散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

晩秋を迎えようとする三渓園(5)

旧東慶寺仏殿【重要文化財】江戸時代初期
Wikipediaには、次のように書かれている。
…明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態であった。その仏殿は1907年(明治40年)に三溪園に移築されたが、西和夫は「おそらく仏殿は維持が難しかったのであろう」と推察する。…
権勢を誇った東慶寺にも冬の時代が到来したのだろう。三溪園に移築することにより、東慶寺も三渓園も共にメリットがあったのだろう。それにしても、徳川家の娘として波乱の人生を歩んだ戦国時代最大のヒロイン千姫が寄進した仏殿が此処に移されるとは、…。
旧東慶寺仏殿【重要文化財】_1
旧東慶寺仏殿【重要文化財】_2
旧東慶寺仏殿【重要文化財】_3
鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。禅宗様の特色を色濃く残す数少ない建物です。

旧矢箆原家住宅【重要文化財】1750年頃(宝暦年間)
飛騨三長者のひとり岩瀬(矢箆原)佐助の旧宅。誰もがびっくりする規模の住宅だ。ダム建設が決まって三渓園に移築された。もうその時には、原家から横浜市に寄贈されていたが、商売上手な横浜市が猛アタックを掛けたのかもしれない。
外観
長身の外国人女性と比較すれば、大きさがわかることだろう
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_1
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_2
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_3
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_4
1階
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_5
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_6
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_7
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_8
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_9
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_10
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_11
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_12
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_13
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_14
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_15
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_16
こちらが正式な式台付きの玄関。我々が入った出入り口は大戸口だ。
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_17
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_18
2階
薄暗くて、このくらいが精一杯
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_19
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_20
旧矢箆原家住宅【重要文化財】_21
大きな茅葺屋根が印象的な合掌造という屋根に特徴がある構造の民家です。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築されました。屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は注目されます。内部では、古い民具の展示もおこなっています。
岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」(普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。


横笛庵 建築年不明
三渓園での建築は明治41〈1908〉年。奈良・法華寺からの移築ともいわれるが、由緒の詳細は不明だそうだ。その建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されているのか。横笛が出家後に住んだと言われる奈良の法華寺にも同様の像があるそうだ。その像は戦火により焼失したと言われているが、本当に残念なことだ。
横笛庵_1
横笛庵_2
横笛庵_3
横笛庵_4
草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。横笛の像は、戦争の際に失われました。
横笛は、高倉天皇の中宮建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)


林洞庵 1970年(昭和45年)建築
宗徧流は祖母も教えていた流派で、私には馴染みがある。鎌倉に家元がおられるので、三渓園ともそれなりの関係があったのかもしれない。流祖・山田宗徧の揮毫による「林洞」の額が掲げられているのか。園内では一番新しい建物だろうが、それでも既に46年経過している。機会があれば、見てみたいものだ。
林洞庵
宗徧流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっています。内部に流祖・山田宗徧の揮毫による「林洞」の額が掲げられていることからこの名がある。山田宗徧は、忠臣蔵でに登場する吉良上野介と茶を通じて交流があった人物として知られる。

旧燈明寺本堂【重要文化財】室町時代建築
前回取り上げた旧燈明寺三重塔は確かに原三渓氏が移築に関与している。その折には、旧燈明寺との関係もこれ以上はないと関係者の誰もが思っていたのではなかろうか。しかしながらが、縁が続いたのだった。移築されること無く残っていた本堂だったが、1947年(昭和22年)の台風で大破したのだった。いずれは再建することを考えたのか、部材は解体のうえ保存されていた。しかしながら、自力再建を断念。1982年(昭和57年)、三渓園に本堂の部材を移動し、移築工事に着手。1987年(昭和62年)に移築工事が竣工したのだった。このときは、三渓園は原家から横浜市に寄贈されていた。それでも三渓園と縁があったということなのだろう。
旧燈明寺本堂【重要文化財】_1
旧燈明寺本堂【重要文化財】_2
前回も記したが、宗派が変わるまで『燈明寺』ではなく『東明寺』だった。その名残だ。
旧燈明寺本堂【重要文化財】_3
旧燈明寺本堂【重要文化財】_4
この仏像はレプリカだそうだ
旧燈明寺本堂【重要文化財】_5
旧燈明寺本堂【重要文化財】_6
旧燈明寺本堂【重要文化財】_7
旧燈明寺本堂【重要文化財】_8
旧燈明寺本堂【重要文化財】_9
旧燈明寺本堂【重要文化財】_10
旧燈明寺本堂【重要文化財】_11
三重塔と同じ京都燈明寺にあった建物です。三溪園には、1988年(昭和62年)に5年がかりで移築・保存作業が行われ、中世密教寺院の姿がよみがえりました。

以上で、『晩秋を迎えようとする三渓園』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

晩秋を迎えようとする三渓園(4)

菊花展
訪問した日が菊花展の初日だった。全くの門外漢だが、見事なものだと思う。丹精を込めた自慢の鉢ばかりなのだろう。
菊花展_1
菊花展_2
菊花展_3
菊花展_4
菊花展_5
菊花展_6
菊花展_7
菊花展_8

海岸門
御門と同じ京都の西方寺にあったもので、江戸時代の建築だそうだ。こちらは文化財の指定を受けていないようだが、負けず劣らず立派な文化財であると見た。
海岸門_1
海岸門_2

三重塔などがある丘に上る
結構な勾配があり、足腰と気管支とに難がある私にはやや厳しいものがある。でも行き先には見ておきたいものがあり、頑張って上った。
右手からの小道は、海岸門から合流する小道
三重塔などがある丘に上る_1
坂道のキツさに幼児は母親の抱っこを要求したようだ。要求は受け入れられたのかな?
三重塔などがある丘に上る_2
三重塔などがある丘に上る_3

松風閣跡
先程の厳しい階段を上ったところに、松風閣跡がある。かつては、原三渓氏のゲストハウスだったとか。
松風閣は原家初代の善三郎氏が明治20年頃に築造した煉瓦造り2階建ての建物。命名は何と伊藤博文だ。そして、三渓氏の代に増築がなされた。原邸を訪れた賓客をもてなす重要な建物だったが、関東大震災により倒壊。現在は建物の一部が廃墟として残るのみ。

ここにゲストハウスとは。確かに見晴らし抜群なのだが、此処まで上るのが一苦労。伊藤博文なども足腰が丈夫だったのかなあ。
松風閣跡_1
松風閣跡_2
松風閣跡_3

聚星軒跡
松風閣とともにこの丘の上に存在した外壁を竹で編んだ中国風の建物。こちらも関東大震災で壊滅した。
聚星軒跡_1
聚星軒跡_2
聚星軒跡_3
聚星軒跡_4
太湖石はこれなのかなあ
聚星軒跡_5
聚星軒跡_6
聚星軒跡_7

旧燈明寺三重塔【重要文化財】1457年(康正3年)建築
燈明寺は、現在の京都府木津川市兎並(旧相楽郡加茂町)にあった日蓮宗の寺院。その旧燈明寺からは、この三重塔の他に本堂も移築されている。移築時期は56年ほど乖離している。両方共に国指定の重要文化財だ。
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_1
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_2
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_3
この位置から見た大池
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_4
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_5
この位置から見た旧燈明寺本堂
何百年も連れ添った相棒だ。50年後に追いかけてきてくれて有難うというところかな。
旧燈明寺三重塔【重要文化財】_6

園内のほぼ全域から、その姿を見ることができる三重塔は三溪園を象徴とする建物です。三溪園には、1914年(大正3年)に移築されました。
燈明寺は江戸時代に宗派が変わった際に東明寺から燈明寺に改名されました。瓦に東明寺と刻印されているのは、そのためです。

 

晩秋を迎えようとする三渓園(3)

月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道
雰囲気のある道が続く。が、ちょっとアップダウンがあり、真面目に園内をもれなく回ろうとすると、最後はかなり草臥れるかもしれない。
一旦上った丘から一挙に下りてくる感じ。何気ないようだが、妙に落ち着く感じになっている。
月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道_1
月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道_2
月華殿や天授院から聴秋閣に向かう道_3

聴秋閣【重要文化財】1623年(元和9年)建築
臨春閣と聴秋閣。三渓園の主要な建物が向かい合っている。こちらは、背後を崖に囲まれていて、虫の声が間断なく聞こえてきそうだ。また、楓の木もたくさん植えられていて、聴秋閣というネーミングが適しているように思う。
建物はかなりユニークな形状だ。それを愛でたい。
聴秋閣【重要文化財】_1
聴秋閣【重要文化財】_2
聴秋閣【重要文化財】_3
聴秋閣【重要文化財】_4
聴秋閣【重要文化財】_5
聴秋閣【重要文化財】_6
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟で漕ぎ着ける場を想像させ、当初は水辺に面して建てられたのかもしれません。江戸時代はじめの上流武士階級の風流な文化が伝わります。この建物は江戸時代の武士佐久間将監の作と伝わります。小堀遠州と同時代に幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた人物で両者とも茶の湯に深く似た境遇であったため、遠州はライバル的存在であったのかもしれません。この建物から将監の挑戦・意欲が伺えます。

以下の2つの建物は茶室。園内には、この他に、前回取り上げた金毛窟とまだ取り上げていない林洞庵と横笛庵と、合計5つの茶室がある。季節的なものなのか、お茶会が行われていて華やかだった。
その他にも茶室を備えてある建物もいくつか。聴秋閣もその例だろう。


春草廬【重要文化財】桃山時代建築
織田有楽斎の茶室は国宝に指定された茶室『如庵』もある。そちらとこちらとでは、どこに差があるのだろうか?
横道にそれるが、如庵という庵名は有楽斎のクリスチャンネーム「João」または「Johan」から付けられたという説もあるようだ。う~~ん、ヨハネだったのか。
春草廬【重要文化財】_1
春草廬【重要文化財】_2
春草廬【重要文化財】_3
春草廬【重要文化財】_4
春草廬【重要文化財】_5
春草廬【重要文化財】_6
春草廬【重要文化財】_7
三畳台目(さんじょうだいめ)の小間茶室は、織田有楽斎の作品と伝えられています。
春草廬は、茶室内に九つの窓があることから、かつて"九窓亭"と呼ばれていました。 多くの窓を持つもので、華やかな茶室です。


蓮華院 1917年(大正6年)建築
茶室を作り過ぎと思わないでもないほどだが、当代切っての粋人としては、自らの手になる茶室にこだわらないわけにはいかなかったのだろう。前回取り上げた金毛窟より1年前に建てた。
下記の三渓園の説明文。読み飛ばせば何ということはないのかもしれないが、土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来。えーっ、そんなことが可能だったの、と思うようなことがサラッと書かれてある。
蓮華院_1
蓮華院_2
蓮華院_3
蓮華院_4
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。二畳中板の小間と六畳の広間、土間からなっています。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。

 

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