散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

皇居周辺をぶらぶら(7)

東京銀行協会ビル
渋沢栄一が創設した東京銀行協会の集会施設だった大正初期に竣工の煉瓦造りの建物。設計は松井貴太郎(横河工務所)。再開発にあたって、以前の建物の雰囲気だけでも残そうとファザード保存をしたんだ。
東京銀行協会ビル_1
PDF画像を借用
東京銀行協会ビル_2
設計:横河工務所/築:1914(大正3)年
日本工業倶楽部と同じく、横川工務所による建築。やはり高層ビル部が増築されていますが、こちらは完全に高層ビルに外壁だけ取り付けた感じがして、何とも格好が悪い・・・。もともとの建物の形が、こうした高層ビル化には向かなかったようです。せめて、高層ビル部分がもう少し後ろに下がっていれば、まだ評価する声もあったでしょうに。

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大正5年に建てられた煉瓦造の二階建ての外壁のうち、2面を残し内側に新築のビルが建てられました。「ファサード保存」と呼ばれる保存形式の代表的な建築です。新築のビルは平成5年に建てられ、この前後、このような形での保存が全国各地に見られるようになりました。
煉瓦造の外壁から、丸の内界隈が「1丁ロンドン」と呼ばれた頃をうかがい知ることができます。


明治生命館 【国指定重要文化財】
昭和の激動を乗り越えてきて今なお燦然と輝く明治生命館。国指定の重要文化財にふさわしい風格を持つ。多くの言葉は不要かと思う。
明治生命館 【国指定重要文化財】_0_1
明治生命館 【国指定重要文化財】_0_2
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明治生命館 【国指定重要文化財】_1
明治生命館 【国指定重要文化財】_2
明治生命館 【国指定重要文化財】_3
明治生命館 【国指定重要文化財】_4
明治生命館 【国指定重要文化財】_5
明治生命館 【国指定重要文化財】_6
設計:岡田信一郎/築:1934(昭和9)年
5階分に相当する高さのコリント式列柱が並ぶ古典主義様式が非常に特徴的。遠くから見ても実に重厚で、立派で、近くで見ても装飾が素晴らしい。また、耐震構造にもなっていて(設計:内藤多仲)、これも評価できる部分です。


三菱一号館
どうして三菱地所は、突如解体して、復元するような不可解な動きをとったのだろうか。国指定の重要文化財として縛られるよりも気持ちのよい、そして、安全なレトロな建物を建てたかったのだろうか?
三菱一号館_1
三菱一号館_2
三菱一号館_3
三菱一号館_4
三菱一号館_5
三菱一号館_6
三菱一号館_7
三菱一号館_8
三菱一号館_9
三菱一号館_10
三菱一号館_11
設計:ジョサイア・コンドル/築:1894(明治27)年 (※2009年復元)
元々の建物は日本初のオフィスビルとして完成し、銀行などが入居。コンドルによる名建築の名が高く、国指定重要文化財にとの動きもありましたが、1968(昭和43)年に三菱地所が突如解体。その後、付近を丸の内パークビルディングとして再開発するにあたって2009(平成21)年に復元され、現在は三菱一号館美術館やレストランとして使用されています。


JR東京駅丸の内口 【国指定重要文化財】
オランダのアムステルダム中央駅を真似たという説は否定されつつあるようだが、実際に行ってアムステルダム中央駅を見てみると、既視感があるのだ。参考にさせてもらったのかもしれない。
JR東京駅丸の内口 【国指定重要文化財】
設計:辰野金吾/築:1914(大正3)年
辰野金吾の特徴とも言える煉瓦式の建築。現在のJR東京駅丸の内口は、戦災で3階部分が焼け、2階部分までを応急処置を施して復興したものです。取り壊しの話も出ながらも、2012(平成24)年に旧来の姿へ復元されました。
なお、中央の出入り口は皇室専用ですが、現在は使用されていません。また、オランダのアムステルダム中央駅を真似たという説もありますが、ほぼ否定されています。


以上で『皇居周辺をぶらぶら』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

皇居周辺をぶらぶら(6)

皇居の竹
たまたまなにもないと殺風景なので植えたのだと思うが、各種の竹が植えられている。急に竹やぶが見えるので、意表を突かれる感じだ。
キンメイモクソウ
キンメイモクソウ_1
キンメイモクソウ_2
ギンメイチク
ギンメイチク_1
ギンメイチク_2
キンメイチク
キンメイチク
オウゴンチク
オウゴンチク
説明標識
昭和天皇のおしるしが若竹だったのか。其れを平成8(1996)年に植えたんだ。全部撮っておけば良かった。
>説明標識

松の廊下跡
本丸御殿は現在芝生になっている部分とほぼ同じだと思っていたのだが、そうでもないようだ。この辺も御殿の一部だったのか。
松の廊下跡_1
松の廊下跡_2
CG_1
CG_2
下記の日記を読んでも、細かい事情はわからずじまい。浅野内匠頭には、それ以前に高家旗本筆頭の吉良上野介に、プライドを傷つけられたと思う経緯があったのだろう。
浅野内匠頭は何故刃物を所持できたのか。それが疑問だった。吉良上野介の下で勅使饗応の最終日だったとかで、儀式用に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う)で斬りかかったようだ。そうだったのか。
激しやすい主君だと、当該の藩士は大変な運命に否応なく巻き込まれたんだ。

幕府留守居番、梶川與惣兵衞の元禄14年(1701)3月の日記から一部を引用
其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被參候間、拙者大廣間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大廣間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之処にて雙方より出会ひ、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覺えたるか」と聲を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、淺手にて有之候)。我等も驚き見候へば、御馳走人の淺野内匠殿なり。
上野介殿「是れは」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。上野介其侭うつ向に倒れ申され候。其時に我等内匠殿へ飛かゝり申候(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覺え申候)。
右の節、我等片手は内匠殿小さ刀の鍔に當り候故、それともに押付けすくめ申候。其内に近所に居合申されし高家衆、并に内匠殿同役左京殿などかけ付けられ、其外坊主共も見及候処に居合候者共、追々かけ来り取りおさへ申候。


富士見櫓
こちらでは櫓の数は19となっている。以前取り上げたとき、多聞櫓を含めて46としたが、多聞櫓を除くと20となる。どちらが正しいのだろうか?
この方向からは石落としなどは見えない。当たり前といえば当たり前だ。昔はこの本丸を死守することが最重要だったんだ。
富士見櫓_1
富士見櫓_2
富士見櫓_1
説明書きには次のようなことが書かれてある
富士見櫓_3
富士見櫓_4
江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、品川の海や富士山をご覧になったといわれています。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。
天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。どこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優美です。


石室
時代小説の格好の素材になりそうな石室だ。そこでは、どこぞへの抜け道ということになるのだろうが、実際には、貴重品などを避難させた蔵と考えるのが至当なのかなあ。本当の抜け道なのであれば、存在そのものを目立たないようにしてあったと思う。
石室_1
石室_2
石室_3
石室_4
富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵です。江戸城の遺構の中では比較的小さなもので、表の石組には焼けたような痕があり、多少ずれています。
入り口には扉を取り付けた穴があり、内部は20平方メートルほどの広さとなっています。伊豆半島産の安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られています。江戸城の抜け穴や御金蔵との説もありますが、場所柄から、火災などの際に貴重品などを避難させた蔵と考えられます。

 

皇居周辺をぶらぶら(5)

このあと東御苑に向かう

早くもロウバイが咲いていた
早くもロウバイが咲いていた_1
早くもロウバイが咲いていた_2

(旧)皇居正門石橋飾電燈
長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換された。取り外されたもののうち1基が二の丸庭園入り口にあった。
(旧)皇居正門石橋飾電燈

花菖蒲はまだまだだった
花菖蒲はまだまだだった_1
花菖蒲はまだまだだった_2
花菖蒲はまだまだだった_3

諏訪の茶屋
諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在の御所などのある一帯)にあった。説明によれば、この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備に当りここに移された、と書かれてある。
よくわからないのは、明治末に再建されたとき、明治の建物として建てられたのかということ。普通再建するにあたっては、昔の様式を踏襲するのではないかと思うが、徳川否定で凝り固まっていたのだろうか?

諏訪の茶屋_1
諏訪の茶屋_2
諏訪の茶屋_3

潮見坂を上って、二の丸から本丸に進む

潮見坂
平凡な坂のように見えるかもしれないがかなり急勾配の坂だ。皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海が見えたのか。信じられないことだが、その昔はそうだったのだろう。
潮見坂_1
潮見坂_2
本丸と二の丸をつなぐ坂道です。昔はこの坂から今の新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、海が見えたのが名称の由来です。坂を下りると,三代将軍徳川家光の命により小堀遠州が造ったとされる庭園を復元した二の丸庭園があります。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。

本丸に出た

桃華楽堂
香淳皇后さまと言われてどなたのことだかわかる方は、相当皇室に感心のある方なのだろう。私は、どなたなのかピンとこなかったが、常識的に考えれば、昭和天皇の皇后さまであることはわかる。その香淳皇后さまの還暦記念として建設された音楽堂なのか。
この本丸のエリアにわざわざ建てなくても良かったのではないかとおもう。ここは、あくまで徳川の名残で統一したほうが良かったと思う。今後、この種の建物が追加で建てられると本丸エリアが本丸エリアでなくなってしまう。

桃華楽堂
桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后さまの還暦記念として建設されました。
鉄仙の花弁を形どつた屋根と八面体の珍らしい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。


本丸御殿跡
本丸御殿は面積が約一万一千坪もあったのか。
本丸御殿跡_1
本丸御殿跡_2
本丸地区は、江戸城の中心をなし、周囲に石垣と濠をめぐらした高台で、約13万平方メートル(約4万坪)と最も広い場所です。
江戸城は、天正18年(1590年)の徳川家康入城以来、秀忠、家光の三代にわたって完成されたのですが、その当時の本丸の建物は表・中奥・大奥からなる壮大豪華な殿舎(面積約一万一千坪)が所せましとたちならんでいました。天守閣のほか、櫓が十棟、多聞十五棟、諸門二十数棟がありました。
現在は、本丸跡地として、大きな芝生の広場になっています。芝生のず~っと向こうに見える石垣が天守閣跡になります。


天守台
天守台_1
天守台_2
再建計画図面(PDF画像借用)
手書きの絵図と比較すると、最上層の屋根の向きが90度ずれている。意図して変える計画としたのだろうか?
再建計画図面(PDF画像借用)
再建計画図面_2(PDF画像借用)
『江戸図屏風』に描かれた元和度もしくは寛永度天守(PDF画像借用)
『江戸図屏風』に描かれた元和度もしくは寛永度天守(PDF画像借用)
富士見多聞
つい先日から内部を公開するようになった。
富士見多聞_1
富士見多聞_2
内部はこんなふう。至ってシンプル。
富士見多聞_3
富士見多聞_4
EF-Mマウントの小さなレンズでもすっぱり入れることはできなかった。当然のことだろう。宮殿が丸見えになるのかと思って期待したが、そんなに景観はよくなかった。
富士見多聞_5
富士見多聞_6
富士見多聞_7
富士見多聞_8
富士見多聞_9
一方通行で公開していた。こちらは出口側。
富士見多聞_10
富士見多聞_11
本丸御殿側を見るとこんな感じ。世が世ならば将軍の姿を見かけることがあったかもしれない場所だったんだ。
富士見多聞_12
「多聞」とは、防御をかねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれていました。
鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて狙い撃つことが出来ました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万が一に備えられていました。

 

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