散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(13)

東慶寺(2)
季節の花ほか
東国花の寺百箇寺の一つだけあって、春夏秋冬、美しい花に囲まれている。女性の拝観者が圧倒的に多い寺だから、好評なことだろう。
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イワタバコはこんな花(PDF画像を借用)
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頌徳碑
鈴木大拙の経済的援助をしたといわれる安宅弥吉を顕彰するための碑。これだけの碑を遺してもらったら、安宅弥吉翁も光栄に思ったことだろう。『自安』という熟語には、ちょっとびっくりした。我が故郷に『自安我楽(じゃんがら)念仏踊り』というものが伝承されているが、それと同じ用法のように思えた。
鈴木大拙の縁からだろうか。東慶寺には文化人の墓が多いことでも有名で、檀家の墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、真杉静枝、高見順、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、野上弥生子、前田青邨、 川田順、レジナルド・ブライスらの墓があるそうだ。
頌徳碑
松ヶ岡文庫入口にある「自安」と刻まれた頌徳碑は、鈴木大拙の経済的援助をしたといわれる安宅弥吉を顕彰するため、大拙が建てたもの。安宅弥吉は、大拙と同郷の実業家。碑には「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている。

はまれぽ『松ヶ岡文庫』紹介記事の頁へjump

用堂女王の墓
兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入り、その後この寺の五世住持となったのか。この方の住持就任以降、東慶寺に箔がついたんだ。
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石碑には「後醍醐天皇皇女」と刻まれていますが、南北朝時代の後醍醐天皇の皇女用堂尼が兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入り、その後当寺の五世住持となっており、以後東慶寺は「松岡御所」と称されることとなったようです。
墓は「やぐら」と呼ばれる横穴式の納骨窟または供養堂の中にありますが、鎌倉時代から室町時代にかけて鎌倉を中心に武士、僧など上流階級の墓として多く造られていたようです。


第五世用堂尼の説明頁にjump

寒雲亭
1788年(天明8年)から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものか。それにしても、所有者が転々としているなあ。なお、裏千家の今日庵にも寒雲亭が再建されているとのことだ。経緯からして東慶寺のほうが古そうだ。
寒雲亭
書院と本堂の向かいに茶室・寒雲亭がある。 寒雲亭は千宗旦の遺構で、最初のものは1648年に造られ、裏千家で最も古いお茶室とされる。ただし1788年(天明8年)正月に京都で大火があり、伝来の道具や扁額、襖は持ち出すことができたが、茶室は隣合わせだった表千家・裏千家共にすべて焼失している。従って現在残るものは1788年から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものである。東慶寺の寒雲亭は明治時代に京都の裏千家から東京の久松家(元伊予松山藩久松松平家)に移築され、その後、鎌倉材木座の堀越家を経て1960年(昭和35年)に東慶寺に寄進・移築されたものである。千宗旦の「寒雲 元伯七十七歳」の扁額がある。 

寒雲亭の説明頁にjump

山門
丁寧に見送ってくれる感じがした。東慶寺は東慶寺なりに関東大震災後の再建を図ったようだ。
山門_1
山門_2

以上で『北鎌倉の寺院を見て歩く』シリーズはおしまいです。最後までご覧いただきありがとうございました。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(12)

東慶寺(1)
縁切り寺としてあまりにも有名な寺院。その方に興味のある方は、いくらでも解説されているであろうから、そレラの資料を参照されたい。こちらは、散歩の傍ら、ちょっと気になった点を調べる程度に留める。

山門とその近辺
江戸時代には鎌倉街道に面して大門があった。現在の山門は中門で男子禁制の結界だったそうだ。
現在の山門
こちらは浄智寺と違って、関東大震災後の修復に鎌倉石を使用しなかったようだ。百年弱ではこの程度なのが普通なのだろう。
山門とその近辺_1
山門とその近辺_2
山門とその近辺_3
山門とその近辺_4
昔はここに大門があったようだ
山門とその近辺_5
山門近くの花
一重と八重の秋明菊。八重の秋明菊は見たことがなかったが、一重に負けず劣らず美しいものだった。
山門近くの花_1
山門近くの花_2
山門近くの花_3
山門近くの花_4

石碑も幾つか
田村俊子文学碑
他人には絶対に書くことが出来ない内容だ。自分でも、…。さすが激しく己の道を歩んだ女流作家の碑だけあると思った。
田村俊子文学碑
この女作者はいつも おしろひをつけてゐる
この女の書くものは 大がひおしろひの中から うまれてくるのである

四賀光子歌碑
四賀光子歌碑
東慶寺開山覚山尼讃歌
流らふる大悲の海によばふこゑ時をへだててなほたしかなり


鐘楼
関東大震災の際でも寺内で唯一倒壊を免れているのは事実だが、大震災は建築直後のことだ。それだったら持ち堪えたのは当然かもしれない。
鐘楼
茅葺のこの鐘楼は大正5(1916)年に建てられたもので、関東大震災の際でも寺内で唯一倒壊を免れています。
梵鐘は南北朝時代の1350年の鋳造で神奈川県の重要文化財に指定されています。鐘には「就相陽城之海浜有富多楽之寺院」、「観応元年」と刻印されており、材木座の補陀落寺(ふだらくじ)のものであったことがうかがえます。
なお鎌倉時代に鋳造された梵鐘は伊豆韮山の本立寺に置かれています。


本堂
本堂の中門をくぐったと認識したのだが、書院の中門をくぐって正面にあるのが、この本堂だそうだ。旧仏殿は三渓園に移築されたものか。明治40(1907)年に移築というから、経済的に困窮し、原三渓氏に買ってもらうしか無かったのかと思う。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
東慶寺の仏殿は、「泰平殿」と呼ばれ、本尊は釈迦如来坐像(南北朝時代)。本尊の左には二十世天秀尼像、右には開山覚山尼像と五世用堂尼像が安置されている。
もともとは、鎌倉尼五山第一位で廃寺となった太平寺の木造聖観音立像(土紋装飾が施された仏像)を安置するために建立されたのだという(現在、木造聖観音立像は松ヶ岡宝蔵に安置)。
現在の仏殿は1935年(昭和10年)に建立されたもので、旧本堂(仏殿)は横浜市の三溪園に移築されている。本堂横の水月堂には、木造水月観音半跏像が安置されている。


水月堂
水月観音菩薩半跏像の特別拝観には事前予約が必要だ。元は加賀前田家の持仏堂だったが、昭和34(1959)年に移築し、水月観音菩薩半跏像を安置するようになった。 水月堂という呼び名は、水月観音菩薩像を安置することからそのように呼ばれるようになった。
水月堂
岩にもたれてくつろいだ姿勢をとる観音像。同様の姿は水墨画に多く、水月観音、楊柳(ようりゅう)観音、白衣(びゃくえ)観音などの名前がある。この像は水面に映った月を見る姿と言われる。こうしたくつろいだ姿の観音像は、中国の宋から元時代に大流行した。観音は補陀洛山(ふだらくせん)というところに住むと言われるが、中国では山と言えば仙人のいる場所である。観音と仙人が重ね合わされた結果、仙人特有のポーズを観音がとることになったと考えられる。 中国で大流行したのに、日本では鎌倉周辺にしか見られない。おそらく保守的な京都では菩薩にふさわしくないとして受け容れられなかったのだろう。これに対して、鎌倉は中国風をより積極的に受容したことがわかる。 かつては室町時代あるいは南北朝時代の作とされていたが、頭髪や衣の写実的な表現がみごとで、鎌倉時代も13世紀の作と見られる。東慶寺開山、北条時宗夫人の覚山尼にかかわる遺品である可能性もある。銅製の冠、胸飾などは後世補われたもの。

木造聖観音立像を解説した頁へjump
水月観音菩薩半跏像を解説した頁へjump

書院
東慶寺の書院は、大正期の建立。
それ以前の書院は、1634年(寛永11年)、徳川忠長屋敷から移築されたものだったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。現在の建物は、その当時の間取りで再建されたもの。

徳川忠長(駿河大納言)は、徳川三代将軍家光の弟。竹千代(家光)擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、忠長はその当事者、国千代だ。真実のほどは知らないが、寛永10(1633)年、不行跡を理由に甲府蟄居・高崎幽閉の後、28才で自刃した。その翌年に、解体された屋敷が東慶寺に移築されている。精神をやんだのかもしれないが、悲劇の人だったようだ。
それが関東大震災で倒壊するまでの書院だったのか。

後日、扇ヶ谷の薬王寺を訪ねたときに、夫人(織田信長の孫)が建てたとされる徳川忠長供養塔をみた。
普段は書院への立ち入りできないようだが、地元のイベント開催などの折に協力しているようだ。

書院
書院_1
書院_2
中門
中門_1
中門_2

東慶寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。

 

北鎌倉の寺院を見て歩く(11)

浄智寺(2)
曇華殿(どんげでん)
曇華殿
仏殿に相当する建物。何度も繰り返すようだが、建物自体は関東大震災で、全てやられてしまった。その後の再建なので、築後およそ百年弱の建物ばかりだろう。
曇華殿_1
本尊の三世仏
浄智寺の本尊で、室町時代中期の作。裏にある南北朝時代の観音菩薩像と同様、鎌倉時代より後代に作られたもの。鎌倉幕府滅亡後も勢力を保っていたという証だろう。
仏教における三世とは、過去・現在・未来のことをいうようだ。こちらの三世仏は、向かって左から、阿弥陀如来(過去)、釈迦如来(現在)、弥勒菩薩(未来)を表すもの。いずれも袖と裾を台座から垂らした宋風の像。(県重文)
顔が黒ずんで見えるのは金箔が剥がれて下地の黒漆が見えているからだろうか?

曇華殿(どんげでん)_2
曇華殿(どんげでん)_3
観音菩薩像
南北朝時代のもので、もとは山門の中に五百羅漢とともに祀られていた。大正12(1923)年の関東大震災で破損したが、昭和初期に修復された。いまは、曇華殿(仏殿)の裏側に祀られている。鎌倉観音三十三札所第三十一番の観音さまだ。ご詠歌は、『けふよりぞ こがねのやまに 入りにけり きよきさとりの ちえをとりつつ』だ。
曇華殿(どんげでん)_4
曇華殿(どんげでん)_5

書院
雰囲気があって好きな感じ。裏庭が見えるようにしてある配慮が心憎い。この時期ならではのサービスだ。
書院_1
書院_2
書院_3
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書院_6
書院_7
書院_8
仏殿の裏手にある、茅葺きの素朴な造りの建物、非公開だが、外から中を見ることができる。書院の前に広がる庭には、コスモス、アヤメや月見草、ウメなど四季の花が咲き、風情を醸し出している。

裏庭
鎌倉の寺院ならどこでも目にすることだろうが、こちらにもやぐらがたくさん存在する。ひっそり閑としている風情が素晴らしい。
裏庭_1
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裏庭_3
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裏庭_6
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裏庭_13
裏庭_14

龍淵荘
イベントなどを開催する建物として使用しているようだ。残念ながら、中に入ったことはない。
龍淵荘

布袋和尚像
トンネルをくぐって鎌倉七福神の一人である袋和尚に会いに行く。撫でられまくりの様子が伺えた。
布袋和尚像_1
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