散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

川越(12)

帰り道で見かけた建物

川越キリスト教会
聖公会の教会。1889年(明治22年)に最初の礼拝堂が建てられたが、1893年(明治26年)の大火により焼失。その後1921年(大正10年)に現在地に再建されたとのこと。
現在の松江町にある煉瓦造りの礼拝堂は、大正9年(1920)年に着工、翌年の大正10年(1921)4月に完成しました。設計は立教大学新築のため来日したウイリアム・ウイルソン氏、施工は清水組(現清水建設)によって行われました。建物は東西に細長い切妻造り、平屋建で、総工費1万8,644円65銭(現在の貨幣価値で約1億3,000万円)を要したといいます。
川越キリスト教会の建物は昭和54年(1979)に日本建築学会の「近代の主要名建築」の一つに選ばれ、さらに平成13年(2001)には国の「登録有形文化財(建造物)」、および川越市の「都市景観重要建築物」の指定を受けました。蔦が煉瓦の外壁を這っていることから「蔦の教会」として親しまれています。

川越キリスト教会_1
手前の人物との関係からも分かる通り、それほど大きな聖堂ではない。むしろこじんまりしている感じだ。
川越キリスト教会_2

原田家住宅
むかしの羽振りの良さが伺える大きな蔵造りだ。東京ならば、物凄い固定資産税がかかってしまい、積極的に商売を行わないと、維持管理は難しいのかもしれない。
松江町にある「原田家住宅」です。佐久間旅館の隣にある立派な住宅です。屋号は”足立屋”で、元穀物問屋。1896(明治29年)築、川越市指定文化財になっています。棟が高く、大きな鬼瓦、3つの観音開扉を持つ、黒塗り漆喰壁の美しい、重厚で威厳のある建物です。
『佐久間旅館』の看板は手前側のもので、蔵造りの原田家住宅とは無関係のもの。
原田家住宅_1
原田家住宅_2
原田家住宅_3

佐久間旅館
将棋の趣味がなく全く知らなかったが、格式を誇る将棋の名人戦の会場となる名旅館とのこと。外から見ると、落ち着いた佇まいの高級旅館程度にしか見えないが、内部は本当に凄いのだろう。
奥の間は、島崎藤村の定宿、将棋の名人戦の会場としても知られる川越屈指の座敷です。明治44年建築、木造2階建ての洗練された書院造り。国の登録有形文化財に指定。
佐久間旅館_1
佐久間旅館_2

「うなぎ いちのや」
天保三年創業、一子相伝のたれを守り慶事・法事・顔合わせ等用途に合わせた席をご用意とある。入ってみたいと思った店構えだった。
うなぎ いちのや_1
うなぎ いちのや_2

以上で、今回の『川越』の記事は終了です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

川越(11)

喜多院(2)
その他
慈恵堂…県指定有形文化財(建造物)
慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。
裄行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。
川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月に大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。
昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。

慈恵堂_1
慈恵堂_2
多宝塔…県指定有形文化財(建造物)
この多宝塔が国の重要文化財に指定されていなかったのはやや意外だったが、下記説明にあるような明治末の移築に際しての大幅改造が響いているのかもしれない。
多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。
総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。
江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。

喜多院_多宝塔_1
喜多院_多宝塔_2
喜多院_多宝塔_3
五百羅漢
定義はまちまちで、川越が含まれていない数え方もある。どのみち、目黒の五百羅漢は含まれないようだ。
日本三大羅漢の一つに数えられています。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。
羅漢とは、阿羅漢の略称で、漢訳は応供(おうぐ)。尊敬や施しを受けるに相応しい聖者という意味です。

五百羅漢_1
五百羅漢_2
五百羅漢_3
五百羅漢_4
どろぼうはし
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行では捕まえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕らえられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐ろしさを知った。
盗賊は、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろぼうばし」というようになったということである。

どろぼうはし

仙波東照宮
実は川越で私が一番見たかったところだった。今の扱いは粗末な感じがしてならない。時代が変わったのだと感じた。
元和2年(1616年)に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失するが、徳川家光によって川越藩主で老中の堀田正盛が造営奉行に命ぜられ、幕府によって再建された。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営であった。
本殿には木像の家康公像が祀られている。石鳥居は寛永15年(1638年)に堀田正盛が奉納したもの。本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並ぶ。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国宝。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。

仙波東照宮_14
国指定の重要文化財
本殿(附:宮殿、棟札)
瑞垣
唐門
仙波東照宮_5
仙波東照宮_6
仙波東照宮_7
仙波東照宮_8
拝殿及び幣殿
幣殿部分は拝殿の陰に隠れていて撮ることが出来なかった。
仙波東照宮_1
仙波東照宮_2
仙波東照宮_3
仙波東照宮_4
石鳥居
仙波東照宮_16
随身門
仙波東照宮_15
工事中だったため、FREEの画像を借用
仙波東照宮_随身門

 

川越(10)

成田山川越別院
喜多院の手前にあるので、こちらも回ってみた。
成田山川越別院本行院は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。
成田山川越別院本行院_1
成田山川越別院本行院_2

喜多院(1)
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
境内や周辺には五百羅漢をはじめ、多くの史跡などが有ります。江戸城から移築された、家光誕生の間や春日局間も残っています。


国指定の重要文化財
建物内部は撮影禁止。どういう考えに基づいてこのような扱いにしているのかはわからないが、商売上手だという印象しか湧いてこない。
客殿(附:渡廊)
寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。
FREE画像を借用
喜多院_客殿(附:渡廊)
書院
寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。
FREE画像を借用
喜多院_書院
庫裏(附:玄関・玄関広間・渡廊及び接続室〔合1棟〕)
寛永15年(1638年)建立
FREE画像を借用
喜多院_庫裏(附:玄関・玄関広間・渡廊及び接続室〔合1棟〕)_1
喜多院_庫裏(附:玄関・玄関広間・渡廊及び接続室〔合1棟〕)_2
喜多院_庫裏(附:玄関・玄関広間・渡廊及び接続室〔合1棟〕)_3
慈眼堂(附:厨子)
下記の通り、小高い丘の上にある。この丘は7世紀初頭の古墳だそうだ。現在ならば、文化財の上に建物を建てるなど到底許されることではなかろうが、江戸の頃の話だ。それこそお上の強い意向が働いたのだろう。
慈眼堂は、慈眼大師天海をまつる御堂です。
天海僧正は、寛永20年(1643)10月2日寛永寺において入寂されました。
正保2年(1645)に徳川家光公の命によりこの御堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されました。建物は、裄行3間、梁間3間の比較的小さな御堂で、屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造り、本瓦葺。
小高い丘の上にあり、この丘は7世紀初頭の古墳を利用しています。

慈眼堂(附:厨子)_1
慈眼堂(附:厨子)_2

山門(附:棟札)
またもや見落とした
山門は四脚門、切妻造で本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の刺額が掲げられていた。
冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫りものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天界僧正が寛永九年(1632)に建立したもので同十五年の大火を免がれた喜多院では最古の建造物である。山門の右側に接続して建っているのが番所で間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、起屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。

FREE画像を借用
喜多院_山門

鐘楼門(附:銅鐘)
2階建ての階上に梵鐘を吊るすこの鐘楼門は、裄行3間、梁間2間、入母屋造りで本瓦葺。
1階には袴腰と呼ばれる囲いが付き、2階の前面には竜、背面には鷹の彫刻があります。
建立年代ははっきりとしていませんが、寛永10年(1633)に東照宮の門として鐘楼門が建立されたことが「星野山御建立記」の記録にみえます。その頃、東照宮は今の慈眼堂の場所にあり、鐘楼門再建の記録もないことから寛永15年(1638)の川越大火で焼失を免れた可能性もあるといわれています。
なお、階上の銅鐘は元禄15年(1702)の銘があります。

如何にも残念な感じの佇まいだが、こちら側が一応は前面だ。龍が彫られている。
喜多院_鐘楼門(附:銅鐘)_3
こちらが背面。鳥の彫刻は鷹だそうだ。
喜多院_鐘楼門(附:銅鐘)_1
喜多院_鐘楼門(附:銅鐘)_2

 

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