散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(9)

英勝寺(3)
姫御殿跡の竹林
維新までは代々水戸家の姫が住持を務めたそうだ。その御殿跡がこの竹林。今は昔の話になってしまった。
姫御殿跡の竹林_1
姫御殿跡の竹林_2
姫御殿跡の竹林_3
姫御殿跡の竹林_4
創建にあたっては、徳川頼房の娘小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。
創建の経緯から、その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。

総門
いまは通常は開門されることがないようだ。皇族が来られるような特別なときには、当然開門するのかもしれない。
総門_1
総門_2
総門_3
総門_4
総門_5
太田道灌邸旧蹟の石碑
太田道灌邸がどの辺にあったかは定かではなさそうで、おそらくこのあたりだっただろうというところの土地に英勝寺を建てたようだ。
太田道灌邸旧蹟の石碑

寿福寺
北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した由緒ある寺院。鎌倉五山第3位に列せられる。
もともと現在の寿福寺のある付近は、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地。頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。
総門から参道を進むことができるが、その先の山門からは無情にも通常は非公開。正月などの特別拝観時のみ入ることができるようだ。正月に鎌倉を歩くなどという物好きではないので、中をしみじみと見た経験がない。

総門
総門_1
総門_2
美しい石畳の参道
美しい石畳の参道
山門と仏殿とが見えるのだが、進むことができるのはここまで
山門と仏殿とが見えるのだが、進むことができるのはここまで_1
山門と仏殿とが見えるのだが、進むことができるのはここまで_2
山門から覗いた様子
山門から覗いた様子_1
山門から覗いた様子_2
山門から覗いた様子_3

これではあまりに寂しいので、前回2014.09.03往訪時を写真を再掲する。

総門から山門まで
2014_09_03_1
2014_09_03_2
2014_09_03_3
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2014_09_03_5
北条政子のお墓
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実朝・政子の墓
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こんな拔け口があった
2014_09_03_11

源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。
もともと現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。
創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。
寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心、円爾(弁円)、蘭渓道隆、大休正念など、多くの名僧が入寺した。鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院である。


以上で、『北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く』のシリーズは終了です。最後まで、ご覧いただきありがとうございました。

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(8)

英勝寺(2)
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)
徳川頼房の子・松平頼重が英勝院の一周忌のために1643年に建立したと伝わる。
この山門は、関東大震災で全壊後、資産家の手に渡っていた。平成13(2001)年に英勝寺に買い戻された後、復興工事が行われ、平成23(2011)年5月16日に落慶供養が行われた。山門の部材からは、嬉しいことに、後水尾上皇宸筆の扁額も発見された。落慶供養のタイミングをとらえて、平成25(2013)年に、仏殿・鐘楼・祠堂・唐門(祠堂門)とともに国の重要文化財に指定されている。
徳川頼房の子・松平頼重は、父頼房公が兄義直の尾張徳川家、頼宣の紀州徳川家の前に世継ぎの子をなしてはいけないということで、本来は生まれてこないはずの子だった。ということで、長男でありながら、数奇な運命を辿った。英勝院は将軍・徳川秀忠に対してこの世には存在していないと思われた頼重の帰府を願い、寛永9(1632)年11月には頼重の江戸の水戸藩邸への帰府が実現したという。
という自身に対する最大の恩人、英勝院のために力を尽くしたのだろう。

現在の敷地が狭く、山門を正面からは撮ることができない。買い戻すのに、大変な思いをしたようだ。
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_1
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_2
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_3
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_4
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_5
後水尾上皇宸筆の扁額
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_6
裏側からは比較的容易に撮ることができる
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)_7
徳川頼房の子・松平頼重が英勝院の一周忌のために1643年に建立したと伝わっている。1923年の関東大震災で全壊したが、全ての部材が資産家に買い取られて私有地に再建された。その後、約80年を経た2001年に英勝寺が買い戻し、資金面等多くの人々の協力を得て復興工事が行われ、2011年に落慶供養が行われた。2013年には国の重要文化財に指定されている。
3)鐘楼
近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼。徳川幕府の粋のかかったところでよく見かける。確かに、鎌倉ではこの形式の鐘楼は他に見たことがないなあ。梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つそうだ。許可を得て近くで見ない限りわからないのだろうなあ。梵鐘の方は、林羅山先生の力を以ってしても国指定の重要文化財からは漏れたのかな。
3)鐘楼_1
3)鐘楼_2
3)鐘楼_3
4)祠堂(附:英勝院墓)
内外は日光東照宮を思わせる鮮やかな彩色装飾が施されている。それだけに、安っぽいプレハブの鞘堂に覆われているのが残念でならない。何とかならないものだろうか。これを建立した徳川光圀公も残念がっているのではなかろうか。
4)祠堂(附:英勝院墓)_1
4)祠堂(附:英勝院墓)_2
鞘堂の中には、開基英勝院の墓廟である祠堂がある。華麗な色彩装飾が施されている。祠堂は、英勝院の位牌を安置する堂。背後には、英勝院と開山玉峯清因の墓がある。徳川光圀によって建てられもので、完成の折には光圀も来訪した。
祠堂を説明しているHPへjump
5)祠堂門
祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。
5)祠堂門_1
5)祠堂門_2
英勝寺の唐門(祠堂門)は、開基英勝院の墓廟である祠堂への門。ボタンの彫刻が施され、江戸時代の高度な技術をみることができる。
6)木造阿弥陀如来及両脇侍像龕(りょうきょうじぞうがん)〈鎌倉国宝館に寄託〉
蒔絵の厨子に納められている仏像で、10世紀末~11世紀初め頃の作と考えられている。日本製作の檀龕仏(だんがんぶつ)の初期の作例ということで、国から重要文化財に指定されている。
庭の花など
庭の花など_1
これは『ミニ柿』だそうだ。直径3cmほどの極めて小さな実。結構注目の新フルーツだとか
庭の花など_2
庭の花など_3

 

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(7)

英勝寺(1)
扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在、鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。
今まで見てきた寺院と異なり、この寺は、江戸初期の建立。開基の英勝院尼は、徳川家康に仕え『戦には必ず勝利をもたらした』ので『お勝の方』と呼ばれ、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。
水戸徳川家では頼房の長男である頼重(後に高松松平家・讃岐高松藩主)、三男・長(後の水戸藩主・光圀)がいて、頼重は京都の慈済院へ入っていた。『讃岐高松松平家譜』に拠れば、英勝院は将軍・徳川秀忠に対して頼重の帰府を願い、寛永9(1632)年11月には頼重の江戸の水戸藩邸への帰府が実現したという。さらに、寛永11(1634)年5月9日には水戸徳川家の世子となった幼い光圀を伴い、新将軍・家光への謁見を行っている。
このように、水戸徳川家をことあるごとに引き立てて回り、目出たくも御三家に列せられるようになったわけだ。大恩人であった『お勝の方』の英勝院尼の大恩に報いるべく創建したのが、英勝寺だ。当初英勝院が建立し、これを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられている。

東国花の寺百ヶ寺の一ヶ寺でもある。花もきれいだ。

国指定の重要文化財は、以下の通り。この内、鎌倉国宝館に寄託中の木造阿弥陀如来及両脇侍像龕を除くものを中心に見ていこう。
1)仏殿(附:棟札4枚、扁額1面、梁牌2枚)
2)山門(附:棟札2枚、扁額2面)
3)鐘楼
4)祠堂(附:英勝院墓)
5)祠堂門
6)木造阿弥陀如来及両脇侍像龕(もくぞう あみだにょらい・りょうきょうじぞうがん)〈鎌倉国宝館に寄託〉


1)仏殿(国指定重要文化財)
1636年(寛永13年)に建てられた禅宗様方三間裳階付の建物。円覚寺舎利殿(旧太平寺仏殿)や、旧東慶寺仏殿(現三渓園)を参考にしているともいわれているが、両仏殿に見られるような屋根の反り上がりはなくすっきりとした直線のもの。その意味では独特の意匠だ。
外観
扁額も附指定になっているが、経年で黒ずんでしまい肉眼では見えにくい。拡大したら、『寶珠殿』と書かれてあった。曼殊院良恕法親王の記号だそうだ。それで、『寶珠殿』とも称されるのか。この名前を賜るのは英勝院尼にとっても身に余る栄誉だったことだろう。
外観_1
外観_2
外観_3
本尊
阿弥陀三尊立像。徳川三代将軍家光の寄進で運慶作といわれる。神々しいお顔に驚かされる。向かって右が観音菩薩。左には勢至菩薩がある。
阿弥陀如来立像は美しき光り輝いている。気品のあるお顔だ。螺髪は九品仏浄真寺の像と違って落ち着いた色になっている。
本尊_1
見事な堂内の装飾ぶりだ
本尊_2
阿弥陀如来にも引けを取らないお顔だ
本尊_3
蟇股に彫られた干支
軒下には、仏殿では珍しい十二支の装飾彫刻があるが、そのうちのいくつかを取り上げる。なかなかに迫力がある。

蟇股に彫られた干支_1

蟇股に彫られた干支_2

蟇股に彫られた干支_3

蟇股に彫られた干支_4

蟇股に彫られた干支_5

蟇股に彫られた干支_6
こんな風に飾られている。一方に三つの干支。四方あわせて十二支になる。
蟇股に彫られた干支_7
蟇股に彫られた干支_8

方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永二十年八月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立し、これを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。

 

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