散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

光明寺などを訪ねた(4)

光明寺裏山からの景観
富士山の雲がかかったしまったのが、返す返すも残念。それでも材木座海岸とはまた違った視点で、立体的な景観が楽しめた。あとは、私の腕前が追随しなかっただけだった。
光明寺裏山からの景観_1
光明寺裏山からの景観_2
光明寺裏山からの景観_3
光明寺裏山からの景観_4
光明寺裏山からの景観_5
九品寺
『くほんじ』と読む。九品仏浄真寺にも登場する『九品』の概念だ。閻魔大王にストップを掛けられず、最低でも下品下生までに入り込んで極楽浄土に行けるように努力しなくては。
九品寺は、新田義貞が京都から招いた風航順西和尚によって開かれた浄土宗の寺。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。そこまでは勢いがあったけれども、結局は足利尊氏してやられ、鎌倉には、縁を結べなかった人物なのか。
義貞が鎌倉で建立した唯一の寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。歴史に名を刻む寺院としては拍子抜けするほどこじんまりした寺院だ。

九品寺_1
九品寺_2
九品寺_3
九品寺_4
長勝寺
1253年(建長5年)日蓮に帰依した石井長勝が自邸に法華堂を立て日蓮に寄進したのに始まると伝えられる。この堂は、現在京都市山科区にある本圀寺の前身とされ、1345年(貞和元年)に、寺院そのものが洛中に移ってその後が荒廃していた。それを、日際上人が再興し、石井山長勝寺と号したという。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。
本堂
長勝寺本堂
本堂前の日蓮聖人像と四天王像
高村光雲作の、高さ8メートルの巨大な日蓮聖人像。四囲を固める四天王が小さく見えてしまう。光雲先生の創作上の意図はそこにあったのだろう。
本堂前の日蓮聖人像と四天王像_1
本堂前の日蓮聖人像と四天王像_2
台座には、東郷元帥の『知法思国』の書があった
本堂前の日蓮聖人像と四天王像_6
本堂前の日蓮聖人像と四天王像_3
本堂前の日蓮聖人像と四天王像_4
本堂前の日蓮聖人像と四天王像_5
本堂前の日蓮聖人像と四天王像_7
法華堂 神奈川県指定文化財
鎌倉時代特有の五間堂という建築様式だが、建立は室町時代半ば以降。この形式の建築物では関東最古といわれている。つまり鎌倉時代の五間堂は鎌倉には残っていないということだ。それだけ、争乱が激しかったということなのだろう。
法華堂 神奈川県指定文化財_1
鐘楼の方向から見た様子
法華堂 神奈川県指定文化財_2
六角堂
日蓮の遺歯が祀られてあるそうだ
六角堂
本師堂
タイ国から渡来の釈迦像が安置されている
本師堂
安国論寺
光明寺に次いで見たかった安国論寺。いつも素通りばかりでは申し訳なく、今回こそ、きちんと見ておこうと思い、立ち寄った。ところが、『月曜日は閉門』の無情な札が下がり、門は閉じられていた。縁がなかったのかなあ。
長勝寺・妙法寺と並び、日蓮が鎌倉で布教するに際して拠点とした松葉ヶ谷草庵の跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260年)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まり。

安国論寺_1
安国論寺_2
安国論寺_3
安国論寺_4
安国論寺_5
安国論寺_6
安国論寺_7
妙法寺
それではと思って、次に訪ねた妙法寺。こちらも残念ながら拝観できない日だったようだ。こちらは、実質的な開基が、日蓮から数えて第5世となる楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)上人で、延文2年(1357年)のこと。後醍醐天皇の子である護良親王と藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)の間に生まれた日叡上人は日蓮を偲び、かつ父・護良親王の菩提を弔うためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山法妙寺と名付けたと言われる。境内奥右手山頂には護良親王の墓が、左手山頂には母・南方と、日叡自身の墓があるそうだ。
妙法寺_1
妙法寺_2
妙法寺_3
妙法寺_4
妙法寺_5

最後がちょっと冴えなかった感じですが、以上で『光明寺などを訪ねた』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂き、有難うございました。

 

光明寺などを訪ねた(3)

光明寺(2)
わざわざ光明寺を見に出かけた大きな理由が内藤家墓所を見ることだった。凄い墓所なのに正直驚いた。世田谷の豪徳寺に井伊家の墓所があるが、それをも凌ぐような印象を受けた。
鐘楼
立派な鐘楼だと思ったら、総ケヤキ瓦葺きで、弘化四年(1847-48年)の建造。170年前のもの。現在の梵鐘は、昭和三十六年(1961年)、法然上人七百五十年遠忌に当たり、鋳造せられたもの。朝夕に鐘が撞かれ鎌倉市内に響き渡るそうだ。
鐘楼_1
鐘楼_2
鐘楼_3
開山堂
関東大震災で余り被害を受けなかった旧祖師堂(旧開山堂)を損壊程度が激しかった旧本堂(阿弥陀堂)の代わりに新しい本堂にしたようだ。阿弥陀堂の本尊は新しい本堂に遷座した。ということで其れまでの開山堂が本堂になってしまったので、代わりとなる開山堂が翌大正十三年、古材等も使用して新たに建てられた。そして、ときが移り、平成十四年、老朽のため再建した。以上が関東大震災後の経緯。
応急的に建てたものはしっかり造られていなかったのかもしれない。建て直されたばかりの開山堂は非常に立派。開山をはじめ歴代法主の御影を祀っている。

開山堂_1
開山堂_2
記主庭園と大聖閣
小堀遠州作と伝える蓮池を中心とした庭園か。立派な庭だ。
記主庭園と大聖閣_1
記主庭園と大聖閣_2
記主庭園と大聖閣_3
光明寺の庭園は浄土宗庭園で記主庭園とも呼んでいます。蓮池には、夏ともなれば優雅な色を持って開花いたします。七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます。庭園内に聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖法然上人800年大御忌を期して建てられました。お堂の二階には阿弥陀三尊が安置され、回廊よりその尊顔を拝すことが出来ます。
「三尊五祖来迎の庭」
内藤家墓所を一刻も早く見たい。気が逸っていて、完全に見落としてしまったようだ。何と迂闊なことだろう。以下2点はPDF画像を借用。
三尊五祖来迎の庭_1
三尊五祖来迎の庭_2
本堂南側にあり。三尊とは、極楽浄土の阿弥陀仏とその脇士たる観音・勢至の二大菩薩を表し、五祖は浄土教を説法流布された釈尊(印度)善導(中国)法然・鎮西・記主(日本)の浄土宗五大祖師を示します。この三尊五祖が、庭園の中に石で表現されています。庭園全体の構図は、煩悩多いこの世(此岸)と救われていく彼の岸(彼岸)とを明らかに示しています。
内藤家墓所
前回及び今回の記事の冒頭に記述した通り、この寺の旧墓地には、陸奥国磐城平藩の藩主を務めた内藤家の墓所がある。いわき出身の私には、是非ともこれを見ておきたかった。扇ガ谷の薬王寺にある旧墓地には、四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓がある。その奥方は、内藤家の娘。もともとは会津の藩主だった蒲生家に嫁いだのだった。
その不憫な娘を思う気持ちを家督を継いだ忠興が斟酌。妹(姉?)の墓を見守る意向があったのではなかろうか?江戸深川の霊巖寺にあった内藤家墓所を鎌倉の光明寺に移設。凄い墓地である。高さ3mにも及ぶ大宝篋印塔がズラリと並ぶさまはまさに壮観。

内藤家墓所_1
内藤家墓所_2
内藤家墓所_3
内藤家墓所_4
内藤家墓所_5
内藤家墓所_6
内藤家墓所_7
内藤家墓所_8
内藤家墓所_9
内藤家墓所_10
内藤家墓所_11
内藤家墓所_12
松壽院と梅嶺院
磐城平城主・内藤左馬助政長の七女。名前は不明。13歳で23歳の蒲生忠知に嫁ぐ。嫡男鶴松は寛永10年3歳で早世。忠知死去の際は20歳懐妊中で、男児であれば蒲生家再興を約束されたが女児を出産。この娘も12歳で死去し、梅嶺院と号す。松壽院は姑『振姫』の陽壽院の壽を用いて号したと伝えられる。

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陸奥国磐城平藩のち日向国延岡藩の領主内藤家歴代の墓所で、歴代藩主の多くやその正室など200基以上の石塔が立つ。江戸の霊巌寺から移されたものである。

 

光明寺などを訪ねた(2)

光明寺(1)
鎌倉幕府第四代の執権北条経時の帰依を受け、良忠上人がこの光明寺を開いたといわれている。その後も第五代の執権、北条時頼をはじめ歴代執権の帰依をうけ、七堂伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となり、後土御門天皇から『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る『勅願所』となった。
江戸時代になると、徳川家康は光明寺を関東十八檀林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となった。檀林とは徳川幕府が定めた学問所。上記のように鎌倉幕府や江戸幕府との関係が深かった大寺院。現在も浄土宗の大本山に列せられる寺院を見ておきたかった。

それに加え、この寺の旧墓地には、陸奥国磐城平藩の藩主を務めた内藤家の墓所がある。これを見ておきたかった。扇ガ谷の薬王寺にある旧墓地には、四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓がある。その奥方は、内藤家の娘。もともとは会津の藩主だった蒲生家に嫁いだのだった。
その娘を思う気持ちを家督を継いだ忠興が斟酌。妹(姉?)の墓を見守る意向があったのではなかろうか?江戸深川の霊巖寺にあった内藤家墓所を鎌倉の光明寺に移設。凄い墓地である。

総門 鎌倉市の指定文化財
1495年(明応4年)に建てられ、寛永年間(1624~28)に再興された。額は、『勅願所』と書かれてあったんだ。達筆すぎて、読むことができなかった。
総門 鎌倉市の指定文化財_1
総門 鎌倉市の指定文化財_2
総門 鎌倉市の指定文化財_3
「十六菊」と「五七桐」の紋なのか。其れだけの格式があるということを表しているのだろう。
「十六菊」と「五三桐」の紋
建立は明応4年(1495)、寛永年間(1624~28)に再興。前はもっと大きな門でした。上部構造は桃山時代の様式が感じられ、屋根裏の木組みに注目すると太い大瓶束(たいへいつか)が数本立ち並び、昔の壮観さが偲ばれます。鎌倉市指定の文化財です。
山門 神奈川県指定文化財
170年前に再建された山門。非常に大きな山門だ。『天照山』の扁額は、後花園天皇の直筆で、1436年(永享8年)に賜ったものだそうだ。なぜ、江戸末期に再建したのか、鶴岡八幡宮の表門だったと言われるなど、事情がよくわからない点がいくつかある。わずか170年前のことなのに。
山門 神奈川県指定文化財_1
山門 神奈川県指定文化財_2
本堂側から見た様子
山門 神奈川県指定文化財_3
現在の山門は弘化4年(1847)に造られたものです。間口約16m、奥行約7m、高さ約20mで鎌倉の寺院の門では最大の格式を備えた山門です。
五間三戸二階二重門(ごけんさんこにかいにじゅうもん)といわれる門で一階が和風、二階が中国風に造られています。禅宗の五山形式が浄土宗に取り入れられたものです。
五間三戸とは、正面からみて柱より5つに間仕切りされていて、中央の3つの間にはそれぞれ両開きの大板戸がありそれが入り口になっているものです。
柱は全部丸柱で上と下が丸まっています。これを粽(ちまき)柱といいます。後面中央の二本の柱は通し柱です。また一階も二階も柱の位置が同じ場所になっていて組み合わせに工夫がほどこされ二階建ての構造を強化しています。
一階は直線的で装飾性が比較的少ないのに対して二階は広がりをもち装飾性に富んでいます。板の張り方も一階と二階とでは異なっていて、江戸時代末期の特徴を良く表した山門です。
二階の中央に掲げてある『天照山』の額は永享8年(1436)後花園天皇より賜った額です。
二階には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が祀られています。
なお二階からの由比ガ浜、江ノ島、富士山の眺めはすばらしく、彼岸の中日には西方極楽浄土をさながら見る思いがします。

本堂 国指定重要文化財
山門から美しい姿が否応なしに目に飛び込んでくる
本堂 国指定重要文化財_1
本堂 国指定重要文化財_2
本堂 国指定重要文化財_4
『専修念佛根本道場』の札が掲げられてあった
本堂 国指定重要文化財_5
本堂 国指定重要文化財_5_1
本堂 国指定重要文化財_6向拝は迫力があった
本堂 国指定重要文化財_7
堂内にはまたまた『勅願所』の額が。こんなところにまで、千社札を貼り付けるのはいささか無作法なように思う。
本堂 国指定重要文化財_7
堂内は非常に美しい
本堂 国指定重要文化財_8
本堂 国指定重要文化財_9
本堂 国指定重要文化財_10
開山堂と本殿とをつなぐ回廊
本堂 国指定重要文化財_11
本堂 国指定重要文化財_12
元禄11年(1698年)の建立。入母屋造、銅板棒瓦葺きで、桁行9間、梁間11間。実寸は間口奥行ともに約25メートルの、鎌倉地方では最大級の本堂である。内部は畳敷きの広大な空間となっており、前半部を外陣、後半部は内陣、両脇陣および後陣とする。外陣は柱列によって前後に分かれ、正面寄りを前外陣、奥を奥外陣と称する。内陣部は床高を外陣より一段高くした上段形式である。1923年(大正12年)の関東大震災でもほとんど損傷しておらず、建立当初の形式をよく保っている。1999年(平成11年)に重要文化財に指定されている。

光明寺は、神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗の寺院である。寺格は大本山。山号を天照山と称する。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、開基は北条経時、開山は浄土宗三祖然阿良忠であり、仁治元年(1240年)佐助ヶ谷に開創した蓮華寺を起源とし、寛元元年(1243年)現在地に移築し光明寺と改称したとされるが、『然阿上人伝』は鎌倉入を正元元年(1259年)としており、疑問視されている。13世紀〜14世紀にかけての歴史はあまり定かでないが、室町時代には中興開山とされる祐崇上人(?-1509)によって復興された。明応4年(1495年)には後土御門天皇より勅願寺に定められている。近世には、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた。

 

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