散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

コーヒーを淹れる

珈琲屋さんになるつもりはさらさら無いが、プロの手順を見て少しは美味しいコーヒーを淹れられるようになりたいと強く思う。それで、いつも目を皿のようにして見ている。そして、たまに写真を撮らせてもらう。店の人にすれば鬱陶しい客なのかもしれないが。

淹れる手順
大体は、次のような手順でやるようだ。
1)注文を受けたらカップとソーサとを用意する。
2)カップにお湯を注ぎ温める。
3)該当の豆を必要な分量だけ取り出し計量する。
たいていは一発で決まるようだ。
該当の豆を必要な分量だけ取り出し計量_1
該当の豆を必要な分量だけ取り出し計量_2
4)それを挽く。
豆を挽く
5)挽き終わった豆をネルの濾し袋に入れる。
6)小さな鍋に落ちるようにして、注ぎ口のごく細いケトルを使い、注ぎ始める。
ゆっくり時間をかけて淹れる。ケトルから注がれるお湯はどのくらいの温度だろうか?珈琲豆が踊る様から判断して、結構熱いお湯を使用しているように思う。
注ぎ口のごく細いケトルを使い、ゆっくり注ぐ_1
注ぎ口のごく細いケトルを使い、ゆっくり注ぐ_2
注ぎ口のごく細いケトルを使い、ゆっくり注ぐ_3
注ぎ口のごく細いケトルを使い、ゆっくり注ぐ_4
注ぎ口のごく細いケトルを使い、ゆっくり注ぐ_5
注ぎ口のごく細いケトルを使い、ゆっくり注ぐ_6
注ぎ口のごく細いケトルを使い、ゆっくり注ぐ_7
7)小さな鍋に落ちたコーヒーをカップに注ぎやすい口の尖った鍋に移す。
小さな鍋に落ちたコーヒーをカップに注ぎやすい口の尖った鍋に移す
8)カップのお湯を捨てる。
9)カップにコーヒーを入れて出来上がり。
カップにコーヒーを入れて出来上がり
10)注ぎ口のごく細いケトルに、大きなケトルから適温のお湯を補充しておく。


道具の一部
道具の一部_1
道具の一部_2
道具の一部_3
道具の一部_4
道具の一部_5

1年の最後の最後までお付き合いいただき、大変有難う御座いました。また、来年もアクセスしてください。

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(8)

荒崎にて(3)
再びバス停の位置まで戻る
アオサギとコサギ・ダイサギ
『爺さん、風邪を引かないうちに、早いところバスに乗って帰りなよ』とでも言いたげに、お別れのミニ飛翔を披露してくれた。
アオサギとコサギ_1
アオサギとコサギ_2
アオサギとコサギ_3
アオサギとコサギ_4
アオサギとコサギ_5
アオサギとコサギ_6
アオサギとコサギ_7
アオサギとコサギ_8
アオサギとコサギ_9
アオサギとコサギ_10
アオサギとコサギ_11
此処から先はダイサギのようだ。
ダイサギ_1
ダイサギ_2
ダイサギ_3
ダイサギ_4
ダイサギ_5
ダイサギ_6
ダイサギ_7
ダイサギ_8
アオサギとコサギ_9

船舶引き上げ用の巻き上げ装置
船舶引き上げ用の巻き上げ装置

以上で、荒崎までの小遠征シリーズはおしまいです。最後までお付き合いいただき有り難うございました。

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(7)

荒崎にて(2)
さすがに三浦半島の突端に近い場所だけあって、それなりに風は吹いているが、決して強風&波浪の状況ではない。波の砕け散るさまはそれほど迫力があるわけではなかった。もう少し強い風が吹くと、富士山もはっきり見えただろうし、波も豪快に砕け散っただろうに、それが見られなかったのがちょっぴり残念。
潮騒の丘からの眺めの続き
潮騒の丘の下の岩礁
潮騒の丘の下の岩礁_1
潮騒の丘の下の岩礁_2
潮騒の丘の下の岩礁_3
潮騒の丘の下の岩礁_4
潮騒の丘の下の岩礁_5
潮騒の丘の下の岩礁_6
潮騒の丘の下の岩礁_7
潮騒の丘の下の岩礁_8
潮騒の丘の下の岩礁_9
潮騒の丘の下の岩礁_10
潮騒の丘の下の岩礁_11
潮騒の丘の下の岩礁_12
潮騒の丘の下の岩礁_13
海水浴場方面
先まで行けば海水浴に適した砂浜があったのを漸く思い出した。空いているところを狙って、いつも危ない岩礁の辺りで泳いでいた。今考えるとちょっと無謀だったかも
海水浴場方面

展望デッキからの眺め
潮騒の丘の下の岩礁
潮騒の丘の下の岩礁_1
潮騒の丘の下の岩礁_2
潮騒の丘の下の岩礁_3
潮騒の丘の下の岩礁_4
潮騒の丘の下の岩礁_5
どんどんびき
どんどんびき
展望デッキ
展望デッキ_1
展望デッキ_2
展望デッキと弁天島にかけての岩礁
展望デッキと弁天島にかけての岩礁_1
展望デッキと弁天島にかけての岩礁_2
展望デッキと弁天島にかけての岩礁_3
展望デッキと弁天島にかけての岩礁_4
展望デッキと弁天島にかけての岩礁_5
十文字洞
波の力によって穴があいているが、その穴が内部で十字に交差しているのだそうだ。歩道が壊れていて中に入れなかったのが残念。
>十文字洞_1
>十文字洞_2

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(6)

荒崎にて(1)
いよいよ荒崎だ。
荒崎シーサイドコース
この海岸の特徴は、白い頁岩(けつがん)と黒い凝灰岩(ぎょうかいがん)が層を成す海蝕台と海蝕洞にある。どんな様子かは以下の写真をご覧いただきたい。
荒崎シーサイドコース
潮騒の丘からの眺め
夕日の丘の下の岩礁
夕日の丘には行きそびれた。しかし、潮騒の丘と隣り合っているので、直下の岩礁はよく見ることができた。釣り人がちょっと危険な岩場で頑張っていた。大丈夫なのかなあ
夕日の丘の下の岩礁_1
夕日の丘の下の岩礁_2
夕日の丘の下の岩礁_3
夕日の丘の下の岩礁_4
夕日の丘の下の岩礁_5
夕日の丘の下の岩礁_6
亀城礁灯標
かなり沖合にあるのだが、黄黒黄の目立つ灯標。確かに設置場所あたりに波が立っていて、海面の色も変わっている。ということから急に浅瀬になっていることがわかる。この先には富士山が見えるのだが。その様子は下記URLから確認されたい。
灯標:船舶が岩礁、浅瀬等の障害物を確認する時の目標。障害物上に設置。
亀城礁灯標_1
亀城礁灯標_2

亀城礁灯標の精細な写真があるHPへjump

江ノ島を望む
江ノ島を望む

城山(荒崎山)
『潮騒の丘』という洒落た名前がついているが、元々は『荒崎山』と呼ばれていたようだ。
嘉永3年(1850)頃、彦根藩が台場を築いた所で、異説もあるが古くは三浦一党、荒次郎義澄の居城長井城の跡であったとのこと。

城山(荒崎山)の潮騒の丘_1
城山(荒崎山)の潮騒の丘_2
1051年(永承5年)前九年の乱(陸奥阿倍の乱)の働きにより、村岡為通は衣笠を領して居城とし、初めて三浦の姓を使用し、三浦の初代となる。
1180年(治承4年)8月26日の衣笠合戦(畠山重忠等武蔵七党との戦い)で衣笠城が落城し、4代目の三浦大介(おおすけ)義明は討死する。三浦大介義明の次男 三浦荒次郎義澄らは、落城前に安房に逃れ、石橋山の戦いで逃れた源頼朝と合流し、やがて兵を立て直して平家を滅ぼし、三浦一族は鎌倉幕府創設の礎となった。


どんどんびき
幅3m、奥行き20mの三方を崖に囲まれた入り江。深く切り込んでいるので轟音を響かせ打ち寄せる波がどんどんひいていくことからこの名前が付いたそうだ
どんどんびき

潮騒の丘の下の岩礁などメインになる景色は、長くなるので次回以降に取り上げる

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(5)

バスの終点付近
熊野神社
漁業関係者は漁の安全を祈って、必ず神様へ祈る。この神社もそういう信仰の対象なのだろう。境内からは、遠く江ノ島も望めた。目の前の入り江は漆山湾。この辺から荒々しい岩礁が少し見られるようになってくる。
熊野神社_1
熊野神社_2
熊野神社_3
熊野神社_4
熊野神社_5
熊野神社_6
熊野神社_7
熊野神社_8

アラサキシップヤード
本当に船を置く+αだけのところのようだ。
アラサキシップヤード_1
アラサキシップヤード_2
アラサキシップヤード_3
アラサキシップヤード_4
アラサキシップヤード_5
アラサキシップヤード_6
アラサキシップヤード_7

荒井漁港付近
漁網
漁網
多分穴子を撮るための仕掛け
多分穴子を撮るための仕掛け
漁港の様子_1
漁港の様子_2
漁港の様子_3
漁港の様子_4
漁港の様子_5
漁港の様子_6
漁港の様子
江ノ島
江ノ島

次回から、最終目的地の荒崎に

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(4)

長井港ほか
漁港の様子
沿岸漁業の小さな漁船ばかりだが、かなりの数の船がある。一攫千金の獲り方は出来ないだろうけど、それが資源を枯渇させなかった理由なのだろう。寂れた漁港でないのが何よりだ。
漁港の様子_1
漁港の様子_2
漁港の様子_3
漁港の様子_5
漁港の様子_6
漁港の様子_7
漁港の様子_8
漁港の様子_9
アオサギとコサギ
確かに魚はいるのだろう。アオサギとコサギが待機しているのが何よりの証拠だろう。彼らは水に浮いていることが出来ないから、こういうところに陣取っているのだろうか?アオサギとコサギって、海水魚も狙うんだ。
アオサギとコサギ_1
アオサギとコサギ_2
アオサギとコサギ_3
アオサギとコサギ_4
アオサギとコサギ_5
アオサギとコサギ_6
アオサギとコサギ_7
アオサギとコサギ_8
アオサギとコサギ_9

 

クリスマスイブ

クリスマスイブのミサに与りにカトリック碑文谷教会(サレジオ教会)に行ってきた。今年は、16:00,19:00,22:00,24:00の4回行ったそうだ。私はこの内のお子様向け、16:00の回に参加した。ミサの様子を堂々と撮るわけには行かないので、コンデジだけを持って出かけた。途中で落としてしまったり、日が落ちてからの外の様子はまるで撮れなかったり、いろいろうまくいかなかった。
ミサは超満員だった。時間内に聖堂が満員になるのは日本ではあまりないことで、この日ばかりはお隣り韓国のカトリック教会のような熱心さだった。19:00以降の回の方は毎年超すし詰めになるのが通例で、入りきれない人も出るほどだ。今年もそうだったと思う。

カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)
聖堂
聖堂_1
聖堂_2
聖堂_3
聖堂_4
ステンドグラス
ステンドグラス
イブにふさわしい降誕のシーン
パイプオルガン
パイプオルガン
中2階に設置されているパイプオルガン。かなり大きな音が堂内に鳴り響く。カメラの方向から向かって左側に聖歌隊席がある。私もかつては歌っていた。
蝋燭
蝋燭
司式台上に4本、司式台前にも4本用意されている。待降節の期間中、主日ごとに1本ずつ灯していった蝋燭が4本全部灯されて、いよいよ降誕を迎える準備が整ったという事を示している。
聖体拝領の行列
聖体拝領の行列_1
聖体拝領の行列_2
かなりの行列だ。信徒数もかなり増えたようだ。
ミサ終了後
ミサ終了後
かなり混み合っている

我が家の様子
家内に重病人がいるので、極めて質素に済ませた
我が家の様子_1
我が家の様子_2
我が家の様子_3
我が家の様子_4
我が家の様子_5
我が家の様子_6

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(3)

荒崎に向かう途中の道で
今回は途中目についたものだけ取り上げる。海岸線に関するテーマでなくて申し訳ない。
カモ
ヒドリガモかな?_1
ヒドリガモかな?_2
ヒドリガモかな?_3
富浦公園脇を流れる堀割で。モヒカン刈りの部分がはっきり見えたわけではないので、ちょっと迷うもののヒドリガモかな?
温かいところだからなのかな
フウセントウワタ(風船唐綿)の実_1
フウセントウワタ(風船唐綿)の実_2
フウセントウワタ(風船唐綿)の実
アロエの花
アロエの花
美味しそうな野菜
この辺は、三浦市と地境ではあるが、三浦キャベツ、三浦大根という名前で出荷しているのだろうか?
キャベツ_1
キャベツ_2
キャベツ
大根
大きくて太い三浦大根の系統だ。青首大根ではない。

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(2)

長井荒崎地図

富浦公園
上掲の地図A地点から歩き始めてすぐのところにある富浦公園に立ち寄った。なかなか景色のよい公園だ。正面は小田和湾。
富浦公園から真正面方向
公園から右側方向を望む
突端は佐島マリーナ。更にその奥はるか先に江ノ島がある。
富浦公園から右側方向_1
富浦公園から右側方向_2
富浦公園から右側方向_3
富浦公園から右側方向_4
富浦公園から右側方向_5

富浦公園から右側方向_6
富浦公園から右側方向_7
公園から左側方向を望む
長井地区の街並み。見えている辺りはまだ荒崎ではない。突端近くのマンションの上部あたりにかすかに富士山が見えているがお分かりだろうか。雲のように白く見える。
富浦公園から左側方向_1
富浦公園から左側方向_2
富浦公園から左側方向_3
遠く江ノ島を望む
佐島マリーナの先に江ノ島を望む。ちょっと霞んでしまったのが残念。
遠く江ノ島を望む_1
遠く江ノ島を望む_2
遠く江ノ島を望む_3
遠く江ノ島を望む_4
更に遠く富士山を望む
左側方向の相模湾越しに霞んでいる富士山を望む。
霞んでいる富士山_1
霞んでいる富士山_2
前田夕暮の歌碑
東海道線の車中でばったり出遭った北原白秋とその足で城ヶ島に行き、その後、長井に立ち寄ったようだ。その時に詠んだ一首。『宵あさき 長井往還 行きにつつ 村湯の明り なつかしみけり』
前田夕暮の歌碑

 

ヴェルニー公園~長井~荒崎海岸(1)

もしかしたら、横須賀市民でも荒崎海岸を知らない人が少なくないのでは。横須賀市の市域は東京湾側が多い。しかし、相模湾に面している地域もなくはない。葉山町の長者ヶ崎よりも先は横須賀市であり、最も三浦市寄りの地区が長井地区である。その一番奥まったところに一部写真家の間では有名になっている荒崎海岸がある。
今回は初日にちょっとだけヴェルニー公園に立ち寄り、2日目に荒崎入り口から長井地区を荒崎公園まで歩いて海岸線の様子を楽しんだ。


ヴェルニー公園
京急の汐入駅に降り立ったら、ホームからイージス艦が2隻見えた。あの位置に見えるのは非常に珍しい。もしかしたら、米軍の艦船大集結かと思ったら、大当たりだったようだ。寒かったので、ヴェルニー公園から望遠レンズでちょっと撮るだけにした。
ヴェルニー公園から丸見えの位置にイージス艦が2隻係留されているのは、非常に珍しい。他の係留場所が満杯だから、仕方なく目立つところにしたのだろう。北朝鮮のミサイル打ち上げ騒動が収束して、漸く一息吐きに大挙して戻ってきたのだろう。

『ジョン・S・マッケイン』と『マクキャンベル』_1
『ジョン・S・マッケイン』と『マクキャンベル』_2
『ジョン・S・マッケイン』と『マクキャンベル』_3
『ジョン・S・マッケイン』と『マクキャンベル』_4
『ジョン・S・マッケイン』と『マクキャンベル』_5
アーレイバーク級ミサイル駆逐艦 DDG56 『ジョン・S・マッケイン』 8,315t (イージス艦)
アーレイバーク級ミサイル駆逐艦 DDG85 『マクキャンベル』 9,200t (イージス艦)

先ほどの2隻以外にも6隻の上部が見える
先ほどの2隻以外にも6隻の上部が見える
左端:艦名不明
左端:艦名不明
真ん中左:DDG89 『マスティン』&真ん中右:艦名不明
真ん中左:アーレイバーク級ミサイル駆逐艦 DDG89 『マスティン』 9,200t (イージス艦)
真ん中右:艦名不明

右側3隻:艦名不明
右側3隻:艦名不明

おうみ(AOE-426)
おうみ(AOE-426)は、海上自衛隊の最新型の補給艦。ましゅう型補給艦の2番艦。
全長が221.0mの大型の艦船だ。大きいと思っていたヘリコプター搭載護衛艦ひゅうがの197mと比べてもはるかに大きく、巨大さがわかろうというもの。外洋で他の艦船に給油等を行うのだから、大きいのは当然なのだが。

2006年3月、テロ対策特別措置法に基づき、護衛艦「いなづま」と共にインド洋に派遣。同年7月まで任務に従事した。
2008年1月16日、新テロ特措法が成立。
2008年1月24日、護衛艦「むらさめ」と共にインド洋に派遣、2月21日から補給活動を再開する。同年5月まで任務に従事した。
2009年7月22日、新テロ特措法に基づき佐世保を出港、「DD-114 すずなみ」とは途中で合流しインド洋に派遣され、任務を終え同年12月23日に帰港する。

 

圓融寺

目黒区碑文谷にある圓融寺。このお寺さんの辿った歴史は非常に興味深い。圓融寺HPの記事を抜粋すると次のようである。

経王山文殊院圓融寺は、今から約1150年前、平安時代の仁寿3年(853)、慈覚大師による創建と伝えられる天台宗の古刹。
草創当時は法服寺と名付けられたが、鎌倉時代の弘安6年(1283)に、日蓮上人の高弟である日源上人によって日蓮宗に改宗され、寺号も法華寺と改められた。この日蓮宗時代は江戸中期までの約400年間続き、寛永年間前後には江戸近郊屈指の名刹として知られた。しかし、法華経の信者以外に布施を受けず・施さないという、いわゆる不受不施派の主義が幕府の忌諱にふれるところとなり、第19世日附上人が八丈島に流刑され法華寺は取り潰しにあう。
こうして、元禄11年(1698)に再び天台宗に改宗され、はじめは東叡山寛永寺の末寺、のちには比叡山延暦寺の末寺に属した。やがて天保5年(1834)には円融寺と名が改められて現在に至っている。


上がったり、下がったり、エレベータの如き寺院だ。現在の圓融寺住職は天台宗の宗務総長を務めているようで、幕府により天台宗の寺の改宗させられ、それも末席を汚すという扱いからは、だいぶ寺格が上がってきたようだ。

円融寺山門
0山門
この門は原邦造氏の好意により、品川御殿山の同邸正門を移築せるもの。築造は天保四年元播磨国美囊群三木和田の某寺の山門で、工匠黒田重兵衛常久、瓦匠勝清が作ったという銘がある。明治三十年三月先代六郎氏が還暦記念に移し、数度の火難にも焼失を免れた。今回圓融寺大門となり、”山門三遷”して所を得たと言われる。江戸期の建築としては最秀であり、現在東京に於ても五指に屈する名門の一つである。

仁王門
本堂の前にある、四間に三間、当初は足利時代の建築によるものであるが、徳川時代に、殆んど改造に等しい修理が加えられたため甚しく原形を損した。
仁王門_1
仁王門_2
仁王門_3

釈迦堂(国指定重要文化財)
釈迦堂(国指定重要文化財)_1
釈迦堂(国指定重要文化財)_2
都内では2番目に古い木造建築。唐様に和様の美を取り入れた単層、入母屋造りの美しい屋根の線を見せている円融寺本堂釈迦堂がそれだ。中世建築の資料として貴重なこの建物は、建造物としては目黒区内唯一の国指定重要文化財である。釈迦堂の建立は室町時代初期といわれている。

日源聖人の法塔
日源聖人の法塔
釈迦堂の横、高さ一丈余の五輪石層、寛永十三年八月十世日瑞、日宗開基日源聖人供養のために建立したもの。

その他の写真
阿弥陀堂_1
阿弥陀堂_2
その他_1
その他_2
その他_3

法華寺の繁栄と衰退(目黒区のHPから)
室町時代、日蓮宗はいくつかの門派に分かれ、本寺を中心にそれに従属する末寺を支配していた。碑文谷法華寺は、地域的には池上本門寺に近かったが、この教団には属さず、むしろ自ら本寺として多くの末寺を従属させていた。10世日瑞上人のとき、寺運は頂点に達し、坊舎18、末寺75に及んだ。門前には露店が軒を連ね、参詣する老若男女がひきもきらず、大変なにぎわいであったという。元禄以前においては、碑文谷村民のほとんどが檀徒であった。
室町時代に威勢を示していた日蓮宗は、江戸時代に入ると各派が分立して、紛争が激しくなっていた。早くから関東における不受不施派の統率者であった法華寺は、寛永7年(1630年)、受不施を唱える身延山と対決したが、徳川氏一門の身延山に対する擁護もあって、不受不施は邪義とみなされ、多くの上人が処罰された。
不受不施とは、法華経の信者以外からは供養を受けず、またほどこしも行わないというもので、日蓮宗本来の純粋な法華信仰をたもつための宗門の規則である。
一時、不受不施派は赦免された時期もあったが、寛文5年(1665年)、幕府の朱印状書替を機会に弾圧が厳しくなり、大禁圧が加えられた元禄11年(1698年)、19世日附上人のときに法華寺は取りつぶされ、再び天台宗に改宗することになったのである。
改宗後、法華寺と村民との間には、檀家の離散とともに種々の紛争が起き、法華寺の権威も衰えていった。天保5年(1834年)3月には今の経王山円融寺と改称された。

 

江戸東京たてもの園(4)

丸二商店(荒物屋)(E10)
昭和初期に建てられた荒物屋です。小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴です。
店内は昭和10年代の様子を再現しています。裏手には長屋も移築し、それとともに路地の様子も再現しています。
[千代田区神田神保町三丁目/昭和初期]


関東大震災後、不燃建築が奨励された。その一つに、正面にタイルや銅板を張ったり、モルタルで塗り固めて、燃えにくい工夫をした建物がある。正面から見るとまるで一枚の看板のようで、それをキャンパスに見立てて、自由にデザインするところから『看板建築』と呼ばれているもの。この丸ニ商店もその典型だ。銅板の貼り方に5通りあり、しかもその文様は、江戸小紋のパターンであるらしいとのこと。
「亀甲」
「亀甲」
「杉綾目」
「杉綾目」
「青海波」
「青海波」
「網代」
「網代」
「一文字」
「一文字」
当時は3階建てが公認されていなかったが、お目こぼしのやり方があった。その指導(当時の許可監督官庁は警視庁だったとのこと)に従った部分的に3階建ての建物だ。
丸二商店の外観_1
丸二商店の外観_2
背後に長屋を2軒持つ裕福な商店だったようだ。
背後に長屋を2軒持つ
店内の様子を再現した展示
店内の様子を再現した展示

なおこの建物は、宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」で、両親が豚に変えられてしまう場面があったが、そのイメージを考える際にモデルにしたようだ。

別のテーマを先に取り上げるため、この『江戸東京たてもの園』関連の記事は今後飛び飛びに取り上げる予定です。

 

江戸東京たてもの園(3)

旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)(C2)

私も鮮やかな彩色・彫刻に目を奪われた一人。なんて綺麗な霊屋なんだろうと思った。
自証院霊屋は、三代将軍徳川家光の側室であった「お振りの方(おふりのかた)」を祀った霊廟。江戸時代初期の慶安5年(1652)、新宿・市ヶ谷の円融寺自証院に建てられました。
東京都指定有形文化財(旧都重宝)の第1号に指定された建物で、現在は東京・小金井の江戸東京たてもの園に移築されています。
全体に日光東照宮などを髣髴とさせる鮮やかな彩色・彫刻が施されており目を奪われますが、建築的なプロポーションも端正で、その質は高く評価されています。
これを建てた工匠は、江戸幕府作事方大棟梁・甲良豊前守宗清であり、江戸幕府の正統な血筋を引く建物といってよいでしょう。


外観
外観_1
外観_2
外観_3

向拝、正面御扉、虹梁、蟇股
蟇股を最初、墓股だと誤認していた。どの部分かお分かりか。ど真ん中にあるのでお気づきかと思うが。
向拝、正面御扉、虹梁、蟇股_1
向拝、正面御扉、虹梁、蟇股_2


やや詳しく説明してあるサイトへjump

 

江戸東京たてもの園(2)

西川家別邸(C4)
北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てたものです。
多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、よく吟味された部材が使われています。
[昭島市中神町二丁目/1922年(大正11)]

隠居所及び接客用に建てたというのが頷ける枯れた感じの佇まいだった。
西川家別邸_1
西川家別邸_2
西川家別邸_3
西川家別邸_4
西川家別邸_5
西川家別邸_6
西川家別邸_7
隣接する吉祥寺時代の會水庵を描いた作品が、西川家別邸に掛けられていた。
吉祥寺時代の會水庵を描いた作品

会水庵(C6)
宗偏流の茶人、山岸宗住(会水)が立てた茶室です。
1957年(昭和32年)、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築しました。本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室です。
[杉並区西萩北五丁目/大正期頃]

祖母が使っていた茶室も似たようなものだった。宗偏流の好みのものだろうか。
西川家別邸の茶室のように見える位置に建っているが、元々は関係のない建物同士が敷地を有効活用しているようだ。

会水庵_1
会水庵_2
会水庵_3
会水庵_4
会水庵_5
会水庵_6

伊達家の門(C5)
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門です。〈起り屋根(むくりやね)〉の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。
総欅(けやき)造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の木彫りの家紋が施されています。
[港区白金二丁目/大正期]

旧宇和島藩伊達家が大正時代に建てた屋敷の門がこんなに立派だったとは。旧華族はそれなりに処遇されていたのだろうか。
伊達家の門_1
伊達家の門_2
伊達家の門_3
伊達家の門_4
伊達家の門_5

 

江戸東京たてもの園(1)

高橋是清邸(C3)

びっくりするほど大きな家でも小さな家でもない。時の総理大臣にもなった人物だが、大蔵大臣としての活躍のほうが人々の記憶に残る。そして、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺されるという非業の最期を遂げた。
高橋是清は赤坂御所に対面する青山通り沿いに、敷地約2千坪の広大な屋敷を構えていた。邸宅跡は現在、高橋是清翁記念公園として整備されており、建物の一部は江戸東京たてもの園に移築されて公開されている。その建物が一連の写真のもの。
赤坂にあった高橋邸には、母家に繋がる建物が存在したそうだ。それを西川家別邸に見立てて復元してあるとのこと。

明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分です。
総栂普請(そうつがぶしん)で、洋間の床は寄木張りになっています。2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11)の2・26事件の現場になりました。
[港区赤坂七丁目/1902年(明治35)]


高橋是清邸
高橋是清邸_1
高橋是清邸_2
高橋是清邸_3
二・二六事件で是清が暗殺された2階寝室
是清が暗殺された2階寝室_1
是清が暗殺された2階寝室_2
一行書『不忘無』
少年ながら渡米した後、現地で騙されて奴隷として売り飛ばされた是清。何もない、無から出発した是清が、政界の実力者となっても自分の原点を忘れないよう、『無を忘れず』という一行書を認め、自らを戒めていたようだ。
一行書『不忘無』
在りし日の是清
在りし日の是清

高橋是清(たかはしこれきよ、1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉-1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の武士、官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年〈大正10年〉11月13日-1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。内閣総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。

島田荘司のデジカメ日記第180回へJUMP

 

近所の光景

暦上の季節が冬になった。最近の近所の様子を撮ってみた。
少しずつ、冬の色が出てきた感じだ。(すべてコンデジで撮影)

イチョウは一足先に散り始めた
カエデや灯台躑躅の紅葉はかなり遅れたが、イチョウは順調に黄葉し、そして折りからの強風に煽られてドンドン散っていた。ちょっと前までは銀杏の実の饐えた臭いが堪らなかったというのに、今度は落ち葉を放置すると、歩いたときに油脂成分で滑ってかなり危険だ。おまけにイチョウの葉は地中に埋めてもなかなか腐らないくらいだから、放置していても徐々に色を失うような便利な状態にはならない。それだけ生命力が強いのだろうが、人間にとっては後始末が厄介なものだ。
イチョウは一足先に散り始め_1
イチョウは一足先に散り始め_2

紅葉は大分遅れて
冬になってから漸く少し赤みを増したようだ。落葉前にほんの僅かでも赤くなる時期がないと、東京に住む人たちの季節感が狂ってしまう。
灯台躑躅
カエデ

カモは1種類増えていた
この時期の碑文谷公園の池にはカモが泳いでいる。前回見た時には、カルガモとキンクロハジロしかいなかった。今回はマガモも到着していた。浮いている葉と大きさを比較すれば、それぞれの鳥の大きさがわかるだろう。キンクロハジロは群を抜いて小さくて可愛い。マガモは見た目が綺麗な鴨だ。どこでみても、つがいの仲の良さは一目瞭然だ。我が夫婦はどうだろうか?カルガモは、留鳥である所為か見飽きた感じで、特別な感想が湧いてこない。ゴメンな、カルガモさん。
カルガモ_1
カルガモ_2
キンクロハジロ_1
キンクロハジロ_2
マガモ_1
マガモ_2
マガモ_3
マガモ_4

フォックスフェース見つけた
ごく近くのお宅の門前でもフォックスフェースが鉢植えされているのを見つけた。やはり何度見てもオブジェにしか見えない。
フォックスフェース

 

秩父夜祭_H24(11)

夜祭のメインである笠鉾・屋台行列(5)

本町屋台
本町地区の所有する屋台。後幕が子供の玩具でその中にあるだるまが特徴的であり、運行組織は達磨会と呼ばれる。明治・大正時代までは二重勾欄をもつ屋台であったが、転倒事故後、今の勾欄になる。
本町屋台_1
本町屋台_2
本町屋台_3
本町屋台_4
本町屋台_5
本町屋台_6
本町屋台_7
本町屋台_8

全笠鉾・屋台の集結
御旅所内の人数の凄さが花火に照らされてよく分かる。左側に屋台4基が陣取り、右側に笠鉾2基が陣取っている。
全笠鉾・屋台の集結_1
全笠鉾・屋台の集結_2
全笠鉾・屋台の集結_3
全笠鉾・屋台の集結_4

おしまい
笠鉾や屋台の轍の跡がすざましい
おしまい_1
おしまい_2
この日ばかりは遅くまで営業してくれて、凍てつきそうになった体を温め、ほっと一息つくことができた。
おしまい_3

11回に及ぶ連載にお付き合いいただき、大変ありがとうございました。

 

秩父夜祭_H24(10)

夜祭のメインである笠鉾・屋台行列(4)

上町屋台
四台の屋台の中で、一番大きな屋根を持つ。後ろ幕は、鯉の滝登り。運行組織は「い組」と呼ばれ屋台町会の中での屋台のすれ違いは見ものである。
四方に唐破風を持つ四つ棟造りの屋台は、この上町屋台のみ。非常に華やかだ。他の屋台は前後に唐破風を持つのみ。
上町屋台_1
上町屋台_2
上町屋台_3
上町屋台_4

中町屋台
四台の屋台の中で最も大きな屋台。屋根の鬼板(彫り物)は大きく美しい。下方(運行組織)は中町屋台保存会青年部が運行している。6屋台町会の中で唯一、恵比寿の幕、鯛の幕の2枚の後幕を持ち、12月2日、3日と違う後幕を見る事ができるのもこの町会の特徴である。
屋根の上に載せた降雨に備えてのビニールシートが何とも目障りで、それが印象を損ねた感じに思えた。
中町屋台_1
中町屋台_2
中町屋台_3
中町屋台_4
中町屋台_5

 

秩父夜祭_H24(9)

夜祭のメインである笠鉾・屋台行列(3)
宮地屋台
宮地地区(上宮地・中宮地・下宮地)の屋台。この地域は秩父神社に習合される前の妙見宮があったところとされ(現在は妙見塚)、そのために宮地(みやじ)と呼ばれる。秩父夜祭の屋台の中では最古の歴史をもち、かつ登り高覧がないなど最も古い原型を残している。御神幸祭の際には3番目に曳行される山車でそのため他町会の屋台と違い曳踊りでは必ず三番叟が上演される。妙見七ツ井戸の伝説に従い、屋台倉から3日の神社への宮入までに七回曳踊りを行う風習があるなど妙見菩薩に最も縁が深い山車である。
プロは投光器で照射しながら至近距離から映像を記録していたようだ。あの位置は団子坂を上るシーン撮影のベスト地点のようだ。邪魔が一切入らない。昨年はこの反対側に専用の櫓が建てられていたが、今年はあったのだろうか?
宮地屋台_1
宮地屋台_3
宮地屋台_4
宮地屋台_5
宮地屋台_6
宮地屋台_8
宮地屋台_10
宮地屋台_11

 

秩父夜祭_H24(8)

夜祭のメインである笠鉾・屋台行列(2)

下郷笠鉾
下郷地区(金室町、永田町、柳田町、阿保町、大畑町、滝の上町)の6町会が所有する山車。以前は桜木町も含み下郷七村といわれた。鉾をつけると高さ約16メートルになり関東地区では最大の山車である。 現在のものは電線の高架によって屋形をつけたもので3代目の笠鉾である。屋形をつける際に笠鉾の部品も散逸してしまい笠鉾の部分も含めほぼ新造建築に近い。白木作りの屋形が特徴であるが、本来は朱塗りの屋形になるはずであった。天道・波形石台・万灯に3層の花笠をもち総重量は20トンともいわれている、他の山車とくらべて漆塗りや彩色をしていないが、二段屋根等で組木が多い。
ずっと気づかなかったが、この下郷笠鉾のみが二段屋根になっている。他の笠鉾や屋台はすべて屋根は一段のものだ。
下郷笠鉾_1
下郷笠鉾_2
下郷笠鉾_3
下郷笠鉾_5
下郷笠鉾_6
下郷笠鉾_7
下郷笠鉾_9
下郷笠鉾_10
下郷笠鉾_12
下郷笠鉾_13
下郷笠鉾_14
下郷笠鉾_15
下郷笠鉾_17

笠鉾・屋台の方向転換
上町屋台のみがキリン方式(ジャッキ方式)による方向転換を行う。この方式は屋台の重心のかかる部分にキリンと呼ばれるジャッキをあてがい、これで回転させる。そのため、屋台が傾ぐことはない。
他の笠鉾や屋台はギリ方式という方法を用いて行う。下記のやり方で行う。方向転換の初めと終わりとの2回、ちょっと驚くほど笠鉾・屋台が傾ぐ。


ギリ棒(心棒)方式(下記URLの説明を一部改変)
京都・祇園祭の辻回し(つじまわし)と呼ばれる山鉾の90度方向転換作業は、秩父では「ギリ廻し」と呼ばれる別の方式で行い、一つの見所となっている。長さ約7m、幅20cmの二本の角材を屋台の前後どちらかに差し入れ、馬(支点になる台)を梃子に約20人が呼吸を合わせて角材に体重をかけ車輪を持ち上げる。
屋台の片方が20度ほど浮き上がったところで、屋台の下にギリ棒(心棒)を置き、台車の回転中心をギリ棒に嵌め込み、屋台がギリ棒に乗って浮き上がったところで、屋台の各部に何人かずつぶら下がり、水平を保ちながら、みんなで押して90度旋回させた後、再度二本の角材で車輪を浮かせてギリ棒を取り去り、もとの四輪車となって曳行する。

詳しい写真と説明がある和田フォトへjump

 

秩父夜祭_H24(7)

御神幸祭
御神幸行列
大真榊
大真榊
神輿
神輿_1
神輿_2
神輿_3
神馬
神馬_1
神馬_2

秩父神社例大祭は、妙見菩薩(女神とされている、天之御中主命)がお旅所に置かれた妙見菩薩(北斗七星)に関係ある亀の子石(玄武)で武甲山に住むとされる龍神(男神とされる)と年1回12月3日に逢い引きする祭りとされており、神幸祭は神輿が神社からお旅所へ渡御する。神幸行列がお旅所に到着すると、亀の子石の背中に幣束が立てられ、その前に神輿が置かれる。秩父神社~亀の子石~武甲山~北斗七星が一直線上の位置にあるといい、妙見菩薩~玄武(亀の子石)~北斗七星の関係に因むものであろう。

神幸祭がお旅所へ着いたあと、付け祭として、6台の屋台・笠鉾が市街地を巡行してお旅所前に勢揃いする。

夜祭のメインである笠鉾・屋台行列(1)
上記の通り、御神幸祭を見てきたが、付属の祭りとして、その6台の屋台・笠鉾の巡行がある。
位置付けは付属の祭りだが、実質的にはメインの行事となる。
以下、出発順に紹介していく。

中近笠鉾
中村町・近戸町の2町会が管理する笠鉾。御神幸祭の際に最初に曳行する(そのため、山車を引く際の運行組織は一番組の名称がつけられている)。秩父夜祭の中では一番古い歴史をもつ山車で、初代は屋台・2代目は笠鉾であった。現在の屋台笠鉾形式ものは3代目である。
中近笠鉾_1
中近笠鉾_2
中近笠鉾_3
中近笠鉾_4
中近笠鉾_5
中近笠鉾_6
中近笠鉾_7
中近笠鉾_8
中近笠鉾_9

 

秩父夜祭_H24(6)

今回は、夜祭のメインである笠鉾・屋台行列に花を添えた花火を取り上げる

花火大会
コメントは一切行わない。もっと綺麗だろうと思われるものもあったが、上空は無風で煙がうまく流れず、残念ながらメインのかなりの花火の撮影機会を逸してしまった。自然現象なので致し方ない。
花火_01
花火_02
花火_03
花火_04
花火_05
花火_06
花火_07
花火_08
花火_09
花火_10
花火_11
花火_12
花火_13
花火_14
花火_15
花火_16
花火_17
花火_18
花火_19
花火_20
花火_21
花火_22
花火_23
花火_24
花火_25
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花火_27
花火_28
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花火_30
花火_31
花火_32
花火_33
花火_34
花火_35
花火_36
花火_37
花火_38

次回以降は夜祭のメインである笠鉾・屋台行列を取り上げる

 

秩父夜祭_H24(5)

昨2011年の市内曳行の様子(2)
前回に引き続き、昨年の市内曳行の様子を取り上げる。
屋台と屋台とのスレ違い
上町屋台と本町の「ダルマの屋台」とのスレ違い
屋台と屋台とのスレ違い_1
屋台と屋台とのスレ違い_2
屋台と屋台とのスレ違い_3
屋台と屋台とのスレ違い_4
屋台と屋台とのスレ違い_5
屋台と屋台とのスレ違い_6
足で押し合って微妙に間隔をあける
屋台と屋台とのスレ違い_7
屋台と屋台とのスレ違い_8
屋台と屋台とのスレ違い_9
屋台と屋台とのスレ違い_10
屋台と屋台とのスレ違い_11
屋台は左側の上町屋台の方が若干大きいようだ
屋台と屋台とのスレ違い_12
屋台と屋台とのスレ違い_13
屋台と屋台とのスレ違い_14
屋台と屋台とのスレ違い_15
屋台と屋台とのスレ違い_16

後幕
それぞれ自慢のものだ
上町屋台
上町屋台後幕
本町屋台
本町屋台後幕

 

秩父夜祭_H24(4)

昨2011年の市内曳行の様子(1)
今年はツアーのスケジュールで市内曳行に間に合ったのは中近笠鉾のみだった。これでは不十分なので、代わりに私が撮影した昨年のものを2回にわたってご覧いただく。
上町屋台の市内曳行
屋台の横幅が、6基の中で一番広く、後幕は鯉の滝登り。高さ約6.5m~6.7m、重さ約12~15トン
上町屋台の市内曳行_1
上町屋台の市内曳行_2
上町屋台の市内曳行_3
上町屋台の市内曳行_4
上町屋台の市内曳行_5
上町屋台の方向転換
秩父夜祭の6基の山車のうち、上町屋台のみキリン方式(ジャッキ方式)による方向転換。その画像は撮れなかったが、YouTubeなどで確認できる。ギリ方式よりスムーズに行われる感じだ。
上町屋台の方向転換_1
上町屋台の方向転換_2
上町屋台の方向転換_3
上町屋台の方向転換_4
上町屋台の方向転換_5
上町屋台の方向転換_6
上町屋台の方向転換_7
上町屋台の方向転換_8
上町屋台の方向転換_9
上町屋台の方向転換_10
上町屋台の方向転換_11
上町屋台の方向転換_12
上町屋台の方向転換_13
上町屋台の方向転換_14
上町屋台の方向転換_15
上町屋台の方向転換_16

 

秩父夜祭_H24(3)

待機中の笠鉾・屋台
下郷笠鉾
笠が取り外された状態。特別曳行時のフル装備にはなっていない。また、夜祭のメインである笠鉾・屋台行列のための提灯もこの時点では据え付けられていない。
笠鉾なので正式な形はこの上に三層の笠がつき、高さは15.5メートル、建物の高さで約4階建てになる。しかし、大正3年(1914)の電線架設によって正式の形で曳くことができなくなり、中近笠鉾と同様に笠を取り外した状態で曳かれている。屋型のみで約7メートル。重さは約20トン。

下郷笠鉾
特別曳行時(10/07)の晴れ姿
下郷笠鉾_特別曳行時(10/07)の晴れ姿_1
下郷笠鉾_特別曳行時(10/07)の晴れ姿_2
下郷笠鉾_特別曳行時(10/07)の晴れ姿_3
本町屋台
夜祭のメインである笠鉾・屋台行列のための提灯はこの時点では据え付けられていない。
本町屋台_1
刺子半纏姿が粋だ
本町屋台_2
本町屋台_3
秩父市長の激励があったとき
市長激励

市内曳行の様子
日中なので、提灯などは装着していない。
中近笠鉾
笠が取り外されているので、当然花飾りもなく、非常に地味な外観になっている。
中近笠鉾_市内曳行_1
中近笠鉾_市内曳行_2
中近笠鉾_市内曳行_3
中近笠鉾_市内曳行_4
中近笠鉾_市内曳行_5
中近笠鉾_市内曳行_6
中近笠鉾_市内曳行_7
9801,06,12,17,27,35,39
特別曳行時(10/07)の晴れ姿
高さがまるで違うのがわかる
中近笠鉾_特別曳行時(10/07)の晴れ姿_1
中近笠鉾_特別曳行時(10/07)の晴れ姿_2

 

秩父夜祭_H24(2)

西武秩父駅から秩父神社までの道筋
秩父神社までの道筋_1
秩父神社までの道筋_2
秩父神社までの道筋_3
手前側と奥側とではかなりの段差がある。この団子坂で重い笠鉾や屋台を引き上げるのが一つの大きな見せ場となる。かすかに見えているこの部分の西武電車の架線は、笠鉾や屋台が進入する際の邪魔になるので19:50以降は取り外される。
秩父神社までの道筋_4…奥は団子坂
いなせな外套を纏ったヤンママ。あれは刺子半纏というものだろうか?
秩父神社までの道筋_5…刺子半纏というものだろうか?
秩父神社までの道筋_6秩父神社までの道筋_7
猪牛豚肉のみそ漬で有名な肉の安田屋。撮り損ねてしまったが、店舗建物は国登録有形文化財だそうだ。店先には何とも凄いものが陳列されていて、路行く人達の度肝を抜く感じだった。
秩父神社までの道筋_9…ギョギョッ
小池煙草店。この建物も国登録有形文化財
秩父神社までの道筋_10…小池煙草店
秩父神社までの道筋_11
秩父神社までの道筋_12

宮地屋台の屋台曳き踊りの撤収作業
到着が遅かったので、曳き踊りには間に合わなかった。
宮地屋台は秩父最古の歴史を有し、登り勾欄のない古い形をとどめ、秩父屋台の中では最も端正な形をしているといわれる。水引幕は緋羅紗に飛鶴の刺繍。後幕には青地羅紗に赤い髪の3匹の猩々が刺繍されている。天井には飛天が極彩色に描かれている。秩父屋台の天井は原則として墨絵の雲龍なので、宮地屋台は異色の存在。

宮地屋台の屋台曳き踊りの撤収作業_1
欄干の下のスペースに笛や太鼓の連中が入り込む。目隠しに幕が張られる。
宮地屋台の屋台曳き踊りの撤収作業_2
曳行のためのしつらえに戻った
宮地屋台の屋台曳き踊りの撤収作業_3

秩父神社の様子
秩父神社の例大祭であるから、多くの方が参拝していた。
秩父神社の様子_1
秩父神社の様子_2
秩父神社の様子_3
神幸行列の先頭を行く神輿
神幸行列の先頭を行く神輿_1
神幸行列の先頭を行く神輿_2
子育ての虎
子育ての虎
瓢箪から駒
瓢箪から駒
北辰の梟
北辰の梟
つなぎの龍
つなぎの龍
秩父神社神楽
秩父神社神楽_1
秩父神社神楽_2

秩父神社神楽_3
秩父神社神楽_4

 

秩父夜祭_H24(1)

12月3日(月)に秩父夜祭が賑々しく実施された。その様子をまずはダイジェストで見てみよう。

夜祭本番
御旅所へ向かう屋台
団子坂を上った瞬間の屋根が一番大きい上町屋台
御旅所へ向かう屋台
お旅所でのギリ廻し
テコの原理を応用したギリ廻しで方向転換中の本町の「ダルマの屋台」
お旅所でのギリ廻し
勢ぞろいした屋台
勢ぞろいした屋台
勢ぞろいした笠鉾・屋台の頭上に打ち上げられた花火
左側に陣取るのが屋台4基で、右側に陣取るのが笠鉾2基。笠鉾は、特別曳行時の正式のしつらえではなく、笠を省略した通常曳行用のしつらえだ。
勢ぞろいした笠鉾・屋台の頭上に打ち上げられた花火

花火
花火_1
花火_2
花火_3
花火_4
花火_5
花火_6
花火_7

日中の様子
秩父神社神楽
秩父神社神楽_1
秩父神社神楽_2
市内曳行中の中近笠鉾
特別曳行時の正式のしつらえではなく、笠を省略した通常曳行用のしつらえ
市内曳行中の中近笠鉾
飾り置き屋台での市長を囲む記念撮影
飾り置き屋台での市長を囲む記念撮影

秩父を舞台にしたTVアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』という作品があった。私の大好きな作品だったが、このアニメ作品が劇場版として来年公開されるそうだ。会場内で、このことをかなりPRしていた。大人でも十分楽しめる内容のはずだ。よろしかったら、映画館に足を運んでみたら如何だろうか。

 

新宿御苑にて(4)

大温室
大温室_1
大温室_2
以前の温室

11月20日(火)から、開放することになったようだ。直後に入れるなんて、幸運なことだった。
最後の大温室の分は、一部スマホのカメラで撮影した画像になる。屋外がものすごく冷え込んでいるのに比べ、異常なほど高温多湿状態なのだ。1周したらOKかと思ったらそんな甘いものではなかった。


一眼レフで撮った分
ソフトフォーカス処理をしたように見えるが、高温高湿のところでレンズが曇りっぱなしになってしまったためで、特殊な処理は施していない。
ホシザキスイレンかな?
ホシザキスイレンかな?_1
ホシザキスイレンかな?_2
アカバナスイレンかな?
アカバナスイレンかな?_1
アカバナスイレンかな?_2
オオオニバス
オオオニバス_1
オオオニバス_2
オオオニバス_3
オオオニバス_4
オオオニバス_5
サンタンカ
サンタンカ_1
サンタンカ_2
サンタンカ_3
アフェランドラ・ダニア
アフェランドラ・ダニア


スマホのカメラで撮った分
リベンジで撮ったものだが、ズームをきかせると画質が落ちるので、ズームはきかせていない。
ビカクシダ(麋角羊歯)
ビカクシダ(麋角羊歯)_1
ビカクシダ(麋角羊歯)_2
モクビャッコウ(木百香)
モクビャッコウ(木百香)
ススキノキ
ススキノキ
アフェランドラ・ダニア
アフェランドラ・ダニア

 

新宿御苑にて(3)

旧洋館御休所
開放日が毎日ではなく、行った日は残念ながら入館できる日ではなかった。そのため、外から見るだけ。
旧洋館御休所_1
旧洋館御休所_2
旧洋館御休所_3
旧洋館御休所_4
旧洋館御休所_5
旧洋館御休所_6
国・重要文化財(2001.11.14)
竣工:1896年(明治29年)
所在地:東京都新宿区内藤町11
新宿御苑内
設計:宮内省内匠寮
構造:木造平屋建て、スレート葺・鉄板葺
建築面積:480.1平米

この建物は、温室を訪れる皇族の御休所として建設されたもので、明治・大正期の皇室関係の庭園休憩施設として唯一の遺構です。1860年代から1890年代にかけてアメリカで流行したスティック・スタイルを基調とした、現在では希少な洋風木造建築物です。
戦後、新宿御苑管理事務所として1994年(平成6年)まで利用され、その後保存改修工事が行われ、現在は一般公開されています。


旧御涼亭(台湾閣)
これぞ台湾の建物という感じの建物。ここで皇族たちが前の景色を愛でながら涼をとられた、一種の四阿なのだろう。
透かし窓の字は『於物魚躍』(ああ満ちて魚躍れり)とのことだ。人民から敬慕された古代中国・周の国の文王について、「文王が王宮の池にあれば、魚たちも集まり喜び跳ねる」という天子を賛美した詩文あるのだそうだが、それが書かれている。
私には最初の2文字がわからなかった。もちろん、意味するところもちんぷんかんぷん。
旧御涼亭(台湾閣)_1
旧御涼亭(台湾閣)_2
旧御涼亭(台湾閣)_3
旧御涼亭(台湾閣)_4
透かし窓
旧御涼亭(台湾閣)_5
旧御涼亭(台湾閣)_6
旧御涼亭(台湾閣)_7
旧御涼亭(台湾閣)_8
旧御涼亭(台湾閣)_9
都選定歴史的建造物
竣工:1927年(昭和2年)10月
所在地:東京都新宿区内藤町11
新宿御苑内
設計:森山松之助
施工:横溝豊吉
構造:木造平屋建て、本瓦葺

この建物は皇太子(後の昭和天皇)御成婚記念として台湾在住邦人の有志から贈られたものである。旧御休息所の平面形状に卍形のモチーフが見られるなど、清朝中期以降の台湾で用いられた建築様式(中国南方のピン南建築様式)の特徴が現れている。
わが国では、大倉集古館(1927年築、東京都港区虎ノ門)と並ぶ本格的中国風建築物である。
平成の保存改修工事では、屋根まわりの形状を創建時の姿に復元するとともに、耐震補強を行い、あわせて、破損・腐朽部の修繕を実施した。




 

新宿御苑にて(2)

紅葉の様子(2)
上の池
上の池は、紅葉を愛でるよりかは、庭園としての見事さを愛でる池のようだ。何とか全体が収まるような超広角のレンズが欲しくなるような景観だった。
上の池_1
上の池を望む位置にある楽羽亭
上の池_2
上の池_3
上の池_4
上の池_5
上の池_6
上の池_7
上の池_8
上の池_9
上の池_10
上の池_11
上の池_12
あまりに寒く、高遠藩内藤家時代からあるという玉藻池と玉川園とをパスしてしまった。フランス式整形庭園、イギリス風景式庭園などとともに暖かくなってから再訪したいと思う。

カモ
御苑で私が確認できたのは3種
マガモ
マガモ_1
マガモ_2
マガモ_3
マガモ_4
マガモ_5
マガモ_6
マガモ_7
マガモのエクリプスか
マガモのエクリプスか
キンクロハジロ
キンクロハジロ
カルガモ
カルガモ_1
カルガモ_2
カルガモ_3

 

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