散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

伊豆への一泊の旅(4)

中伊豆ワイナリー シャトーT.S
シダックスが運営するワイナリーが2日目の最初の行き先だった。修善寺などがある伊豆市なのだが、こんなところをバスが走っても大丈夫なのかというような細い曲がりくねった道をどんどん上がっていく。相当な山奥に施設があった。
バスを降りたときの富士山
此処で富士山が見えたのはこの数分のみ。とてもきれいだった。
バスを降りたときの富士山_1
バスを降りたときの富士山_2
製造設備
説明によれば、シダックスの店舗で出しているワインを此処で醸造し出荷しているようで、直営店舗以外での市販は行っていないようだ。その製造設備がこれ。時期的には、瓶詰めなどを行う時期ではなく、静かなものだった。赤、白、ロゼの製造工程の説明も受けたが、綺麗サッパリ忘れてしまった。(^_^;)
製造設備
オーナー志太勤氏のワインセラー
オーナー志太勤氏のワインセラー_1
オーナー志太勤氏のワインセラー_2
オーナーが競り落としたという古酒。呑み頃は過ぎているようだと案内嬢が言っていた。
オーナーが競り落としたという古酒
入賞したワイン
ジャパン・ワイン・チャレンジとか国産ワインコンクールとかでの入賞実績があるようだ。この実績が凄いのかすごくないのか、ワインを殆ど飲まない私には、まるでわからない。
入賞したワイン
ワイン用のぶどう畑
あの雲に富士山が隠されてしまった。ちょっと残っているぶどうを口に含んでみたい誘惑に駆られたが、…。
ワイン用のぶどう畑
ワイナリーの建物
ワイナリーの建物_1
ワイナリーの建物_2
ワイナリーの建物_3
此処で結婚式を挙げるカップルも居るようだ
此処で結婚式を挙げるカップルも居るようだ
こんなものもあった
こんなものもあった_1
こんなものもあった_2

狩野川でのレスキュー訓練かな
伊豆半島西岸の地元の人達は狩野川台風で大被害を受けたことを決して忘れてはいない。防災には殊の外熱心に取り組んでいるようだ。岩で遮られていないところとの違いを見れば、真剣にならざるをえないことだろう。
狩野川でのレスキュー訓練かな_1
狩野川でのレスキュー訓練かな_2

今度は達磨山からの眺望
駿河湾越しの雄大な富士山を見る。達磨山は伊豆市と沼津市とにまたがる標高982mの山。沼津市が平成の広域合併で、伊豆半島西岸に大きく市域を拡大しているんだ。
見えることは見えたが、先程のシャトーで見たときよりも雲が右側にやや厚くかかってきた。それが気に入らない。
今度は達磨山からの眺望_1
今度は達磨山からの眺望_2
達磨山から撮影した沼津市の戸田地区と戸田港、そして御浜岬(PDF画像から借用)
達磨山から撮影した沼津市の戸田地区と戸田港、そして御浜岬

戸田港
ノンストップで走っている車中からなので、よく撮れなかった。
戸田港
沖合から見た戸田港。左後方は第四紀の成層火山である達磨山。あちらから下りてきたんだ。(PDF画像から借用)
沖合から見た戸田港

車窓からの景観
車窓から眺める富士山は向かって右側に徐々に雲が厚く架かるようになっては来たが、極上の眺めだった。が、動くバスからの撮影ゆえ、思うに任せ無かったのは残念至極。
車窓からの景観_1
車窓からの景観_2
車窓からの景観_3
車窓からの景観_4
車窓からの景観_5
車窓からの景観_6
車窓からの景観_7

以上で『伊豆への一泊の旅』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

伊豆への一泊の旅(3)

熱海梅園の紅葉
今年の紅葉は、日本全国冴えないものであることは承知の上。どうなるかわからない頃に一泊旅行を計画したもので、この部分は初日の天気同様に大外れだったかもしれない。
入り口近辺
風が吹くと少し妙なる音が発せられるのだろうか?それとも暗くなると光が漏れてくるのかな?
入り口近辺_1
入り口近辺_2
入り口近辺_3
入り口近辺_4
途中の様子
熱海梅園には、人工の滝とせせらぎが作られている。そのせせらぎ周辺には多少紅葉があった。色合いはこんなものだった。
途中の様子_1
途中の様子_2
途中の様子_3
石乗りもみじ
一種の大きな盆栽かな?これが紅葉していれば、それだけで満足したのかもしれないが。
石乗りもみじ
梅見の滝
人工の滝だが、よくつくったものだ。本物の粋な滝に見える。
梅見の滝_1
梅見の滝_3
梅見の滝近辺の紅葉
梅見の滝近辺の紅葉_1
梅見の滝近辺の紅葉_3
梅見の滝近辺の紅葉_4
梅見の滝近辺の紅葉_5
梅見の滝近辺の紅葉_6
梅見の滝近辺の紅葉_7
梅見の滝近辺の紅葉_8
梅見の滝近辺の紅葉_10
梅見の滝近辺の紅葉_11
裏見の滝
本来は滝の向こうに梅の花を愛でるものなのだろう。今の季節はモミジで代用する仕掛けだ。
裏見の滝_1
裏見の滝_2

来宮神社
伊東の宿にチェックインするまで多少時間があったので、旅の安全等を祈願すべく立ち寄った。強力なパワースポットとして有内な神社だとか。一度行ってみたい神社だったので、私には好都合だった。
こんな温泉井戸が
熱海だからいたるところにある。蒸気の勢いからすれば、湯量はたっぷりあるのかな?
こんな温泉井戸が
社殿
旧社格は村社で、戦後、神社本庁の別表神社に加えられた神社。破格の大出世ぶりだ。それだけの勢いがある様子がうかがえる。
社殿_1
社殿_2
社殿_3
社殿_4
社殿_5
阿豆佐和気神社の大楠
以下の2点はPDFを借用
阿豆佐和気神社の大楠_1
阿豆佐和気神社の大楠_2
来宮弁財天
大久保将監なる武士が出世を遂げたというのがそもそもか。熱心に祈っている女性の後姿を見ていたら、何かがあるのかなあと思った次第。
そのこととは別に、手前の大石には蛇がとぐろを巻いている。おお怖いっ。

来宮弁財天_1
来宮弁財天_2
来宮弁財天_3
来宮神社には弁財天もあります。この弁財天は秩父神社にあったものを熱海の来宮神社に移動されたものです。大久保将監という徳川家武臣がこの弁財天を好んで、遠方にも関わらず、参拝をしました。そして願いが叶えられ、彼は大出世をしました。今では、彼にあやかろうと、出世を願って来宮神社弁財天を参拝する人たちがいます。
そしてこの来宮神社に祀られている弁財天の像は、高村光雲という方が作ったと言われています。この高村光雲とは、江戸に生まれ、文久3年から昭和時代まで木彫りを行い、その技術を後世に伝えた重要な人物だと言われています。

御鳳輦
旧社格は村社で、戦後、神社本庁の別表神社に加えられた神社だ。このクラスの神社に御鳳輦が存在するとは。正直なところ吃驚仰天だ。
御鳳輦_1
御鳳輦_2
神幸祭(じんこうさい) 七月十六日執行
来宮の神々を御鳳輦(ごほうれん)に乗せ、町に降ります。町の繁栄を祈る神事です。神々に供奉する宮司・神官をはじめ、総代・神役など御神幸行列は総勢五〇〇名を超え、壮大な時代絵巻の再現となります。行列の中の猿田彦は天尊降臨の際案内した神様で、御鳳輦に鎮座する来宮大神の案内をする役割です。御祭神と御縁の深い『むぎこがし』を道に撒き道中を御案内し、また人々は其のこがしに触れると無病息災・身体健康になると伝えられています。

神輿
神輿
境内のシャレ心
境内のシャレ心_1
境内のシャレ心_2
境内のシャレ心_3

創建時期は定かではないが、社伝によると和銅3年(710年)、熱海湾で網に木の根が掛かる事が3度重なり、不思議に思った漁師があらためると神像のようであったので、近くの松の下に祀って、持っていた麦こがしを供えたところ、その夜の夢に五十猛命が現れ、潮騒が耳障りであるとの神託があり、現在地に遷祀したといい、木の根を神体としたところから「木の宮」と称えたという。漂着物を祀ったのに始まり、祭神を木の神五十猛命とするなど、キノミヤ信仰が顕著に認められる神社である。なお、坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、当社の分霊を東北地方を始め各地に鎮座させたという伝承もある。
旧社格は村社であったが、戦後その歴史や活動状況に鑑み、神社本庁の別表神社に加えられた。

 

伊豆への一泊の旅(2)

小田原城址(2)
二の丸御殿のあった二の丸広場から先に進む。目指すは本丸だ。
小田原城跡のイヌマキ
この木は、常盤木橋の前にあり、幹回り4.5mに及ぶ小田原市内最大の巨木だそうだ。樹齢は軽く片手を超すようだ。
小田原城跡のイヌマキ
見上げると本丸に至るルートが
本丸東堀(今は空堀)に架かる赤い常盤木橋を渡り、本丸の巨マツ(おおまつ)を視界に入れながら階段を上り、踊り場で右折してさらに小階段を上ると、右手の松に隠れた常磐木門。そこを潜った先が本丸だ。
防御を確実にするための構造だったのだろうか?
平山城なので、このくらいの上りは我慢しなければいけない範囲かな。将軍は歩いて本丸御殿に入ったのだろうか?
防御を確実にするための構造だったのだろうか?
本丸東堀跡と常盤木橋
昔は歴とした堀があったのだそうだ。将軍をお護りするには当然の備えだったのかもしれない。
本丸東堀跡と常盤木橋_1
本丸東堀跡と常盤木橋_2
本丸東堀跡と常盤木橋_3
常盤木門
本丸を防御する最重要にして最大の門。堅固に作られていたはずだが、元禄16(1703)年の大地震で崩壊したしてしまった。その後、宝永3(1706)年に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建され、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
手前の踊り場
本丸の巨マツが否が応でも目に入る。松の木(常盤樹)の長寿ぶりにあやかり、永久不滅を願った常盤木の名がつけられたようだ。
手前の踊り場
常盤木門
常盤木門_1
常盤木門_2
常盤木門_3
常盤木門_4
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に復興したもので、昭和46(1971)年3月に完成しました。

天守閣
本来、常盤木門をくぐったならば、本丸御殿が目に入るはずだが、元禄地震で焼失し、その後は再建されていない。ここが小田原城の不思議なところで、普通の藩であればそんなことはありえない。だが、既述の通り、藩主は二の丸御殿にいて、本丸御殿は、徳川の将軍逗留のためのものだったのだ。おそらく、必要があれば、二の丸御殿を使用したのだろう。
ということで、本丸広場はほぼ更地になっていて、天守閣がどどーんと目に飛び込んでくる。昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興されたそうだ。今の物価にすれば、もっとかかっているはずだ。

天守閣_1
天守閣_2
天守閣_3
天守閣_4
天守閣_5
天守閣_6
関東大震災の痕跡
震源地の間近だったので、被害は甚大なものになった。お城の石垣もことごとく崩れ落ちたと言われる。その痕跡だ。
関東大震災の痕跡_1
関東大震災の痕跡_2
関東大震災の痕跡_3
関東大震災の痕跡_4
関東大震災の痕跡_5

もし、後北条氏の痕跡を辿りたいのならば、三島市にある山中城跡がお勧め。北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。三島市が整備をして、ある程度当時を偲ぶ事ができるようになっている。
興味のある方は、ここをクリックしてPDF をダウンロードされたい。


小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。
江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。
しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。 
平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれました。

 

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