散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

初冬の鎌倉(10)

宝戒寺(2)
滅びるってのはこんなものかと無常を感じさせる。ともあれ、700年ほど前までこの地に鎌倉幕府が存在したことだけは確かなことだ。
德崇大権現堂
鎌倉幕府執権北条高時公を德崇大権現として祀る。前述した通り、鎌倉幕府が滅亡した5月22日には、北条氏鎮魂のため、毎年、大般若転読会が行われるそうだ。5月22日は、新田義貞の鎌倉攻めによって北条一族が東勝寺で自刃をし、鎌倉幕府が滅亡した日。1333年のことだった。
『徳崇大権現』とは、後醍醐天皇によって北条高時に贈られた名だそうだが、そんなものを頂いてもちっとも有難くはなかったことだろう。それにしても小さなお堂だ。隣の聖徳太子堂に比してひときわ小さい。お情けで建ててやったということなのだろうか?村の外れにあるお堂程度の大きさだ。

德崇大権現堂_1
德崇大権現堂_2
大聖歓喜天堂
秘仏である大聖歓喜双身天王(歓喜天・聖天様)を祀る。毎年、5月23日には、諸願成就を祈念し大聖歓喜天供が行われるそうだ。何故このような和合仏を、北条方の鎮魂のために建てた寺院に置いておく気になったのか理解に苦しむが、創建の直後からあったものらしい。調べてみると、二代住持の惟賢(足利尊氏の二男または弟)が歓喜天像を安置し、国家安泰を祈願したようだ。そうだとすれば、余人が文句を言えたものではなかったのだろう。鎌倉地方独特の土紋装飾が施されたもので、日本最古の木造聖天といわれているそうだ。
大聖歓喜天堂_1
大聖歓喜天堂_2
こちらの聖天様は大型なのだそうだ。秘仏で、殆どの人は見たことがないはずだが、聖天様自体はこんなイメージだそうだ。
大聖歓喜天堂_3
聖德太子堂
毎年、1月22日に、建築関係者が集まり『太子講』が執り行われる。『太子』とは、建築関係者の神として崇められている『聖徳太子』のこと。太子堂で護摩を焚き、読経のあと、木遣唄が奉納されるそうだ。私が最も理解に苦しむのはこのお堂だ。何故此処に置かねばならないのだろう。
聖德太子堂
梵鐘
梵鐘_1
梵鐘_2
宝篋印塔
滅亡した北条氏並びに、鎌倉合戦東勝寺戦没諸精霊を供養する慰霊塔。鎮魂の祈りを込めた写経・写経石が収められているそうだ。撮り漏らしたのでPDF画像を借用。
宝篋印塔
洒落た庭石
洒落た庭石_1
洒落た庭石_2
御朱印
またもや懲りずに御朱印を取り上げる。北条一族の鎮魂の寺らしくないもののように見えるからだ。宝戒寺のご本尊『木造地蔵菩薩坐像』は、国指定の重要文化財の湯所ある仏像。別名『子育経読地蔵尊』と呼ばれる。それは、『宝戒寺門前で子供が生まれそうになったとき、子どもをとりあげる世話をしてくれた見知らぬお坊さんが地蔵の化身だった』とか、『毎晩夜中に聞こえる読経がお地蔵さまではないか』という伝説からこの名が付いたらしいということだ。有難い別名なので、御朱印にその旨を記しているのだろう。
宝戒寺御朱印

以上で、『初冬の鎌倉』シリーズは終了です。最後までご覧頂き有難うございました。

 

初冬の鎌倉(9) 2016.12.12 18:42一部修正

宝戒寺(1)
滅亡した鎌倉幕府の北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した事になっている。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されているそうだ。いずれにしても、北条高時の慰霊のために作られた寺院であることは間違いがない。
鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、北条高時の慰霊のために徳崇大権現会(とくそうだいごんげんえ)・大般若経転読会(だいはんにゃてんどくえ)が行われる。徳崇大権現として祀られている北条高時の御神像を権現堂から本堂に移して、大般若経を転読し、歌舞音曲を奉納する。その時だけは、確かに慰霊のため建立された寺院であると感じられよう。
その他の時は、何のための寺院なのかよくわからない感じがしてならない。
入口付近の様子
進入路
石畳がきれいにデザインされていた
進入路
石碑
『北条九代屋敷 頼経公○後代将軍家鋪』と書かれてあるように読める。代々の執権が暮らしていた北条得宗家邸跡のはずだが、…。藤原頼経公は鎌倉幕府の第4代征夷大将軍だった。北条得宗家の前に住んでいたということなのだろうか?
石碑
お決まりの鎌倉青年会石碑
大正7年建立か。当時の青年たちは、全員鬼籍入りだろうな。
お決まりの鎌倉青年会石碑
山門
山門
更に進入路が続く
更に進入路が続く_1
大きな石に粋な飾りが施されている
更に進入路が続く_2
本堂とその付近
本堂外観
本堂外観_1
本堂外観_2
本堂外観_3
本堂外観_4
本堂内部の様子
本堂内撮影禁止なので、以下2点はPDF画像を借用
画像名にAltar(祭壇)とあったが、宝物殿のようだ。その後調べているうちに、大聖歓喜天堂の内部だとわかった。
画像名にAltar(祭壇)とあったが、宝物殿のようだ
本堂内陣
本堂内陣
本堂前
境内には春先には福寿草が咲いているが、この元気そうな青い葉は明日葉だろうか?
この元気そうな青い葉は明日葉だろうか?

 

初冬の鎌倉(8)

荏柄天神社
参道にある見事な樹木
意図してこういうふうにしたのだろうか?いつも見入ってしまう。
参道にある見事な樹木_1
参道にある見事な樹木_2
参道のその先
急勾配の階段がある。手すりをしっかり握っていないと、膝が良くない私には怖くてたまらない。
参道のその先_1
参道のその先_2
説明板によれば
以前、三天神の一つと書いたが、それはここの記述から書いた。しかしよく考えてみれば、昔の話で、いまは他の神社が代わりに入っているのかもしれない。
説明板によれば
大銀杏
推定樹齢900年なのだそうだ
大銀杏_1
大銀杏_2
神門の先に拝殿が見える
神門には梅のデザインが
神門の先に拝殿が見える_1
神門の先に拝殿が見える_2
拝殿
受験生やその家族が熱心に志望校合格を祈っていた
拝殿_1
拝殿_2
本殿
向こうは八幡宮の若宮様。こちらは天神様。系統の異なる神社同士の本殿の承継があったんだ。江戸に入ってからは、そんなに細かいことにこだわっては居られず、相互の融通は当然のことだったのだろう。八幡宮の旧若宮は立派なものだったんだ。
本殿_1
本殿_2
本殿_3
三間社流造、銅板葺き。寛永元年(1624年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受け移築したものである。若宮旧本殿は正和4年(1315年)の鎌倉大火の後、翌正和5年(1316年)に建立された。記録によれば、中世、近世を通じてたびたび修理が行われているが、社殿全体が再建された記録はない。移築と度重なる修理を経ているとはいえ、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構の一つである。関東大震災でも被害を受け、幣殿と拝殿は震災以降の再建である。
絵筆塚
横山隆一などの漫画家が建立し、154人の漫画家によるカッパのレリーフが飾られている。菅原道真公は勉学だけではなく、絵画の神様でもあったのだろうか?
絵筆塚_1
絵筆塚_2
絵筆塚_3
絵筆塚_4
かっぱ筆塚
漫画家の清水崑が使用した絵筆が収められている
かっぱ筆塚

荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある菅原道真を祀る神社。源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり鬼門の方向の守護社として社殿を造営、さらに徳川家康が豊臣秀吉の命で社殿の造営を行った。

 

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