しかし、その後徳川幕府の下で警護の任にあたったようである。8代将軍吉宗は、紀州から連れて来た者を「お庭番」として活用したが、これは伊賀や甲賀の忍者とは別といわれている。もしかすると根来衆かもしれない。

黒田二十五騎組:秀吉の命によって九州を平定した黒田如水(官兵衛)は、その後徳川家康に仕えたが、如水の下には、黒田長政以下二十五騎の強兵がいた。これが「黒田二十五騎」である。有名な後藤又兵衛や母里太兵衛(黒田節で有名)もその内の1人である。

富士見櫓
前回納得のいく写真が撮れなかったので、リベンジしたがかわりばえがしないかな。
昔は富士山や海の眺望を楽しんだそうだが、今だったら一段低いところにある当時の西の丸、今の皇居がよく見えるはず。当然のことだろうが、なかに入ることを許すわけはなかろう。ということで目隠しの役を果たしている。

当初、太田道潅が「精勝軒」と呼ばれた櫓を作り、富士山や海の眺望を楽しんだといわれていますが、富士見櫓は、その跡地に作られました。富士見櫓は、高さ15.5mほどの三重の櫓で、万治2年(1659年)に再建されたものが今に残っています。江戸城の建物の中では、現存する貴重な建物です。また、富士見櫓を支える石垣は、自然石をそのまま積み上げた堅牢な「野づら積み」だそうです。
富士見櫓

二の丸庭園
菖蒲田
今の時期は菖蒲田の水が抜かれている。ある時期になると水が張られ、やがて開花を迎える。花が旬の時期は相当に混雑することだろう。
菖蒲田_1
菖蒲田_2
菖蒲田_3
菖蒲田_4
シモバシラ
ここにも植えられていた。だが、残念なことに霜柱は融けてしまっていた
シモバシラ_1
シモバシラ_2

 

東京駅ビルを見に行く(5)

和田倉噴水公園にて
ロウバイ
いたるところで開花の時期を迎える頃だが、ここでも見事に花を咲かせていた。見かけの強さに負けないほどの強い芳香があった。
何故か広角レンズで撮ってみたくなり、思い切り近づいて撮った。出来上がりを見たら、望遠レンズで撮るべきだったかなと思った。(;_;)

ロウバイ_1
ロウバイ_2
天皇陛下御製を金子鴎亭が書いた石碑
平成3年歌会始のお題は『森』だった。その年の天皇陛下御製
いにしへの人も守り来し日の本の森の栄えを共に願はむ
天皇陛下御製を金子鴎亭が書いた石碑
皇后陛下の御歌は次の通り
いつの日か森とはなりて陵(みささぎ)を守らむ木木かこの武蔵野に

公園内外の様子
公園内外の様子_1
公園内外の様子_2
公園内外の様子_3
公園内外の様子_4
公園内外の様子_5
公園内外の様子_6

皇居外苑
巽櫓(桜田二重櫓)
巽櫓は、別名「桜田二重櫓」ともいわれています。石落としとしての役目を果たす出窓や、弓や鉄砲を撃つ狭間という隙間があり、敵の攻撃に対処するために作られた櫓です。
巽櫓_1
巽櫓_2
巽櫓_3
巽櫓_4

桔梗門
三の丸に入る南門で、江戸時代は内桜田門(うちさくらだもん)が正式名称で、桔梗門(ききょうもん)は通称でした。桔梗門の名称は、太田道灌(おおた・どうかん)の桔梗紋の屋根瓦がこの門に残っていたから、など諸説あるようです。
桔梗門_1
桔梗門_2

 

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4月15日(土)は、所属団体の年度総会開催で、私からのアクセスはかなり遅れると思います。大変申し訳ありません。m(_ _)m

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