散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

兵庫~滋賀~京都(24)

妙心寺(5)
山内にある塔頭から(2)
もう薄暗くなり足腰もかなり疲れてきて、しっかり見ようとする気力が失せてきた。後々のために、一応写真を撮った感じ。
光圀院
水戸光圀との縁があるのかと思ったら、美濃加納城主松平忠隆との縁だったようだ。ここで登場する亀姫とは、家康の長女で法名が盛徳院。
光圀院
開祖は梁南禅棟。元和6年(1620)、美濃加納城主松平忠隆が、父忠政の菩提をとむらうため、名古屋・総見寺の梁南を請じて創建したもの。当初は慧照院の北、もとの麟祥院の西に位置し、勅使の休憩所として使用された名院であった。明治11年(1878)に、松平忠明が忠隆の菩提所として寛永期(1624~44)に創建した実相院を併合、さらに明治の末、忠隆の祖母亀姫の菩提所であった盛徳院の地に移建されて今日にいたる。現在の建物は、大光院庫裏を修復したものとされている。
雲祥院
海山元珠は徳川家康による祥雲寺・豊国社の破却指示への抵抗を表すため、祥雲寺の祥雲を逆にして雲祥としたと言われているそうだ。なお、祥雲寺は秀吉の子・棄丸の菩提寺。
雲祥院
上杉景勝の臣千坂宗策が創建した亀仙庵を前身とする。寺伝では慶長3年(1598)に細川氏家臣長岡是庸が妙心寺百五世海山元珠を開祖に請じて建立したとする。明治11年(1878)に瓊林院に合併され、雲祥院の院号が残された。瓊林院は元和3年(1617)、熊谷半次が鼇山和尚を開祖に請じて創建、当初は桂林院と称していた。合併後の当院は明治42年に全焼したが、のち再建された。
長慶院
現存する門は、伏見城の東門なのか。う~~ん。こちらも秀吉ゆかりの塔頭だ。妙心寺そのものが秀吉贔屓だったのだろうか?
長慶院
開祖は妙心寺七十一世東漸宗震。慶長五年(一六〇〇)、木下家定の妹(豊臣秀吉の妻北政所の姉にあたる)によって創建された。東漸は北政所の帰依も受けたが、高台寺の開山)招請には応じなかった。寛文二年(一六六二)には林豁が取正庵を建立、延宝八年(一六八〇)には五世の卓宗和尚が当院を再興している。明治十一年(一八七八)に府下相楽郡の末寺、妙法寺と合併。本堂をとりこわし、寺号を妙法寺と改めたが、同三十八年に長慶院の称に復帰した。現存する門は、伏見城の東門である。
桂春院
通年公開の塔頭。その筈だが、時間が遅かったようで、門がびしっと閉められていた。残念。説明を読んでみると、当初は織田家のために創建されたようだが、いつの間にか、豪族の持ち物に変じてしまったように読める。
石河貞政のことを調べてみた。複雑な仕え方をした大身旗本だったようだ。豪族ではなく、乗っ取ったわけでもなさそうだ。
石川貞政は、天正3年生まれ。石川光政の子。豊臣秀吉の馬廻から徳川家康に属し、慶長5年の上杉攻め、関ケ原の戦いに参加。のち豊臣秀頼に近侍する。慶長19年(1614年)、片桐且元・貞隆と共に内通を疑う讒言を受けて城を追われ、京都に移り住んだ。そこを家康によって召し出されて、白銀五十貫目を授かり、本知安堵の約束を与えられ、旗本となった。
翌年からの大坂の陣では両役で徳川方として徳川秀忠のもとで戦い、寛永2年(1625年)12月、大和国添下郡、摂津国菟原郡、近江国蒲生郡の3郡の内に、5,020石を知行とする旨の朱印状を与えられた。

桂春院_1
以下2点はPDF画像を借用
桂春院_侘の庭
桂春院_侘の庭
桂春院_思惟の庭
桂春院_思惟の庭
慶長3年(1598年)に織田信忠(織田信長の長男)の2男・織田秀則(津田秀則)が水庵宗掬を開祖として見性院を創建。秀則死後、美濃の豪族・石河貞政が寛永9年(1632年)に父の50年忌の追善供養のために桂南守仙を請じて建物を整備し、父の法名「天仙守桂大禅定門」・母の法名「裳陰妙春大姉」から1文字ずつをとり桂春院と改めた。
大雄院
このときは公開していなかったようだが、現在は特別公開中のようだ(2017年1月7日~3月18日)。う~~ん。
大雄院_1
大雄院_2
開祖は水庵宗掬(美濃鏡島城主石川家の人)の法孫である慧南玄譲。水庵派に属する。慶長八年(一六〇三)石川市正光忠が父石川紀伊守光元(播州竜野城主)の菩提のためと、祖父石川伊賀守光以来代々の香華所として創建された檀越家支配の塔頭である。慧南玄譲の法祖である蘭叔玄秀は光忠の叔父にあたるため、当院の勧請祖としている。創建時には伏見城にあった石川屋敷の建物を移し、寛文十年(一六七〇)に新しく建てかえ、現存の方丈は享保十二年(一七二七)光忠の百年の遠諱を営むにあたって再度建てなおじたものである。方丈の襖絵七十二面は江戸末期の蒔絵師で有名な柴田是真の筆である。

夕食
友人がご馳走してくれた。本来ならば、私がご馳走しなくてはいけないところだが、好意に甘えさせていただくことにした。『鯛の鯛』の話をしながら、楽しい時を過ごした。美味しかった。ごちそうさま。
夕食_1
夕食_2
夕食_3
夕食_4
夕食_5
夕食_6
夕食_7
夕食_8
夕食_9
夕食_10

以上で、延々と続けてきた『兵庫~滋賀~京都』シリーズは終了です。最後までご覧いただき有難うございました。
また、案内していただいた、K.T.さん、K.N.さんの両氏に深く感謝します。

 

兵庫~滋賀~京都(23)

妙心寺(4)
山内にある塔頭から(1)
山内にある塔頭を撮ってみた。時間が遅かったので、通年公開中の塔頭をも含めて、目につくところを外からだけ撮らせていただいた。
大通院
山内一豊と千代の御廟がある。非公開。門自体は開いているのに、忌々しい通せんぼ状態だ。
大通院
開祖は妙心寺五十八世南化玄興定慧円明国師。天正十四年(一五八六)に一柳直末が南化を請じて創建したもの。二世の湘南宗化大航普済禅師は山内一豊の子であり、以後山内家の菩提所となっている。寛永十年(一六三三)、湘南は一豊の夫人見性院の十七回忌にあたり見性閣を建立、現存する宝形造の霊屋はこれに比定されている。なお山崎闇斎は湘南の弟子であった。
春光院
こちらは変わった塔頭。非公開になっているが、外国人の英語による座禅体験と宿泊とができるようだ。日本人の場合は、どうなのだろうか。ふらっと飛び込んで、見せてくださいというのはNGのようだ。国の重要文化財「南蛮寺の鐘」は是非とも拝見させていただきたいものだ。
春光院_1
春光院_2
『初期キリスト教を今に伝える…』という文言は本当に舌足らずだ。1577年の鐘がどうして初期キリスト教だというのだろう。どうせ書くならば、『日本における伝来当初のキリスト教文化を今に伝える…』というのが適切ではなかろうか。
春光院_3
開祖は妙心寺百十三世猷山景嘉。天正18年(1590)、堀尾吉晴が長子金助の菩提をとむらうため猷山を請じて創建したもので、長子の法号にちなみ当初は俊巌院と称した。堀尾氏断絶ののち、石川氏が檀越となり中興して春光院と改める。大書院は石川憲之が淀城寝堂を移建したものである。寛政から天保にかけて(1789~1844)大規模な改修がおこなわれ、庭園も慶応3年(1867)に築造されて今日におよんでいる。伝張平山筆「東方朔奪桃図」(重文)とイエズス会章の入った洋風の「南蛮寺鐘」(重文)を有する。
麟祥院
春日局の菩提所。それとともに、朝廷を密かに監視するというような意味合いもあった塔頭寺院のようだ。
麟祥院_1
麟祥院_2
歴代住職は黒衣のまま江戸城白書院への出入りを許されたのか。それは凄いことだ。
麟祥院_3
開祖は碧翁愚完。徳川家光の乳母春日局が、妙心寺七十四世単伝士印の法孫、鍋島勝茂の子碧翁を請じて創建した。寛永十年(一六三三)家光がその地にあった天神社を鎮守として春日局のために創建したとも、同十一年に春日局が子稲葉正勝の死を悼んで興したともいう。当初は現在の花園高等学校の敷地内にあり、明治三十年(一八九七)に現在地に移建された。春日局の木像をまつる霊屋は、元和年間(一六一五~二四)、内裏庭園内の御亭であったとか、後水尾天皇より拝領して二条城内に設営した釣殿であったとも伝えられる。
智勝院
非公開のはずであるが、どんどんヤングママたちが入っていく。こども園『ゆりかご』という施設があるようだ。本当はいけないのだろうが、保護者のような顔をして門をくぐって撮ってみた。
智勝院_1
智勝院_2
興味があれば、アクセスてみては如何
開祖は妙心寺七十四世単伝士印大光普照禅師。慶長二年(一五九七)、稲葉貞通が父一鉄の菩提をとむらうため、単伝を請じて創建された塔頭。貞通は早くから南化玄興に帰依しており、その関係で当院の開祖には南化の法嗣単伝が招かれた。単伝は春日局の帰依を得ていたが、紫衣事件に連座して出羽由利郡本荘藩の泉流寺に配流されている。ちなみに智勝院の称は、貞通の法号にもとづいたものである。
天球院
案内図では何も書かれていないが、特別公開をすることもあるようだ。2016年は、2016年1月9日(土)~3月18日(金)に開催された。この日は残念ながら門がびしっと閉められて取り付く島もない感じだったが。本堂が重要文化財だ。江戸寛永期の創建当時の建築で、江戸時代の典型とされる玄関をつけた大型方丈形式だそうだ。
天球院_1
天球院_2
開祖開祖は妙心寺百四十世江山景巴無尽燈光禅師。寛永八年(一六三一)、池田光政の伯母天球院殿が自分の永代追善のために、江山を請じて創建した菩提所塔頭。天球院殿は因幡の若桜鬼ヶ城の城主山崎家盛の室であった。寺地は寿聖院から譲り受けているが、現方丈重文は創建よりやや下った寛永期のものである。明治維新まで岡山、鳥取両池田家の菩掟所として外護を受けていた。方丈内には狩野山楽・山雪筆の著名な障壁画(重文)があり、また藤原宣房筆の「法華経陀羅尼(重文)」が擁されている。

 

兵庫~滋賀~京都(22)

妙心寺(3)
退蔵院(2)
順路表示に従っていくと洒落た門が見えてきた
洒落た門
2013年の『そうだ 京都、行こう』のキャンペーン・ポスターに使われた。石には『余香苑』と書かれてある。
洒落た門_1
洒落た門_2
洒落た門_3
友人と2人で何のデザインかわからず首をひねった。後で瓢箪と鯰だとわかった。瓢鮎図をモチーフにしたデザインだったんだ。
洒落た門_4
陰陽の庭
陽の庭
陽の庭_1
陽の庭_2
陰の庭
陰の庭_1
陰の庭_2
敷砂の色が異なる2つの庭は、物事や人の心の二面性を伝えています。陰の庭に8つ、陽の庭に7つ、合計15の石が配されております。
紅枝垂れ桜と羅漢石
紅枝垂れ桜の枝ぶりだけでも撮ろうかと思ったが、幹と枝だけじゃ、まるで私と同じだ。撮るに値しない。
紅枝垂れ桜と羅漢石_1
紅枝垂れ桜と羅漢石_2
余香苑完成当時に植えられた樹齢50年ほどの紅しだれ桜。平安神宮にある紅しだれ桜の孫桜で、瓢箪・なまずが彫られた門をくぐるとすぐに皆様の眼前に現れます。2013年春の「そうだ、京都いこう」キャンペーンに使用され、大変注目を集めました。
余香苑
日が陰ってきて、庭園の美しさを撮りきれなかった。残念至極。
余香苑_1
余香苑_2
余香苑_3
余香苑_4
余香苑_5
余香苑_6
余香苑_7
余香苑_8
余香苑_9
余香苑_10
余香苑_11
余香苑_12
余香苑_13
余香苑_14
この広大な庭園は造園家・中根金作氏の設計によるもので、昭和38(1963)年に着工し、3年の月日を費やして完成しました。
余香苑は伝統的な造園手法を基盤とした厳しさの中にも優雅さを含み、京都はもとより全国でも有数の昭和の名園と言えます。構造上目立たぬ苦心が随所に払われており、正面から庭園を見渡すと、奥行きが生まれ、庭園が広く見えることなどが例としてあげられます。一年を通して、紅しだれ桜や藤、サツキ、蓮、金木犀、楓などが彩ります。

 

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