散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(7)

土佐坊昌俊邸跡
吾妻鏡に記載されている内容だけならば、取り上げる気がなかった。だが、この人物が金王丸であるとなれば、見逃すわけには行くまい。あの渋谷の総鎮守『金王八幡宮』に繋がる話であるからだ。金王八幡宮のHPを見ると、完全に土佐坊昌俊は金王丸であると断定している。
この石碑は古いものだなあ。関東大震災の直後に建てられたんだ。
土佐坊昌俊邸跡石碑
堀川夜討の画
大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢の問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにした為、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向したのち源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加する。
文治元年(1185年)10月9日、頼朝と弟の源義経が対立すると、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を収集するが、名乗り出る者がいない中、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、頼朝に下野国にいる老母と乳児の行く末を託し、頼朝は下野国の中泉荘を与えている。
昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で鎌倉を出発し、17日に京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い、自ら討って出て応戦した。のちに源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが、義経の郎党に捕らえられ、26日、家人と共に六条河原で梟首された(『吾妻鏡』)。

鎌倉タイムの『土佐坊』の記事にjump
土佐坊昌俊は、平治の乱で敗れ、東国へ落ち延びようとしていた源義朝主従八騎のうちの一人だった渋谷金王丸ともいわれています。金王丸は、義朝が尾張で長田忠致に暗殺されると、そのことを常盤御前に伝え、自分は出家して土佐坊と名乗り義朝の菩提を弔ったと伝えられています。
金王八幡宮は、金王丸の祖父河崎基家が創建した神社。
当初は渋谷八幡宮と呼ばれていたそうですが、金王丸の名声によって金王八幡宮と改められたといいます。


東勝寺跡とその近辺
北条高時腹切りやぐらと東勝寺跡の案内
此処からもうすぐ。うっかりしていたが、北条高時腹切りやぐらと東勝寺跡とは隣接しているものの、別のものなんだ。
北条高時腹切りやぐらと東勝寺跡の案内
滑川と東勝寺橋
滑川と東勝寺橋_1
滑川と東勝寺橋_2
滑川ってこんなにキレイな川だったかと改めて見直した
滑川と東勝寺橋_3
滑川と東勝寺橋_4
滑川と東勝寺橋_5
青砥藤綱旧蹟
私が全く知らない人物。鎌倉時代後期の武士で、公正・剛直の人として有名だったようだ。この石碑を撮ったことさえ忘れていたくらいだ。江戸時代には、大岡越前を登場させるのは差し障りがあったのか、この青砥藤綱が公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として描かれたとか。
この石碑は、下記のエピソードのあった辺りに建てられたらしい。

青砥藤綱旧蹟_1
青砥藤綱旧蹟_2
文学作品としては月尋堂の浮世草子『鎌倉比事』や曲亭馬琴の読本『青砥藤綱摸稜案』が挙げられる。歌舞伎においては市村座が藤綱関連の作品を積極的に行ったことが知られ、三代目桜田治助と組んだ『青砥稿』『名誉仁政録』、二代目河竹新七(黙阿弥)と組んだ『青砥稿花紅彩画』が知られている。
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かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。
東勝寺跡
義貞が稲村ヶ崎を突破し、鎌倉に侵攻したことによって、得宗の北条高時をはじめとする北条一族は東勝寺に退き、そこで自刃した。『太平記』によれば、東勝寺での死者は870余人に及んだという。鎌倉幕府が滅亡した瞬間だ。その跡地がこの写真のところ。
東勝寺跡_1
東勝寺跡_2
東勝寺跡_3
東勝寺跡_4
東勝寺跡_5
東勝寺跡_6
東勝寺跡_7
この道をさらに少しだけ上がったところに『北条高時腹切りやぐら』がある。鎌倉幕府滅亡後だけに、凄みがあるところのようだ。今回は見逃してしまったので、次回機会があれば、しっかり見ておきたい。
鎌倉タイムの『腹切やぐら』の記事にjump

Vin 茶家 OMOTE
此処で遅い昼食をとり、今回の行程を終える。
素敵な店内で、美味しい昼食と食後のケーキとお茶とを楽しんだ。最初から、女主人が極めて美しい人だと思っていたが、想像通り私の知っている女優さんだった。ちょうど昼食を終えたときに、NHKのドラマ10『ツバキ文具店』のロケがあり、かの女優さんの説明をききながら、しばし様子を見ていた。多部未華子さんも可愛かったなあ。

Vin 茶家 OMOTE_1
Vin 茶家 OMOTE_3
Vin 茶家 OMOTE_5
Vin 茶家 OMOTE_6
Vin 茶家 OMOTE_7
最期のロールケーキはピンぼけの写真になってしまったので、お店の写真を借用した
Vin 茶家 OMOTE_8

以上で、『浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(6)

前回5月3日の記事だが、通し番号が1つ飛んでいた上に、画像が足りなかった。これらを修正したので、興味があれば、『浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(5) 2017.05.04 16:50 画像追加』をも再度ご覧いただきたい。

今回は何が何でも東勝寺跡を見るんだという意気に燃えて、浄明寺から歩き始めた。まずは、途中にある文覚(もんがく)上人屋敷跡石碑を見てから、行くことにする。

文覚(もんがく)上人屋敷跡石碑
雪ノ下4-4-32所在。金沢街道から大御堂橋を渡るとすぐT字路に当る。その交差点の右側に建つ。海の嵐を鎮める法力を持ち、頼朝に平氏追悼の院宣をもたらしたという伝説の人物だそうだ。この人物のことは、アチラコチラで見聞きする。
平維盛の遺児六代(平家最後の嫡男)の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護した。その保護した六代御前は、政争に巻き込まれた文覚上人の力の及ばない無いところとなり、鎌倉に引き立てられ、処刑された。逗子市桜山に六代御前の墓が残る。以前見た史跡だ。
昨年末に、神護寺や高山寺を尋ねたが、そちらにも非常に関係が深い高僧だった。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。
そのキャリアの出発点とも言える屋敷跡か。

文覚(もんがく)上人屋敷跡石碑
文覚(もんがく)上人
文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、以前は院の警備をしていましたが、18歳の時に、源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ、源渡を殺そうとして、間違って袈裟御前を殺してしまいました。
これを深く後悔して僧となりました。その修行の仕方は大変なもので、凍える日も、真夏の暑い日も草原で寝、日々滝に打たれて何度も死にそうになったといいます。1182年4月、源頼朝の本願として江ノ島に弁財天(べんざいてん)を建て、ここで三十七日の間、飲まず食わずで祈りつづけたといわれています。この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。


ツバメも居た
夏鳥といえば夏鳥だ。此処のところ、野鳥さんは全く遭遇できない日が続いている。私が見ることができる唯一の夏鳥かもしれないと弱気になっている。
ツバメ_1
ツバメ_2

宝戒寺
当初、立ち寄るつもりがなかったが、尿意が我慢できず、仕方なく、立ち寄ることにした。立ち寄るからには、しっかり見ておこう。
参道
よくわからないかもしれないが、八角形の大きな敷石が続いている。かなり美しいものなのに、はっきり撮ることができず、残念。
参道
北條執権邸旧蹟の石碑
寺域は北条義時以来の歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝えられている。
北條執権邸旧蹟の石碑
庭石が粋だ
庭石が粋だ_1
庭石が粋だ_2
本堂
いたるところにミツウロコの家紋が入っている。それは、北条高時の慰霊のために造営した寺なのだから、当然のことだろう。
本堂_1
本堂_2
本堂_4
本堂_5
本堂_6
堂内は撮影禁止なので、以下2点はPDF画像を借用する
本堂_7
本堂_8
鐘楼と梵鐘
鐘楼と梵鐘_1
鐘楼と梵鐘_2
宝篋印塔
1333年に滅亡した北條氏ならびに鎌倉合戦東勝寺戦没諸精霊を供養する慰霊塔。鎮魂の祈りを込めた写経、写経石が収められているそうだ。
宝篋印塔は、材木座にある光明寺の内藤家墓所で数多くのものがあるのを見た。何を指すものかといえば、宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔だそうだ。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた。
宝篋印塔
聖徳太子堂
何故、この寺に聖徳太子堂があるのか、正直なところよくわからない。
聖徳太子堂_1
聖徳太子堂_2
得崇大権現堂
北條高時公を得崇大権現として祀る。鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、北條氏鎮魂のため、毎年、大般若転読会が行われる。
真ん中の位置するのは当然だろうが、なぜだか小ぶりの堂である。あまり偉大な存在として崇め立てたくはなかったのだろうか?

得崇大権現堂_1
得崇大権現堂_2
大聖歓喜天堂
国指定の重要文化財である秘仏の大聖歓喜双身天王を祀る。なぜ、この寺の秘仏がこの大聖歓喜天なのかも、正直なところ私にはわからない。
大聖歓喜天堂
歓喜天は聖天(しょうでん)とも称し、象頭人身の2神が相抱擁する形に造形される。歓喜天像は一般に小像が多いが、宝戒寺像は像高155cmに及ぶ大作として珍しい。川端康成の妻は自ら聖天信者を名乗り、行者の予言でこの像の存在を知り、ノーベル賞受賞前に足しげく参詣していたという。

得宗家9代目当主で鎌倉幕府元執権(第14代)の北条高時は、元弘3年5月22日(ユリウス暦1333年7月4日)、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の建武2年3月28日(同1335年4月22日)付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されている。

小用も済ませたので、最期の目的場所である東勝寺跡を目指す

 

浄妙寺~報国寺~杉本寺~宝戒寺~東勝寺跡(5)  2017.05.04 16:50 画像追加

杉本寺
鎌倉最古の寺、杉本寺に立ち寄る。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の天平六年(734)に創建されたとされる古刹だ。
鎌倉石の苔生した石段
苔生した様は実に美しい。歩くことができるわけではないが、よく見て記憶にとどめたい佇まいだ。
鎌倉石の苔生した石段_1
鎌倉石の苔生した石段_2
鎌倉石の苔生した石段_3
鎌倉石の苔生した石段_4
鎌倉石の苔生した石段_5
鎌倉石の保護のため、従来の石段は通行禁止となり、迂回路が設けられている
鎌倉石の苔生した石段_6
鎌倉石の苔生した石段_7
ご本尊の画像
ご本尊は撮影禁止。絵札を買ってきていたのを失念していた。これを追加するので、本物をイメージしていただきたい。
中央の像(像高166.7センチメートル)は寄木造、漆箔仕上げで、円仁(慈覚大師)作と伝承され、衣文に平安時代風を残すが、鎌倉時代に入っての作とみられる。
慈覚大師御作_十一面観世音菩薩_R
中尊の左(向かって右)の十一面観音立像(像高142センチメートル)は寄木造、漆箔仕上げで、源信(恵心僧都)作と伝承されるが、実際の制作年代は鎌倉時代である。
恵心僧都御作_十一面観世音_R
右(向かって左)の十一面観音立像(像高153センチメートル)は行基作と伝承されるもので、素木の一木造であり、3体の中ではもっとも古様で、平安時代末期の作と推定される。作風は素朴で、ノミ痕を残す部分もあり、専門の仏師ではない僧侶の作かと推定されている。
行基菩薩御作_十一面覆面観世音_R

寺伝によれば、天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まるという。相当に古い寺院であることは論を俟たない事だが、行基が創建したという言い伝えは本当なのだろうか?Wikipediaの行基の記述を読むと、行基開基の寺院は史料によるもので、近畿地方に所在する寺院ばかりが列挙されている。全国には、青森県から宮崎県まで約600寺の行基が開基したとの伝承の寺院があるそうだが、これらは史料にない追慕による伝承であると冷たく言い放されている。おそらくそういうことなのだろうが、あまり割り切ってしまうのも、夢も希望もなくなってしまう気がしないでもない。
その由緒ある寺だが、文治5年(1189年)堂宇が焼失している。このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと伝えられる。まあ、これも、そうだったら良いだろうの世界の話かもしれない。
『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189年)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったという。こちらのほうが、まだ、信じられる記述だろう。同書には建久2年(1191年)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとある。これもそのとおりだろう。


山門
切妻造、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を安置する。江戸時代、18世紀半ば頃の建立。茅葺きの山門は見事なものだ。だが、辺り構わず千社札が貼られているのが、風情を大きく損なう。何とも残念でならない。
山門_1
山門_2
山門_3
山門_4
山門_5
堂内の塵を払って、千社札を剥がしておいたほうが良さそうに思う。ついでに仁王像の修理もしたほうが良さそうだ。
山門_6
山門_7
山門_8
山門_9
山門_10
山門_11
山門_12
本堂(県指定文化財)
寄棟造、茅葺、方五間(正面側面とも柱間が5間)の密教仏堂。棟札から延宝6年(1678年)の建立と判明する。第4代将軍徳川家綱のときだ。鎌倉の建物は、殆どが江戸時代の建物なんだなあ。
本堂(県指定文化財)_1
本堂(県指定文化財)_2
鐘楼と梵鐘
おそらくこの鐘楼も本堂や山門と同時代に再建されたものではなかろうか。本堂と釣り合いがとれる気がするが、これだけは瓦葺きなんだ。
鐘楼と梵鐘_1
鐘楼と梵鐘_2
斯波家永と家臣の供養塔
本堂の横にある五輪塔群は、かつて境内を含む裏山一帯にあった杉本城の城主である斯波家長とその家臣たちを弔うための供養塔。かつての杉本城には、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害しているそうだ。
斯波家永と家臣の供養塔_1
斯波家永と家臣の供養塔_2

杉本寺は天台宗の寺。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の天平六年(734)に創建された鎌倉最古の寺。天平三年(731)、関東地方を歩いていた行基菩薩が、鎌倉の大蔵山から町を眺め「ここに観音様を置こう」と思い、自ら彫刻した十一面観音像を安置した。
その後、光明皇后の恩召により、行基が本堂を開創した。文治5年(1189)11月23日の夜、火災が起こったが本尊3体が大杉の下で火を避けられたので、それにより杉の本の観音と今日まで呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。その後、建久2年(1191)9月18日に源頼朝が再興し以前の三尊像を内陣に安置し、別に立像7尺の十一面観音像を寄進した。
坂東観音霊場33番札所制度の時、第一番札所とされた。十一面杉本観音と書かれた白幡が石段の両側に並んでいる。本尊は十一面観音。

 

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