散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

飛鳥山公園(3)

都電荒川線(1)

飛鳥山~王子駅前は、数学の∫記号のような曲がり具合になっている。渋沢史料館見学の後、暫く眺めていた。この区間は専用軌道でないいわゆる道路を走行しているので、当たり前だが交通信号順守だ。この区間を通り抜けるのは結構時間が掛かる感じだ。

飛鳥山モノレール乗車直前に通行していった都電(ここでは番外扱い)
いわゆる道路区間なので、角度によってはレールが見えにくい。
モノレール乗車直前に通行していった都電_1
モノレール乗車直前に通行していった都電_2

飛鳥山付近
『ご姉弟物語』というTVアニメ作品の冒頭で、都電荒川線の実写シーンが大写しになる。孫に見せるために録画したアニメで私が嵌っても仕方がないが、妙に印象に残った。そのあたりがここだ。
飛鳥山付近_1
飛鳥山付近_2
飛鳥山付近_3
飛鳥山付近_4
飛鳥山付近_5
飛鳥山付近_6
飛鳥山付近_7
飛鳥山付近_8
飛鳥山付近_9
飛鳥山付近_10
飛鳥山付近_11
飛鳥山付近_12
飛鳥山付近_13
飛鳥山付近_14
飛鳥山付近_15

長くなるので続く

 

飛鳥山公園(2)

渋沢史料館
入り口脇にある渋沢栄一の胸像
入り口脇にある渋沢栄一の胸像
史料館本館
日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一(1840~1931年)の全生涯にわたる資料を収蔵、展示している。興味のある人にはそれなりに面白いものだろうが、大立身出世物語を延々とやられるわけで、退屈に思う向きも少なからずいることだろう。
史料館本館_1
史料館本館_2

青淵文庫
国の「重要文化財」に指定された大正期の建物で、鉄筋コンクリート・煉瓦造、2階建て。晩香廬ほどこじんまりとしているわけではないが、約330平米とそれほど大きな建物ではない。当初予定していた書斎としての使用は、工事途中に発生した関東大震災の発生で、収蔵予定の書籍の殆どを焼失したため、当初はこれを断念し、主に接客用に使用したようだ。
青淵文庫_1
青淵文庫_2
青淵文庫_3
青淵文庫_4
青淵文庫_5
青淵文庫_6
青淵文庫_7
青淵文庫_8
青淵文庫_9
青淵文庫_10
青淵文庫_11
青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一の傘寿と、男爵から子爵に昇格したお祝いを兼ねて竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)が贈呈した文庫で、1925(大正14)年に竣工しました。
建設中の1923(大正12)年、関東大震災に遭い建物の一部は被害を受けました。また、2階書庫に収蔵する予定であった「論語」をはじめ多くの漢籍も保管先で焼失しました。震災後、建物は震災の経験を生かし再工事が行われ、主に接客の場として使用されました。
建物の内外には、渋沢家の家紋「丸に違い柏」をもとにデザインした装飾タイルやステンドグラスが配されています。建物の名称は、栄一の雅号から名付けられました。


晩香廬
国の「重要文化財」に指定された大正期の建物で、木造瓦葺き平屋建てで約72平米とごく小さい洋風茶室。バンガローとも読めるネーミング。ゆっくり落ち着ける建物で、多忙な身の気分転換にこよなく愛した建物だったのではなかろうか。係員が必ずトイレの照明を見ていってくれと案内するが、なるほどシンプルにして凝ったデザインだ。
晩香廬_1
晩香廬_2
晩香廬_3
晩香廬_4
晩香廬_5
晩香廬_6
晩香廬_7
晩香廬(ばんこうろ)は、1917(大正6)年に落成した洋風茶室で、渋沢栄一の喜寿を祝って、現在の清水建設(株)が贈りました。栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名されました。
建物全体は、丈夫な栗材を用いて作られ、暖炉・薪入れ・火鉢などの調度品、机・椅子などの家具にまで、設計者の細やかな心遣いが見られます。
栄一はこの建物を内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用しました。
青淵文庫とともに、田辺淳吉が設計を行っています。



PS.故郷のPR
福島の港で水揚げされた魚が県外に出回ることは、非常に残念なことながら、現時点でもあまり無いでしょう。漁場は同じ所なんですが、福島の港で水揚げされたというだけで、誰も扱ってもくれないなんて、とても残念です。せめて、いわきに観光に行くようなことがあれば、美味しいさんまを食べてみてください。絶対に目黒の秋刀魚より美味しいです。

今朝(28日金曜日)小名浜港に、今シーズン初となるにサンマが水揚げされました。
調理法は様々ありますが、中でもイチオシは「サンマのぽうぽう焼き」。
いわきの伝統郷土食で、サンマのハンバーグといった感じでしょうか

サンマのぽうぽう焼き

 

飛鳥山公園(1)

共に国の重要文化財に指定されている青淵文庫と晩香廬とを見たいと思い、飛鳥山公園に行った。
順路からすれば、まず最初に飛鳥山公園を楽しみ、渋沢史料館とその付属施設になっている青淵文庫と晩香廬とを見て回り、ついでに都電が走るさまを見たいと考えた。

飛鳥山公園

歌川広重『名所江戸百景』より「飛鳥山北の眺望」
昔はこういうふうに富士山が拝めたのだろう
歌川広重『名所江戸百景』より「飛鳥山北の眺望」
飛鳥山公園全景(フリーウェアファイルから引用)
飛鳥山公園全景(フリーウェアファイル)

飛鳥山公園モノレール(あすかパークレール)
王子駅からすぐのところに飛鳥山公園モノレールがある。無料の乗り物だ。面白そうだし、都電の走るさまを見られるかもしれないと思ったが、残念、その時は通らなかった。
飛鳥山公園モノレール_1
飛鳥山公園モノレール_2
飛鳥山公園モノレール_3

桜の木ほか
一挙に山上に到達。子供たちが校外学習に来ているようで、すこぶる賑やか。でも、徳川八代将軍吉宗が整備した桜の名所という割には極めて狭い感じ。地方に行けば、殆どの桜の名所がここより広いはずだ。吉宗の時代は、歩くか駕籠かしか移動手段はなく、遠くから花見に来る人は少なく、この程度でも十分だったのかもしれない。
当時の桜の品種は、山桜や江戸彼岸が主だったようだが、現在の桜の大半は明治以後に全国に広まった染井吉野で、同じ品種を見ているわけでは無さそう。
桜の木
山上_1
少し低いところにある時計塔
山上_2
一段低い広場
山上_3

幾つかの碑文
山上には、幾つかの碑文がある。
いずれも碑文が見えにくくなっていて、一応、写真も撮ったがはっきりしない。調べてみると、文章が結構難解な文章のようで、見えなくて却ってよかったかも。
飛鳥山の碑 - 1737年(元文2年)建立。飛鳥山の由来を記したもの。あまりに難解な漢文であるため、江戸時代は読めない碑として知られた。
桜賦の碑 - 1881年(明治14年)建立。佐久間象山の書いた「桜賦」を、門弟勝海舟の意で碑にしたもの。
船津翁の碑 - 1899年(明治32年)建立。大久保利通の招きで駒場農学校農場監督となり、後に西ヶ原の農事試験場技師として農業の発展に努めた船津伝次平の功績を顕彰するもの。

平和の女神像
日本と中国の国交正常化を記念し制作されたものらしい。それから40年後、再び、日中関係がきな臭くなりつつある。40周年記念行事も取り止めになり、この先どうなることやら、心配である。尖閣諸島の辺りはメタンハイドレートの宝庫と言われていて、中国としては、なんとしてもぶん取りたい土地なのだろう。
像には責任のない話だが、暫く揉めることになるかもしれない。
平和の女神像_1
平和の女神像_2

遊戯施設など
遊園地というほどではないが、ちょっとした遊戯施設などがある。
D51
D51_1
D51_2
都電
都電
遊戯施設
遊戯施設

飛鳥山の高さ
北区が飛鳥山の標高を調べたところ、標高25.3mだったらしい。地形図で調べてみると、「飛鳥山」との表記がないそうだ。公式には山と認められていないらしい。もっと低くても山として認められている例はあるのに何故。地形図に載せていないのは、作成上の都合らしい。

 

くさやの瓶詰め

知人から焼いたくさやを裂いて瓶詰めにしたものを戴いた。妻は『子供たちは絶対に食べないだろうから、2人でいただこう』って言っていたはずなのに、匂いを嗅いだ途端にギブアップ。自動的に私一人の食べ物になった。
いつもスイーパー役を務めるから太るのだが、…。
くさや_1
当たり前だが、ものすごく臭い。食べた後には、すぐに歯を磨き、入念にうがいをするようになった。どうも、これは鯵の方らしい。トビウオだったらもっとうまいのかもしれないが、これも結構美味。なるべく食べる直前まで遠ざけておき、食べるときは匂いを嗅がない内にとにかく口に急いで入れてしまう。そこからはゆっくり味わうだけなのだが、本当に臭い。こういう食べ物を開発した人の勇気を褒めたい。そろそろ食べあげてしまわないと、カビてしまう。一人で食卓につく時以外は食べられないので、チャンスは限定される。
くさや_2
くさや_3
くさや_4

 

駒沢オリンピック公園を歩いた

24日月曜日は、たった一日だけ、気持よく晴れ、湿度が低く、気持ちのよい日だった。散歩にはうってつけ。近所の駒沢オリンピック公園に歩いて出かけた。

広角レンズを試してみる
私は18ミリからのズームが2本あるが、本当は8ミリから18ミリくらいのいわゆる超広角系ズームがほしい。いまは、それがないので、果たして、18ミリでどれくらい代用できるものかを試したのだが、非常に微妙。全く同じレンズを使用して、素晴らしい作品をUPしている人も少なくない。う~~ん。
広角レンズのテスト_1
広角レンズのテスト_2
広角レンズのテスト_3
広角レンズのテスト_4

カルガモの様子
東京オリンピックの時に造られたモニュメントの前の池には、カルガモが結構屯している。水草だけを食べているんだと思っていたのだが、写真のように普通の草もむしゃむしゃ食べていた。私が知らなかっただけだが、すごいショック。
カルガモ_1
カルガモ_2
カルガモ_3
カルガモ_4
カルガモ_5
カルガモ_6

彼岸花ほか
彼岸花は例年に比して開花が大幅に遅れている様子。駒沢公園の敷地内には嫌になるくらい咲いている筈だし、しかも、そろそろ終わりの筈なのに、お彼岸がすぎた24日(月)だというのに、まだ、蕾のものが殆ど。猛暑が続いたので、土の中で出番を待っているのだろうか?
対照的にパンパスグラスの勢いは非常に盛ん。
彼岸花_1
彼岸花_2
パンパスグラス_1
パンパスグラス_2

周回コース
1周が2.3kmのジョギングとサイクリングとの周回コースがある。ほぼ平坦なコースで、愛好者は少なくない。このおじさん(芸名T.F.)もその一人。
こういうコースも練習に利用できる駒沢大学の練習環境の素晴らしさを思い知らされるところだ。記録会をやっているところに出くわしたことがあるが、当たり前だろうが、皆めちゃくちゃ速い。
周回コース_1
周回コース_2
周回コース_3
周回コース_4
周回コース_5

途中の遊歩道で
ハナトラノオ(花虎の尾)
ハナトラノオ(花虎の尾)

イヌタデ(犬蓼)…オオケダテ(大毛蓼)の方だったようです
イヌタデ(犬蓼)

 

殿ヶ谷戸庭園(4)

紅葉亭
その名のとおりだと思う。11月下旬から12月の初めにかけての紅葉の時期に来るのが一番だろう。中では句会のようなものが行われていた。風流なものだ。数奇屋風の茶室だといわれるが、建物はかなり大きく、大人数の茶会でも大丈夫なものだったように見えた。

紅葉亭_1
紅葉亭_2
紅葉亭_3
紅葉亭_4

湧水源
光線の関係で見えにくいが、確かにちょろちょろと涸れることなく湧き出している。やがては多摩川支流の一級河川である野川の水源の一つになるそうだ。今の時期は特に湧出量が少ないのか、本当にちょろちょろ程度だった。

湧水源_1
湧水源_2
湧水源_3
湧水源_5
湧水源_6

馬頭観音
国分寺村の路傍に建てられていただろう馬頭観音を譲り受けたものと思われる。ここからは本館の建物が格好良く見える。ビューポイントと言っても過言ではない。本館へ通じる道を付けなかった理由がわかるような気がした。

馬頭観音_1
馬頭観音_2
馬頭観音_3
馬頭観音_4
馬頭観音_5

 

殿ヶ谷戸庭園(3)

次郎弁天の池
湧水を水源としているだけあって、池の水は非常に綺麗だ。今は緑一色だが、紅葉の時期には、カエデの赤と松の緑とがお互いを引き立てるように色を競いあい、それはそれは見事なことだろう。
次郎弁天の池_1
次郎弁天の池_2
次郎弁天の池_3
次郎弁天の池_4
次郎弁天の池_5
次郎弁天の池_6
次郎弁天の池_7
次郎弁天の池_8
次郎弁天の池_9
右側の水草で緑濃く見える部分に湧き水がまずたまる。その後、左の大きな部分に流れ出る。
次郎弁天の池_10
次郎弁天の池_11
次郎弁天の池_12
馬頭観音へ向かう道から見た次郎弁天の池

庭園内にある池は、次郎弁天の池と呼ばれています。名前の由来については不明。この次郎弁天の池は、国分寺崖線から湧き出た清水を溜めて作られた池です。園内の案内板によると、湧き出る水の量は毎分約37リットル、水温は年間を通じて15~18度で、縄文時代は大事な飲料水の役割を果たしていたとの事。

 

殿ヶ谷戸庭園(2)

萩のトンネル
萩の咲き方が十分でなく、写真では目を凝らしても色づいて見えないかもしれない。
萩のトンネル_1
萩のトンネル_2
萩のトンネル_3
萩のトンネル_4
萩のトンネル_5
萩のトンネル_6
萩のトンネル_7

谷戸の一番低いところへ下る道
竹林を右手に見ながら、谷戸の一番低いところ次郎弁天の池へ下る道
次郎弁天の池へ下る道_1
次郎弁天の池へ下る道_2
次郎弁天の池へ下る道_3

園内の花
端境期で残念ながらあまり咲いていなかった。まあ、何とか見ることができたものを取り上げる。m(_ _)m
きんみずひき
きんみずひき_1
きんみずひき_2
キレンゲショウマ
キレンゲショウマ_1
キレンゲショウマ_2
キレンゲショウマ_3
ツリガネニンジン…萩の手前にわずかに見える
ツリガネニンジン
やぶみょうが
やぶみょうが_1
やぶみょうが_2
やぶみょうが_3
ツルボ
ツルボ_1
ツルボ_2

本館脇に植えられていた秋の七草
順路通りの紹介でないが、記事の構成上、先に取り上げる。残念ながら私には6種類しか見つけられなかった。

山上憶良が秋の七種を万葉集で詠んでいる。
秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花
山上憶良
おみなえし
おみなえし_1
おみなえし_2
おばな(ススキ)
おばな(ススキ)
ききょう…朝貌
ききょう…朝貌_1
ききょう…朝貌_2
なでしこ…瞿麦
なでしこ…瞿麦_1
なでしこ…瞿麦_2
ふじばかま
ふじばかま
くず
季節の花300から借用
くず
はぎ
萩のトンネル_3

 

殿ヶ谷戸庭園(1)

武蔵野らしさを残した回遊式林泉庭園というものを見たくて、国分寺駅すぐそばの殿ヶ谷戸庭園に出かけた。
広大な敷地という程ではなかったが、実に落ち着いた気持ちのよい庭園だった。
本館(管理棟)_1
数奇屋風の茶室(紅葉亭)_1
庭園案内図

武蔵野の自然の地形、すなわち段丘の崖にできた谷を巧みに利用した「回遊式林泉庭園」。崖の上の明るい芝生地と崖下の湧水池、樹林で雰囲気が一変する造園手法がみどころのひとつです。
ここは、大正2年~4年に江口定條(
当時、三菱合資の本社営業部長で、後の満鉄副総裁)の別荘として整備され、昭和4年には三菱財閥の岩崎家の別邸となりました。昭和40年代の開発計画に対し本庭園を守る住民運動が発端となり、昭和49年に都が買収し、整備後、有料庭園として開園しました。
なお、庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来します。


本館(管理棟)…案内図ではサービスセンターと書いてある建物
これがなかなか素晴らしい佇まいだ。如何にも由緒ある別邸という感じがする。その佇まいの立派さに暫し動くことができなかったほどだ。一部を展示スペースとした管理棟にとどめておくのは如何にも勿体がない。すべてを展示スペースに切り替えられないものだろうか。
江口家時代から残るものは、隋冝園と書かれた扁額のみ。岩崎彦弥太が別荘を江口から譲り受け、昭和6年頃に本館を建て替えた。そして、昭和36年に大改修を行い2階建て部分を取り壊す前の半分ほどの大きさになった。現在の本館は東京都が土地を買い上げ公園としたとき、建ぺい率の制限で昭和6年当時の1/3の規模になった。
そういう変遷をたどったが、歴とした岩崎家の別邸の建物であったことは間違いがない。
本館(管理棟)_2
本館(管理棟)_3
本館(管理棟)_4
本館(管理棟)_展示スペース
本館(管理棟)に展示されていた昔の電話
本館(管理棟)前の芝生_2
本館(管理棟)前の芝生_3
本館(管理棟)前の芝生_4
本館(管理棟)前の芝生_5
本館(管理棟)前の芝生_6
本館(管理棟)前の芝生_7

 

東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転

14日の金曜日、代官山駅で飛び乗った電車、一瞬違う電車に乗り間違えたのかと錯覚した。でも、代官山駅は今のところ東横線のみの駅。乗り間違えなどできるはずもない。
落ち着いて考えたら、これは東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転なんだと気がついた。新品の電車かと思ったら、床の繋ぎ目が少し傷んでいて、まっさらの新車両というわけではなさそうだが、相当に新しいものだろう。
連結部の扉など一瞬自動扉かと見紛うほどのデザイン。ただし、東急東横線での先行営業運転らしく、電車の路線図は東横線とみなとみらい線のそれだった。
同じ電車に18日の火曜日にも乗った。ごく普通にダイヤに組み込まれているのかもしれない。
東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転_1
東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転_2
東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転_3
東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転_4
東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転_5
東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転_6
都立大から自由が丘方面へ走る先行運転車両

来年3月の東急東横線と東京メトロ副都心線の直通運転開始を前に、東急・東京メトロ・西武・東武の各社で試運転が行われていますが、東京メトロ10000系による東急東横線での先行営業運転開始を皮切りに、東急5050系も東京メトロ副都心線・有楽町線、西武池袋線・有楽町線、そして東武東上線で先行営業運転を開始しました。

 

八雲氷川神社の秋季例大祭(4)

連合渡御の様子(2)

宮前睦会
宮前睦会_1
宮前睦会_2
宮前睦会_3
宮前睦会_4
宮前睦会_5

柿の木坂商和会
柿の木坂商和会_1
柿の木坂商和会_2
柿の木坂商和会_3
柿の木坂商和会_4

平町商店街
平町商店街_1
平町商店街_2
平町商店街_7
平町商店街_8
平町商店街_9

東が丘会
東が丘会_1
東が丘会_2
東が丘会_3
東が丘会_4
東が丘会_6
東が丘会_7
東が丘会_8
東が丘会_9
東が丘会_10
東が丘会_11
東が丘会_12

 

八雲氷川神社の秋季例大祭(3)

連合渡御の様子(1)
交通整理や警備の都合上、各会の神輿が同じコースを練り歩く。出発点は我が家から50mほどのところ。出発して都立大学駅前を通過する辺りまで、写真に撮った。どこの神輿も景気の良い時代に発注したらしく、かなり豪勢なもの。担いだことがないのでなんとも言えないが、展示してあった時の様子ではそんなに重い神輿では無さそう。
それでも、実際に担いでいるところを見ると、それなりの重量がありそうに見える。不思議でならない。

出発地点に集合
出発地点に集合_1
出発地点に集合_2
出発地点に集合_3

出発を待つ担ぎ手たち
出発を待つ担ぎ手たち_1
出発を待つ担ぎ手たち_2

目黒囃子
目黒囃子_1
目黒囃子_2

富志見会
富志見会_1
富志見会_2
富志見会_3
富志見会_4
富志見会_5

 

八雲氷川神社の秋季例大祭(2)

旧衾村の鎮守であった八雲氷川神社。自由が丘地区以外はこの祭りに参加する。自由が丘地区は熊野神社。昔は勝負にならなかったはずだが、いまは反対の意味で、勝負にならなくなってしまった。
八雲氷川神社_1
八雲氷川神社_2
八雲氷川神社_3

露店
すごく早い時間帯に行ったので、参拝客の出足は今ひとつだった。が、時間を追うごとに混み合ってくるのだろう。
露店_1
露店_2
露店_3
露店_4

2日目の能楽堂舞台
私が行ったときには、目黒囃子を奉納していた。このあと、連合渡御の際には、神輿の前を演奏して景気をつける。お祭りを盛り上げる貴重な要員たちだ。
目黒囃子_1
目黒囃子_2
目黒囃子_3
目黒囃子_4

出陣前の神輿など
いずれの神輿も大きさはさほどではなく、ものすごく軽そうに見える。でも、買ったら高そうな装飾が施してある。神輿を出すのは、現在は、富志見会、宮前睦会、柿の木坂商和会、平町商店街、東が丘会の5つの会のみだ。このうち、近くの会の神輿などを撮ってみた。
以前は、中根東町会も神輿を出していた。我が家の子供達は、ご褒美にもらえるお菓子目当てに参加したものだった。残念なことになくなって久しい。トリツマーケットもご同様だ。
富志見会
富志見会_1
富志見会_2
富志見会_4
富志見会_5
富志見会_6
富志見会_7
平町商店街
平町商店街_1
平町商店街_2
平町商店街_3
平町商店街_4
平町商店街_5
八雲共栄会
大太鼓の台車もある。
八雲共栄会_1
八雲共栄会_2

 

八雲氷川神社の秋季例大祭(1)

今年もまた地元の神社の秋季大例祭の季節がやってきた。
初日は担ぎ手が不足しているのか神輿は殆ど出ないようだ。空いているだろうときにお参りに行き、ついでに写真を少し撮ろうと考えた。
大したことはないと勝手に思い込み期待しないでついでにチラと見るつもりだった奉納の演芸。思いがけず素晴らしいもので、そのまま暫し見入ってしまった。
秋季大例祭周知ポスターの演目案内には、単に『剣の舞』とだけ記されていたが、神楽堂の演目案内札には『里神楽 禊 三筒男神』と記されていた。多分、どこかの里神楽の社中が演じているのだろう。俄仕込みのレベルではない堂々とした舞だった。

『剣の舞』は、素盞嗚尊の『八岐の大蛇退治の物語』を内容とする里神楽の舞だ。現代から日本書紀の世界へ一挙にタイムスリップだ。
里神楽 禊 三筒男神_1
里神楽 禊 三筒男神_2
里神楽 禊 三筒男神_3
里神楽 禊 三筒男神_4
里神楽 禊 三筒男神_5
里神楽 禊 三筒男神_6
里神楽 禊 三筒男神_7
里神楽 禊 三筒男神_8
里神楽 禊 三筒男神_9
里神楽 禊 三筒男神_10
里神楽 禊 三筒男神_11
里神楽 禊 三筒男神_12
里神楽 禊 三筒男神_13
里神楽 禊 三筒男神_14
里神楽 禊 三筒男神_15
里神楽 禊 三筒男神_16
里神楽 禊 三筒男神_17

鳥居をくぐり、参道から境内には、アカガシ等の老木が繁り、普段は森閑とした雰囲気です。
拝殿の後ろに、昔の御神木アカガシの枯れた巨大な株があります。癪封じのご利益があるといわれ、煎じ薬にするために御神木の皮をはぐ者が跡を絶たなかったため、ついに枯れ死してしまったといわれています
古くから「癪封じの神」として広く知られ、下総や相模からも参詣人がつめかけ栄えた神社で、境内に宿泊所が設けられていました。
旧衾村の鎮守だけあって、秋のお祭は盛大で、大変な賑わいになります。

 

目黒不動尊から林試の森まで(3)

いよいよ林試の森公園に入る

せせらぎの門から入り、せせらぎ橋の下をくぐる。東屋のある池を右に曲がり、ジャブジャブ池を左に見ながら、突き当りを左折して南門から出る。東西に長く南北に短い南北方向に縦断する形だ。

色々言わずに、写真で見ていこう。緑の木陰とせせらぎの水とで、入った時から園外より涼しくなっていることがわかる。思わず深呼吸したい気分になる。

せせらぎ下池辺りの木
せせらぎ下池辺りの木_1
せせらぎ下池辺りの木_2
せせらぎ下池
せせらぎ下池
せせらぎ橋
せせらぎ橋_1
せせらぎ橋_2
せせらぎ橋たもとの木々
せせらぎ橋たもとの木
せせらぎ上池そばの東屋
東屋
せせらぎ上池
せせらぎ上池
ミソハギ科シマサルスベリの木
ミソハギ科シマサルスベリ_1
ミソハギ科シマサルスベリ_2
幼児コーナー辺りの木々
幼児コーナー辺りの木々
南門方向への道
南門方向への道
ヒマラヤ杉の巨木
ヒマラヤ杉の巨木
ヒマラヤ杉の巨木
南門前の道辺りの木々
南門前の道辺りの木々
南門
南門

 

目黒不動尊から林試の森まで(2)

目黒不動尊までの道筋にある気になったところ

成就院たこ薬師
『ありがたや福をすいよせるたこ(多幸)薬師』という大きな絵馬看板が目に付く。この成就院たこ薬師は目黒不動尊と同じく、慈覚大師が開山したお寺。慈覚大師がすごい人物だったのか、宣伝がうまいのかよくわからないが、目黒不動尊に負けず劣らず、唆られる釣り文句だ。
成就院たこ薬師_1
成就院たこ薬師_2

別名蛸薬師といわれ、ご本尊の薬師如来が三匹の蛸(多幸)に乗った仏像があります。
目黒不動の開祖、慈覚大師によって創建されました。また、江戸後期の浮世絵師、鳥居清長の作として知られる絵馬「矢根五郎図」は国の重要美術品で、今は東京国立博物館に寄託されています。
境内には徳川二代将軍秀忠の側室にちなみ「お静地蔵」が祀られており、我が子保科正之の大願成就のお礼に奉納した地蔵があります。


目黒不動の近くに御撫石(おなでいし)の成就院蛸薬師(じょうじゅいんたこやくし)があります。約1000年前に開山の慈覚大師(じがくだいし)が唐から御撫石の秘法を持ち返り、代々の住持が秘伝してきました。当山から御撫石を頂き、御真言「ヲン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」ととなえて御撫石でイボをなでるとイボが落ちるとのことです。イボが落ちたら御撫石をお返ししましょう。
江戸時代の寛政の改革で有名な松平定信公の花月草紙の五の巻に次のような記載があります。「ある女、いぼというものゑりのあたりより出来て、一夜のうちにかずましてけり。いまひとりのは、ひたひにおほく出来て、さめという魚のかわなんどのごとく、星あるかぶとよりはしげくみえし。女のことなれば、いとなげきて、めぐろと云う所にたこ薬師と名づけし仏のあるを、人の教にまかせて、信じて、たこくはじと誓いて、夜ひとよ心をこらしてねぎごとしたり。夜あけて、手あらい顔などあらうに随いて、二つ三つづついぼの落ちにければ、いとうれしくて、猶心こらしければ、二日三日のうちにみなおちてけり。かのひたいに出来しものもみ習ひければ、これも十日ばかりに、あかもがさのかせたるように、霜のごとなりて、みなきえぬ。」


八つ目や『にしむら』
昭和35年創業だそうだ。ヤツメウナギがどうにも気になって仕方がない。ヤツメウナギは普通に食するうなぎと異なる。八つ目や『にしむら』は店名に『八ツ目や』とつけている通り、通常の鰻だけではなく八目鰻(ヤツメウナギ)をも取り扱うお店。
味も食感も普通の鰻とは別物で、弾力のある身でインパクトあるものだそうだ。果たして美味しいのかなあ?
八目鰻を食べることができるのは、11月-01月頃の季節限定とのこと。
八つ目や『にしむら』_1
八つ目や『にしむら』_2

目黒不動尊を出る

目黒不動尊を出てすぐのところにある青木昆陽の墓
ご存知甘藷先生。昆陽は晩年、現在の大鳥神社の付近に別邸を構えた。現存する墓は、遠く富士山を望む景勝の地目黒を好んだ彼が生前から居宅の南に建て、自ら「甘藷先生墓」と記していたものだそうだ。
青木昆陽の墓_1
青木昆陽の墓_2

江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、すでに西日本では飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島において薩摩芋の栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。

途中、スマホで道案内してもらう
距離は大したことないが、くねくねと方向を変えるコースだから、よくわかっていないと辿りつけない。スマホはこういう時に便利だ。

途中で見つけた道標
法界萬霊塔(ほうかいばんれいとう)は、村に悪病や悪いことが入り込んでこないように、峠や村境に立てられたものの一つらしい。左が祐天寺道、右が目黒道と描かれている。相当に古いものだと思う。
法界萬霊塔

 

目黒不動尊から林試の森まで(1)

有名な目黒不動尊に向かう。寺の案内によれば、目黒線の不動前駅からは徒歩15分、目黒駅からは徒歩20分だそうだ。実際にはもう少し短い時間でいける感じ。当たり前といえば当たり前かもしれないが、昔からある神社仏閣が都合よく鉄道のそばにあるはずもなく、それなりに歩くことになる。

どちらかと言えば、お狩り場に近く、徳川三代将軍家光が、行方不明になった鷹が戻るように祈った時、それが忽ち叶ったということで、将軍の覚えめでたく庇護を受けて大きくなった寺だ。1634年には、53棟におよぶ山岳寺院配置の大伽藍が完成し、『目黒御殿』と称されるほど華麗を極めていたといわれている。
勿論堂宇などは戦災等で消失し、その後再建されたものだ。将軍の覚えめでたいということで過度に持ち上げられ過ぎた嫌いがなくはなかろうが、江戸時代は富くじの発行なども行われ、結構な参拝客があったようだ。あの池波正太郎の藤枝梅安シリーズにも度々登場するくらいだ。現在は、さすがに昔日の威光は失われ、護摩祈願などの日を中心に参拝客が訪れているようだ。

瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒にある、天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王を本尊とし、一般には目黒不動(目黒不動尊)の通称で呼ばれる。江戸五色不動の一つ。

仁王門
昭和37年(1962年)再建の鉄筋コンクリート造。左右一対の仁王像、開口(阿)那羅延金剛と閉口(吽)密迹金剛が建っている仁王門は、三間一戸の朱塗りの楼門で、階上には韋駄天が祀られている。
どうにも迫力がなく物足りなく思えてならない。
仁王門_1
仁王門_2

独鈷の滝
階段左にある独鈷の滝。かつては、水垢離修行が盛んに行われ、薩摩藩士の西郷隆盛も藩主親子の病気平癒を願って水垢離したという。今はそんな酔狂な人は殆どいないようだ。

手水舎の龍の吐出口
手水舎の龍の吐出口
三本爪の龍の吐出口
三本爪の龍の吐出口
玉を掴んだ龍の吐出口
玉を掴んだ龍の吐出口
水かけ不動:柄杓で水をかけるとさまざまなご利益があるといわれている。
水かけ不動
垢離堂
垢離堂_1
垢離堂_2
何と書いてあるのだろうか
何と書いてあるのだろうか

江戸名所図会には、次のような説明がなされているとのこと
『当山の垢離場(こりば)なり。往古承和十四年〔八四七〕当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下りたまひし頃、この地に至り独鈷杵(とっこしょ)をもてこの地を穿ち得たまふとぞ。つねに霊泉滑々として漲(みなぎ)り落つ。炎天旱魃(かんばつ)といへども涸るることなく、末は目黒一村の水田に引き用ゆるといへり。
昔は三口にわかれて湧出せしが、いまは二流となれり。そのかみ一年、この流水(たき)の涸れたりしことありけるが、沙門某江島の弁天に起請奉り、再びもとのごとしとぞ。ゆえにいまも、年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむること、怠慢なしといへり。『和漢三才図会』に、「倶梨迦羅の滝」とあり。』


本堂
第二次大戦の戦災で焼失したが、昭和56年(1981年)に再建された。台地に建つ大本堂は急な石段を登った先にあり、入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂。堂宇内には開創以来の御本尊不動明王をはじめ左右の拝佛殿には愛染明王・虚空蔵菩薩を安置その脇に普賢菩薩・文殊菩薩が祀られている。そのような説明がなされているが、そんなに大きな仏堂ではない。
天井には川端龍子の『波涛龍図』が描かれている。拝観の場所からもチラと見えるが、堂宇内から見るようになっている感じだ。
本堂_1
本堂_2
本堂へ至る階段。階段下右側に松が見えるが、そのあたりが鷹居の松跡だ。
本堂へ至る階段
絵馬を奉納する納札場:屋根の先には龍がいる。
納札場

本堂裏には大日如来様が鎮座している。完全な露座だったようだが、今は上部のみ屋根で覆われている。

この像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られている。体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色で、面相も体躯も衣文表現もよく整っている。また、台座の連弁に開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧俗の歴名等を記し、製作年代は天和三年(1638)、江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重作等の刻名があることも貴重である。

大日如来と四方を守る眷属
大日如来_1
大日如来_2
四方を守る眷属_1
四方を守る眷属_2
四方を守る眷属_3
四方を守る眷属_4

 

ご近所の様子(19)

散歩していていつも気になっている見事な庭木
栗山造園土木の社長さん宅の庭木であり、同時に引き合いがあれば持っていく、一種の生産緑地のようだ。見事な庭木のオンパレードで驚いてしまう。プロだから、当然のことながら手入れが行き届いている。
見事な庭木_1
見事な庭木_2
見事な庭木_3
見事な庭木_4
見事な庭木_5

この花、何という名の花だろう
びっくりするような面白い花。写真に撮ろうとしていたら、通りがかりのオバサンに『これは何の花?』と訊かれた。私にわかるわけがない。気になるけど、わからないものはわからない。
何という名の花_1
何という名の花_2
何という名の花_3
何という名の花_4
何という名の花_5

 

ビキニ タパでの昼食

病院に見舞いに行った帰り、渋谷のマークシティで遅めの昼食をとった。今回はCatalan Spanish “Bikini TAPA”というスペイン料理の店にした。2年以内にスペイン巡礼に行くつもりでいるので、ある程度スペイン料理に慣れておく必要があるという事情があることはあるが、腹が空いていたのでなんでも良かった。
妻はパスタのパエリア、私は豚肉の鉄板焼きレンズ豆煮込みを注文。パスタのパエリアのほうが先に供され、空腹の私には非常に美味しく見えた。私は豚肉の鉄板焼きレンズ豆煮込みは、大分経ってから漸く出てきた。パスタのパエリアを見たときには、内心では、『あっちの方が良かった。注文をしくじったな』と思った。しかし、食べてみると、意外に美味しい。まず第一に緑色のピラフが気味悪く思えたのだが、それも含めて美味しかった。肉は十分な厚さと旨みとがあり、底に敷かれたレンズ豆も十分に美味しかった。
スペイン料理が苦手という感じでは無さそうな気がしてきた。でも喜ぶのはまだ早い。カタルニア地方は、ピレネーの南側で地中海寄りだ。巡礼はイベリア半島の北側、英国寄りを歩くのだ。
サラダとパン
パスタのパエリア
豚肉の鉄板焼きレンズ豆煮込み
店の外観

渋谷マークシティ内に、ジョセップ・バラオナ・ビニェス氏監修による本格スペインレストラン&バル「Catalan Spanish “Bikini TAPA”(カタランスパニッシュ “ビキニ タパ”)」がオープンいたしました。 本レストランは赤坂にある「MODERN Catalan SPANISH “Bikini”(モダン・カタラン・スパッシュ“ビキニ”)」を、より気軽にお楽しみいただける店舗づくりになっております。
「Catalan Spanish “Bikini TAPA”」では、ジョセップ氏が提案する“タパス”(小皿料理)を中心に70種類以上のメニューを提供しております。また、広々とした店内は利用シーンに合わせて使い分けることができるように3つのスペースに分かれています。落ち着いた空間でしっかりお食事をお楽しみいただけるダイニングゾーン。気軽にお立ち寄りいただけるカジュアルゾーン。そして、スタンディングでショーケースのタパスを見ながらワインをお楽しみいただけるバルゾーン。お客様の気分に合わせてお選びいただけます。
ピンチョスをはじめ、フィデワのパエリアやカルドソなどカタルニア地方の本格料理を気軽にお楽しみください。


帰り道、渋谷駅で直通運転用に予定されていると思しき車両の試運転が行われる感じだった。もうすぐこのホームはなくなってしまうんだという思いが一段と強くなった。
東京メトロの試運転車_1
東京メトロの試運転車_2

 

『しらせ』を見学し、周辺地区を歩いた(4)

横浜開港資料館
英国領事館跡を開港資料館にしたもの。旧館と中庭のたまくすの木(タブノキ)とが見るべきところか。
新館入館料200円の価値は微妙。有料エリア内の写真撮影NGが気に入らない。旧館とたまくすの木とを撮影するだけで十分のような気がした。

旧館県庁本庁舎反対側出入口
横浜開港資料館_1
横浜開港資料館_2
旧館県庁本庁舎側出入口
横浜開港資料館_3

旧館からたまくすの木と新館とを見る。たまくすの木に関しては、逸話があるので興味のある方は参照していただきたい。
横浜開港資料館_4


たまくすの木


赤レンガ
今回は象の鼻などから見るだけにとどめた。内部は瀟洒なお店がズラリ。観光名所になるのも当然だろう。
赤レンガ_1
赤レンガ_2

MM21
赤レンガと同じく象の鼻などから見るだけにとどめた。個々の建物の美しさもさることながら、地区全体としての美しさも合わせて実現した稀有な例だと思う。再開発ということで、軌を一にして取り組んだ成果が出たように思う。
MM21_1
MM21_2

RESTAURANT SCANDIAなど
RESTAURANT SCANDIAは、横浜の老舗洋食店なんだそうだ。外観からして、凄くロマンティック。ちょっと贅沢かもしれないが、一度行って見る価値がありそうな感じだ。並んでいるお店も、負けじと雰囲気がある感じ。
RESTAURANT SCANDIA_1
RESTAURANT SCANDIA_2

かをり
「壁面緑化コンテスト」において、かをり本社が優秀賞を受賞したとのこと。なるほど、見事な緑化ぶりだ。また、横浜かをりは、在日バチカン大使館レオン・カレンガ参事官を通じて、ローマ法王ベネディクト16世に、トリフを献納したとのこと。レーズンサンド以外にも、自信の一品があったようだ。
かをり_1
かをり_2

MAMMUTなど
個々は山下町22番地だが、この一角にはICI石井スポーツ、パタゴニアなどアウトドア用品の店が並ぶ。わざわざ商売敵どうしが集まらなくてもよさそうに思うが、専門店の集合効果のようなものがあるのだろうか?
写真のボルダリングジムを併設したショップ『MAMMUT STORE 横浜』は、つい先日オープンしたばかりのようだ。昔、ここのリュックを背負っていたことがあった。
MAMMUT

日本キリスト教会横浜海岸教会
横浜開港資料館の隣に位置する。日本最初のプロテスタント教会として1872年に設立された「横浜(耶蘇)公会」で、現在は日本キリスト教会横浜海岸教会。1923年の関東大震災で教会堂は壊滅し、現教会堂は1933年に再建されたものだそうだ。
日本キリスト教会横浜海岸教会_1
日本キリスト教会横浜海岸教会_2

 

『しらせ』を見学し、周辺地区を歩いた(3)

横浜大桟橋に定係している「ロイヤルウイング」
ロイヤルウイングは、横浜港の大桟橋を拠点として営業しているエンターテイメント・レストラン船の船名。旧船名は「くれない丸」で、関西汽船の別府航路を代表するクルーズ客船だったそうだ。
一度機会があったら利用してみようかと思う。
ロイヤルウイング_1
ロイヤルウイング_2

キングの塔
横浜三塔の内の『キングの塔』と称せられる神奈川県庁本庁舎の上部の塔。堂々たる佇まいだ。海からもごく近い。本庁舎で執務をしていれば、きっと汽笛の音が聞こえることだろう。
キングの塔_1
キングの塔_2
キングの塔_3
キングの塔_4
キングの塔_5

クイーンの塔
横浜三塔の内の『クイーンの塔』と称せられる横浜税関本館庁舎の上部の塔。何やらモスクのように見えて、実はあまり好きではない。横浜税関という組織の性格上、港の真ん前に位置している。
クイーンの塔_1
クイーンの塔_2
クイーンの塔_3
クイーンの塔_4
クイーンの塔_5

BLUE BLUE YOKOHAMA
私としては小粋な飲食スペースで有って欲しい感じだが、服飾雑貨の店のようだ。絵になる感じなので撮らせていただいた。
BLUE BLUE YOKOHAMA_1
BLUE BLUE YOKOHAMA_2
港のおみやげ屋さんをイメージさせるショップ。店内にはメンズ、レディースともにマリンフレーバー漂うオリジナルウェアが並ぶ。ジーンズやカットソーのほか、指輪やネックレスなどの小物類も充実し、土産にもなるピンバッジは種類も豊富で人気の品。店の前からは「みなとみらい21」のキレイな夜景も望める。

 

『しらせ』を見学し、周辺地区を歩いた(2)

『しらせ』見学(2)

後部の飛行甲板から前方を見る
後部の飛行甲板から前方を見る_1
後部の飛行甲板から前方を見る_2
後部の飛行甲板から大桟橋を見る
後部の飛行甲板から大桟橋を見る
『しらせ』から見た『氷川丸
『しらせ』から見た『氷川丸』
ヘリ乗員のブリーフィングルーム
各種モニター等が完備し、安心してブリーフィングできる環境になっていた。
ヘリ乗員のブリーフィングルーム_1
ヘリ乗員のブリーフィングルーム_2

ここからはいよいよ艦橋

艦橋はかなり横幅がある。しらせの横幅は28mだが、多分同じ幅だ。こんなに広くする必要があるかと思う程。

操舵盤
操舵輪がついているが、高度に電子化されていて、殆どお飾りのようなものだと説明されていた。実際にも乗用車のハンドル大のものだった。
操舵盤
ラッパ
ビューグルと呼ばれるバルブのないラッパ。信号ラッパや号音ラッパ、単にラッパとも呼称され、この目的では主に軍隊で使用された。ラッパを鳴らして作戦を指示するのは敵に察知されやすく、その意味での使用は廃れたようだ。今は、艦内生活の合図のように使用しているのではなかろうか?
ラッパ
艦長席
航海中は艦長またはその代理の先任士官が常に艦橋で指揮を執ることになっている。その艦長の席。
艦長席

2012.05.16付産経記事から
 --昭和基地接岸を断念し約21キロ離れた氷海から行った物資輸送の状況は

 【中藤】(3度目の航海だった)新しい「しらせ」はコンテナ方式を採用しています。接岸できた過去2回は効率よく運べた。が、接岸できない場合のノウハウはなかった。初めはコンテナの氷上輸送ができないかも、といわれて大変だった。コンテナを飛行甲板に降ろして、中身を全部パレットに積み換えてのヘリ輸送を考えました。でも、重要な物が(積み上げてある)下のコンテナにも入っていて、全部出さないと作業できない。接岸できないケースは、頭で思っても観測隊もわれわれも考えていなかった。

 --結果的に運べた積み荷は6割強、820トン弱でした

 【中藤】53次隊が越冬できるだけの物資と、重点プロジェクトの大型大気レーダーの物資が少しでも運べて良かった。一番大きいのは、氷上輸送ができる場所まで(「しらせ」が)行けたことです。雪上車が往復できると知って安堵しました。今回は通常2機ある大型ヘリコプターが(運用の都合で)1機で、飛べる時間に限度があった。到底、全部運べません。ヘリに入らない大物もあった。

 --輸送は1月24日から18日間。時間の制約もあったと思いますが

 【中藤】「しらせ」が氷上に(とどまって)いる時間が(例年の半分以下で)非常に短かかった。この間に空輸と氷上輸送をしないといけない。ほぼ24時間態勢です。昼間は空輸、夜は氷上輸送。普通は別々の日に行う作業を同時にやった。うちの乗員もきつかったろうし、観測隊員もほとんど寝る時間がなかったはずです。


艦橋から見た前方の様子
艦橋から見た前方の様子

艦橋を出る

飛行甲板の真下
係留索などはここにある。一番頑丈に造られている部分だろう。
飛行甲板の真下_1
飛行甲板の真下_2
下船ラダー
降りる時のほうがよけいに怖い
降りる時のほうがよけいに怖い

 

『しらせ』を見学し、周辺地区を歩いた(1)

『しらせ』見学(1)
大桟橋で1日(土)~2日(日)の2日間、砕氷艦『しらせ』を見学できるという。いつも横須賀で指を咥えて見ていただけの私には、本当に嬉しい企画だった。喜び勇んで出かけた。
結構船体が大きいのは承知していたが、内部がどのようになっているのか興味があった。海上自衛隊が所有し運行する船舶であるが、決して戦闘行為のための艦船ではない。海賊対処用装備をわずかに有するのみ。性格的には南極観測隊の活動を支援する貨客船。
一番気になったのは、寒さで人間も機械もアウトになりはしないかということだったが、何隻も砕氷艦を建造してきた経験から、その辺の備えは十分なようだ。

写真中心に見ていく

大桟橋入り口からチラリ見えている『しらせ』
大桟橋入り口からチラリ見えている『しらせ』
今から受付開始
今から受付開始
後部から見た『しらせ』
後部から見た『しらせ』
乗り込む人の列
乗り込む人の列_1
いまどきはこんなものでも電光表示が可能なんだ
乗り込む人の列_2
結構急勾配なので、腰が引けている方も
乗り込む人の列_3

やっと船内へ

2人部屋かな?丸窓は極地対策済みの頑丈なものなのだろう。
2人部屋かな?
個室かな?
個室かな?
応接室かな?
応接室かな?
食堂
食堂
防寒服:モコモコではない感じで動きやすそう。
防寒服
救命胴衣
救命胴衣
通常はヘリ格納庫:展示用スペース確保のためにヘリはどこかへ飛んでいったようだ。
通常はヘリ格納庫
スノーモビル:結構大きく、馬力も凄そうな感じ。
スノーモビル_1
スノーモビル_2
南極の石
南極の石_1
南極の石_2
南極の氷:2日目なので多少融けてきた感じだが、ものすごく冷たかった。
南極の氷
大きさ比べ
大きさ比べ
防寒服
防寒服

しらせの装備
しらせの装備



 

皇居東御苑(6)

本丸
中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっているが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていた。現在、二本のケヤキが門柱のように聳えている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたるそうだ。文久3年(1863年)の火災以降は再建されなかった。その機能は西の丸御殿が果たした。ということで、江戸城の天守閣が早々に姿を消し、幕末には本丸御殿をも失った。薩長の藩主には徳川幕府の弱体化が手に取るようにわかったことだろう。

二本のケヤキ(本丸御殿の正面玄関にあたる位置)

イメージしづらいと思うので、下記URLの江戸城本丸図を参照していただきたい。

江戸城本丸図

本丸地区は、江戸城の中心をなし、周囲に石垣と濠をめぐらした高台で、約13万平方メートル(約4万坪)と最も広い場所です。
江戸城は、天正18年(1590年)の徳川家康入城以来、秀忠、家光の三代にわたって完成されたのですが、その当時の本丸の建物は表・中奥・大奥からなる壮大豪華な殿舎(面積約一万一千坪)が所せましとたちならんでいました。天守閣のほか、櫓が十棟、多聞十五棟、諸門二十数棟がありました。
現在は、本丸跡地として、大きな芝生の広場になっています。芝生のず~っと向こうに見える石垣が天守閣跡になります。
その後、江戸城本丸内では五回の罹災にあい、そのつど復旧されましたが、文久3年(1863年)の火災以降は再建されませんでした。現存するものは、富士見櫓と富士見多聞のみです。


石室
時代小説などを読むと、こういったものがよく登場する。本当のところ、使用目的は何だったのか想像をたくましくしてしまう。
石室_1
石室_2
石室_3

抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際の、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。
伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の板が使われています。


富士見多聞
数少ない江戸から残る建物だと聞いていたので、写真を撮ろうと思ったが、かなり魚眼に近いレンズじゃない限り駄目な感じ。うろちょろしている間にやぶ蚊にだいぶ刺された。
富士見多聞_1
富士見多聞_2

「多聞」とは、防御をかねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれていました。
鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて狙い撃つことが出来ました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万が一に備えられていました。


富士見櫓
天守閣の方はわずか50年の命で終わり、突如としてその代役を担わされた。その頃は安定期に入っていただろうから、大げさな天守閣は必要がなかったのだろう。
富士見櫓_2
富士見櫓_1
皇居参観ガイドの写真を使用
富士見櫓_3

現在のものは明暦の大火の後(1659年)に再建されたもの。江戸城の天守は、明暦の大火で焼失した後に再建されることがなかったので、それ以後、江戸城のほぼ中央に位置していたこの富士見櫓を天守の代わりにした。

松の廊下跡
勿論建物内部の大きな廊下だったようだ。本丸御殿はかなり敷地いっぱいに建てられていたことになる。
松の廊下跡_1
松の廊下跡_2

忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が殿中で吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)への刃傷事件(にんじょうじけん)を起こした場所です。
廊下に沿った襖戸(ふすまど)に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていました。江戸城で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。


中雀門跡
本丸御殿の正面玄関前だった。それだけに、万が一の狼藉者の侵入をも防ぐべく、厳重な警戒態勢がとられていたのだろう。確かに人に対しては強かったかもしれないが、火に対してはからっきし弱く、すぐ下の写真でも分かる通り、巨石の表面がボロボロになっている。当然、本丸御殿への延焼を食い止めることはできなかった。
中雀門跡_1
中雀門跡_2

中之門を入り大番所前を左に進むと、正面に大形の石材で積まれた石垣を見ながら登る坂道があります。この坂は、もともと江戸城東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると、本丸正門の中雀門があります。この門は、文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっていますが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていました。現在、二本のケヤキが門柱のようにそびえている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたります。

 

皇居東御苑(5)

二の丸を後にし、いよいよ一段高いところにある本丸跡に向かう。

白鳥濠と汐見坂
本丸と二の丸をつなぐ坂道。結構な急坂。昔は、今の新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海が見えた。それが名称の由来だそうだ。太田道灌の時代はこの門が大手門だったとのこと。
汐見坂_1
汐見坂_2
汐見坂_3
汐見坂_4
白鳥濠

桃華楽堂など
このエリアは通常は一般の人の立ち入りはできない。そのため、一部の写真は皇居参観ガイドの写真を使用させていただいた。説明も引用のみ。m(_ _)m
桃華楽堂
桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后さまの還暦記念として建設されました。
鉄仙の花弁を形どった屋根と八面体の珍らしい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。

桃華楽堂
宮内庁書陵部庁舎
40万点に及ぶ皇室の古文書と全国に存在する陵墓の管理を行っている。
皇居参観ガイドの写真を使用
宮内庁書陵部庁舎

楽部庁舎
宮内庁式部職の楽部では,雅楽の保存,演奏,演舞,宮殿で演奏される洋楽を担当しています。毎年秋には,楽部による雅楽の一般公開が行われています。通常は一般の人は入れません。
皇居参観ガイドの写真を使用
楽部庁舎

天守台
本丸の北端に位置している。最初の天守は1607年に完成し、このときの天守台は少し南にあった。3代将軍家光が大改修を行い、最終的な完成をみたのは1638年。このとき、現在の天守台ができた。天守は、外観5層、内部6階建てで、天守台を含めた高さが58mであり、天気が良ければ房総半島からでも見ることができたという。しかし、明暦の大火で焼失してしまい、再建策もあったが、家光の弟である保科正之(会津松平家藩主)の反対により再建は延期され、それ以後天守は建設されなかった。
天守台_1
天守台_2

 

皇居東御苑(4)

今回は、二の丸庭園に植えられている樹木をとりあげる。

ゴンズイ
遠目には百日紅かと思ったが、近づいてみると、何やら実が赤く色づいていた。それで赤く見えたようだ。標識によれば、ミツバウツギ科のゴンズイ。初めて目にした。魚のゴンズイは知っていたが、こちらは全く知らなかった。
ゴンズイ_1
ゴンズイ_2

都道府県の木
私の気になった樹木のみ紹介する。

皇居参観ガイドの写真を使用
都道府県の木の石碑

やまもも…徳島県
雌雄異株だそうだ。2本植えられていたように記憶している。雌株と雄株とであればよいがどうだろうか。
やまもも

フェニックス(カナリーやし)…宮崎県
南国ムードを演出するのに最適な樹木かもしれない。いろいろな場所で目にする機会が多い。
フェニックス(カナリーやし)

だいせんきゃらぼく…鳥取県
大山に登らないと自生している様は見られないのか。見たいけれど、高いところは大の苦手だ。う~~ん。
鳥取県大山の山頂部にはキャラボクの大群落がある。このキャラボクは「ダイセンキャラボク」として国指定の天然記念物に指定され、独立の種とされていたが現在は母種の変異の範囲内とされている。群落は1700m前後の山頂平坦面に広がっており、群落の高さは数m。幹は地面を這ってまるで高山のハイマツ群落のようである。
だいせんきゃらぼく

あて(ひのきあすなろ)…石川県
阿天(あて)は翌檜(あすなろ)のことで、石川県の県木に指定されている
あて(ひのきあすなろ)
ひば(ひのきあすなろ)…青森県
檜葉(ひば)も翌檜(あすなろ)のことで、青森県の県木に指定されている
ひば(ひのきあすなろ)

 

皇居東御苑(3)

今回は復元された二の丸庭園を見る。家光の命により小堀遠州が造った回遊式庭園。花菖蒲に時期が最高なんだろうな。酷暑の時期に行くものではない。

二の丸庭園の中心部
二の丸庭園_1
二の丸庭園_2
二の丸庭園_3
二の丸庭園_4
二の丸庭園_5
二の丸庭園_6
二の丸庭園_7

慶応3年(1867年)に二の丸の御殿が消失した後、ほとんど顧みられませんでしたが、昭和35年(1960年)の閣議決定で皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備することになり、昭和43年(1968年)に竣工、一般公開されました。二の丸庭園は、9代将軍家重時代の庭絵図面をもとに回遊式庭園として復元されました。

女郎花と男郎花
秋の七草の一つに女郎花(おみなえし)があり、その近縁種に男郎花(おとこえし)があるという。私自身は後者を見たことがなく、ホンモノを見てみたいものだと思っていた。それが案外早く実現した。
女郎花(おみなえし)
女郎花
男郎花(おとこえし)
男郎花_1
男郎花_2

コウホネほか
池にコウホネ等が咲いていた。皆同じように見えなくもなかったが、標識に従えば、次の通り。
コウホネ
コウホネ
ヒメコウホネ
ヒメコウホネ
アサザ
アサザ

菖蒲田
毎年6月上旬に見頃を迎える花菖蒲。今の時期は水を張っているわけではないんだ。調べてみると、二の丸庭園では5月中旬に菖蒲田に水を入れるようだ。水を抜く時期や水を張る理由は不明。
下記のような記述があったので、参考に載せた。

開花時に花菖蒲園を訪れると、水の中で咲いているが、これは水に映りがよいためにあえて水を張っているらしい。花期以外は、水を抜いてあるとのこと。

菖蒲田_1
菖蒲田_2
菖蒲田_3
菖蒲田_4

諏訪の茶屋
二の丸庭園に華を添える典雅な建物、諏訪の茶屋。ここは参観者が立ち入って飲食できる場所ではなく、近くから眺めるだけ。
諏訪の茶屋_1
諏訪の茶屋_2
諏訪の茶屋_3
諏訪の茶屋_4

諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在の御所などのある一帯)にありました。
この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備に当りここに移されました。

 

皇居東御苑(2)

済寧館
皇居内にある道場。扁額は有栖川宮熾仁親王が揮毫。
皇宮警察本部の道場として使用されているようだ。剣道の稽古中なのか、非常に威勢のよい掛け声が聞こえてきた。聞こえてくる声は剣道ばかり。柔道はどうした。柔道の練習日ではないのかな?オリンピック惨敗で意気消沈?最近、皇宮警察の選手活躍の報道は久しくないなあ。
済寧館_1
済寧館_2

同心番所・大手三の門跡
大手三の門の第一の門を過ぎた枡形の中にある。ここで御三家以外は籠を降ろされて、検問を受けたのか。江戸城は枡形の備えが無いところが無い感じだ。
同心番所・大手三の門跡_1
同心番所・大手三の門跡_2
同心番所・大手三の門跡_3
同心番所・大手三の門跡_4
江戸時代後期の下乗門…日本城郭協会「日本城郭全集 第十巻」より
下乗門(江戸時代)

大手三の門は、大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面のところにあり内側には同心番所があります。この門も本来は枡形門で、両側は水堀でした。
ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問を受けました。このことから、この門は下乗門とも呼ばれました。


百人番所
本丸と二の丸とへ通じる要所、大手三の門の前に設けられた番所。下の解説の通り、徳川家と強いつながりのあった忍び出身の強そうな奴らが詰めていたようだ。御庭番などの巣窟だったのだろうか?今でも警備は十分厳しいが、当時の厳しさは想像を絶するものだったのだろう。廿五騎組って何者なんだろう?
百人番所_1
百人番所_2
百人番所_3
百人番所_4

大手門から大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。
同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。


大番所
前の坂を上ったところが本丸の入口で、中雀門があった。本当に最後の守りの砦だったんだ。同心番所、百人番所を潜り抜けた強者にどう対処したのだろうか?確かに他よりは立派な佇まいだ。

大番所_1
大番所_2

大手三の門を抜けると左手に百人番所、右手に中之門があります。中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む「切込みはぎ」と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。こうした石垣は、大名の登城路や天守台主要な部分だけにみられるものです。
中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され、目地がほとんど無い、整層・布積みの石垣です。明暦4年(1658)に普請され、元禄16年(1703)地震で倒壊した石垣を修復し、その後約300年の間に、石材の移動による目地の開き・孕み、荷重や風化による破損・剥離等が発生していたため、平成17年(2005)から平成19年(2007)まで20ヶ月かけて解体・修復工事が行われました。三次元レーザ測量から築石一石ごとの立体モデルを作成し、コンピュータ画面上で、石垣創建当時の線形を推定するなどの修復工事の概要が、中之門跡に詳しく表示されています。 また、中之門石垣解体に伴い、築石同士を連結する銅製の「契り(ちぎり)」や築石の据付に使用した銅製・鉄製の「敷金」など様々な遺物が出土しました。
「番所」とは、警備の詰所のことです。現在、百人番所、同心番所とこの大番所の三つが残っています。大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。
大番所は再建されたものですが、背後の15段の射撃用の石段も古く風格のある立派な建物です。

 

皇居東御苑(1)

皇居東御苑は菖蒲田で有名だが、その他の季節も手入れの行き届いた植物を楽しめる。また、かなりの面積を一般に開放しているから、江戸城にいる気分を実感できる。一度行って見る価値があると思う。
それにしても外国の方の比率が高く、田舎侍のご先祖様は驚くことだろう。これだけ揉めているのに、中国人や韓国人がかなりいた。彼らはどんな気持ちでここに来たのだろうか?

皇居東御苑は,旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備されたもので,昭和43年(1968)から公開されています。

大手門
我がご先祖様も藩主に従って、この門を潜った筈だ。防衛を堅固にするためなのだろう枡形になっている。
お濠を泳ぐ白鳥
お濠の様子
大手門を望む
大手高麗門
大手高麗門
枡型側から見た大手高麗門
枡型側から見た大手高麗門
大手門渡櫓
大手門渡櫓_1
大手門渡櫓_2
大手門渡櫓_3
大手門渡櫓_4
大手門渡櫓の鯱_1
大手門渡櫓の鯱_2
旧大手門渡櫓の鯱
旧大手門渡櫓の鯱

江戸城の正門で、ここから諸大名は登城し三の丸に入った。彼らも二の丸濠を渡る下乗橋前で駕籠を降り、大手三の門、中の門、書院門(中雀門)へて本丸玄関前に至った。
江戸時代も火災・震災のたびに再建されてきた。1923年の関東大震災でも大破、2年後に渡櫓を解体し両側の石垣を築き直す大修理が行われた。太平洋戦争末期の1945年4月13日、渡櫓は全焼。1965~67年にかけて復元工事を行った。


大手門渡櫓をくぐって発券所へ
発券所へ向かう
入園票

 

横浜山手界隈(6)

エリスマン邸

今回巡り回った洋館の中で最も寛げたのが、このエリスマン邸だ。平日にいけば、どのような写真撮影でもゆっくり心いくまで楽しめるだろう。酷暑の中歩きまわったので、ここの喫茶室でのんびりクールダウンをした。はるか遠くにマリンタワーも望める。近くには、元町公園の緑が目に優しい。喫茶室にはごく短時間しかいない方なのだが、私にしては珍しく少し長い時間楽しんだ。
エリスマン邸_1
エリスマン邸_2
エリスマン邸_3
エリスマン邸_4
エリスマン邸_5
エリスマン邸_6
エリスマン邸_7
エリスマン邸_8

べーリック・ホールと小道を挟んで移築されているのはエリスマン邸です。
エリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられました。設計は、「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドです。
当時は木造2階建て、和館つきで建築面積は約81坪。屋根はスレート葺、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの白亜の洋館でした。煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響も見られます。
昭和57(1982)年マンション建築のため解体されましたが、平成2(1990)年元町公園内の現在地(旧山手居留地81番地)に再現されました。1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームなどがあり、簡潔なデザインを再現しています。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計したものです。かつて3つの寝室があった2階は、写真や図面で山手の洋館に関する資料を展示しています。また、地下ホールは貸し出しスペースとして、昔の厨房部分は、喫茶コーナーとしてご利用いただけます。


べーリック・ホール

イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅だった。20歳で来日し、52歳で建てた。その愛着ひとしおの邸宅。第2次世界大戦勃発寸前の情勢で、10年ほど住んだだけでやむなく去らなくてはならなくなったベリック氏の無念さはいかばかりだっただろうか?
それにしてもマリア会に寄付されたのは何故?誰か家族がセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールに通っていたというような事情があったのだろうか?
英国人だから必ずしも国教会の信徒というわけでなく、カトリックの信徒も少なからずいるのだが。

べーリック・ホール_1
べーリック・ホール_2
べーリック・ホール_3
べーリック・ホール_4
べーリック・ホール_5
べーリック・ホール_6
べーリック・ホール_7

べーリック・ホール(旧ベリック邸)は、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、昭和5(1930)年に設計されました。第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、昭和31(1956)年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付され、平成12(2000)年まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていました。
現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、設計したのはアメリカ人建築家J.H.モーガンです。モーガンは山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築を残しています。600坪の敷地に立つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、イスラム様式の流れをくむクワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など多彩な装飾をつけています。内部も、広いリビングやパームルーム、和風の食堂、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復元されているなど、建築学的にも価値のある建物です。
平成13(2001)年横浜市は、建物が所在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人カトリック・マリア会から寄付を受け、復元・改修等の工事を経て、平成14(2002)年から建物と庭園を公開しています。

 

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