散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

九品仏浄真寺(3)

この浄真寺開山の珂碩上人は仏像づくりの天才ではあるが、俗事には疎かった。其れを補ったのが、弟子の珂憶。元禄11年に本堂、三仏堂の棟上を行っている。そして、この堂宇及び仏像を活用した『二十五菩薩来迎会』を始めたようだ。
三仏堂と九品仏
三仏堂は世田谷区指定文化財。その中に安置されている木造阿弥陀如来坐像(9躯)は東京都指定文化財。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。極悪人でも極楽往生ができるようだが、ここで言う極悪人とはどういうものなのだろう。
上品堂
上品上生・上品中生・上品下生の仏像3躯が安置されている。
仏堂外観
本堂と向かい合う位置に立つ。本堂を現世(娑婆)に見立てて、三仏堂を浄土として、二十五菩薩が浄土から迎えに来るといった来迎会が行われるが、この上品堂が浄土と見立てられる。
上品堂_仏堂外観_1
上品堂_仏堂外観_2
外側にある表示のとおり、中央が上品上生、右側が上品中生、左側が上品下生の並び順だ。
上品堂_仏堂外観_3
上品堂_仏堂外観_4
下品堂から見た上品堂
上品堂_仏堂外観_5
上品堂_仏堂外観_6
安置されている3躯の仏像
上品上生仏像
螺髪が真っ青なのが目を引く。手の印の結び方に注意して、各仏像の違いを見ていただきたい。
上品堂_3躯の仏像_1
上品堂_3躯の仏像_2
上品中生仏像
上品堂_3躯の仏像_3
上品下生仏像
上品堂_3躯の仏像_4
中品堂
中品上生、中品中生、中品下生の仏像3躯が安置されている。
仏堂外観
中品堂_仏堂外観_1
安置されている3躯の仏像
看板にあるとおり『平成九品仏大修繕事業』が行われていて、この日は中品上生仏像がご遷座中だった。残念だが、仕方がない。
中品堂_仏堂外観_2
中品堂_安置されている3躯の仏像_1
中品中生仏像
中品堂_安置されている3躯の仏像_2
中品下生仏像
中品堂_安置されている3躯の仏像_3
下品堂
下品上生、下品中生、下品下生の仏像3躯が安置されている。残念ながら前の戸が開いてなかったので、仏堂のみを撮った。
仏堂外観
下品堂_仏堂外観_1
下品堂_仏堂外観_2
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)
本堂と上品堂との間に仮設(だが結構しっかりした)の橋が架けられ、そこを往復する。下から見上げた感じは、まさしく天上界での出来事のように見える。
二十五菩薩が浄土から迎えに来るシーン
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_1
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_2
娑婆から浄土に向かうシーン
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_3
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_4
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_5
珂碩上人の御神像がお厨子に乗せられて橋を渡る
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_6
最後は住職が行事を〆る
二十五菩薩来迎会の様子(2014年)_7

せたがや百景 No.98『お面かぶりの九品仏と参道』記事の引用
この浄真寺を特徴づける九品仏や三仏堂などの伽藍配置は開山の珂碩上人と弟子の珂憶(かおく)によって成されました。簡単に書くと珂碩上人が仏像(本尊の釈迦像と9体の阿弥陀如来像)を造り、弟子の珂憶が寺の建設などを行ったといった感じです。
どうも記述を読む限りでは、珂碩上人は仏像を造ったり、住職として仏事などを行う事にかけては天才的だったようですが、寺の経営とか資金を勧請しての建設、お役所の手続きといった事に関してはまるでダメだったようで、見てられないとばかりに行動派の珂憶が協力を申し出て助けていたようです。
仏像に関しては珂碩上人が出家して間もなくの19才の時(1636年)に梵綱経を読んで阿弥陀如来の願摂を覚証し、九品仏の建立を発願したそうです。そして霊巌寺僧侶時代の25才頃から製作に取りかかり、20年後の寛文4年(1664年)にようやく一体目の阿弥陀如来が完成します。
その後は珂憶の資金的な援助があって建立が一気に進み、寛文7年(1667年)に九体の阿弥陀如来像と釈迦像が完成します。その後しばらく越後の村上の泰叟寺に住持する事になり、仏像は深川の霊巌寺に置いていきます。しかし深川は度々水害に遭い、仏像を安置するのに相応しい場所はないだろうかと探しているところに奥沢で寺の募集を行っているのを知ったというわけです。
そして延宝2年(1674年)に仏像を移動し、同7年に珂碩上人も移住し浄真寺を開山します。これで一件落着とはいかず、法律的、珂碩上人の性格的にもちゃんとした堂宇の建立は進みませんでした。
元禄7年(1694年)に珂碩上人は他界します。その直前に河内の寺の住職となっていた珂憶が見舞いに来て、その時に本堂や三仏堂などの堂宇を建てたかった旨を話したそうです。珂憶は珂碩上人の死後その志を引き継いで資金集めや大工の手配などに奮闘し、元禄11年に本堂、三仏堂の棟上を行っています。
堂宇の建設にあたって珂憶は城跡という地形を利用して独特の伽藍配置を行っています。寺伝によれば珂憶式というようですが、まず本郭があった土塁で囲まれている場所を聖域とし、その入り口に仁王門を造ります。結界の入り口といった感じでしょうか。聖域部分は方形でしかも明快な東西の軸線を持っているので、浄土宗の西方浄土の思想を反映した境内造りが簡単でした。
仁王門から見て聖域は西に当るし、本堂から見て三仏堂も西にあたります。その象徴的なのが後述するお面かぶりの行事で、本堂を現世(娑婆)に見立てて、三仏堂を浄土として、二十五菩薩が浄土から迎えに来るといった来迎会が行われます。
また城跡を利用した配置で特徴的なのは参道です。総門から入って途中で左に直角に曲がらなければならないという変わった配置をしているのは、恐らく元々あった城の道を利用したものだと考えられています。城の遺構として考えるならば、山門から仁王門の部分が外郭部分となり、本郭部分に対して屈折しているのも納得です。

 

九品仏浄真寺(2)

梵鐘(東京都指定文化財)
梵鐘は近くで見ることが出来ないので、文化財指定に相応しいものか否かよくわからない。だが、鐘楼のみごとさには何時も眼を瞠らされる。
梵鐘(東京都指定文化財)_1
梵鐘(東京都指定文化財)_2
撮っていたら時間が来たのか、鐘を撞き始めた。なんという幸運なことか。
梵鐘(東京都指定文化財)_3
梵鐘(東京都指定文化財)_4
梵鐘(東京都指定文化財)_5
仁王門脇にあった石碑
馬頭観音と思われる石碑が並んであった。
仁王門脇にあった石碑_1
仁王門脇にあった石碑_2
仁王門脇にあった石碑_3
仁王門脇にあった石碑_4
仁王門脇にあった石碑_5
仁王門を潜った辺り
こんなふうに見える
見るからに真っ直ぐの道があるようだが、実はかくかくと曲がることになる。
仁王門を潜った辺り_3
鷺草
かつては鷺草伝説の地に相応しいだけの鷺草があったそうだが、今は殆ど見られない。残念なことだ。
仁王門を潜った辺り_1
仁王門を潜った辺り_2
側面からだが、本堂が見える
仁王門を潜った辺り_4
天然記念物の浄真寺のイチョウ
仁王門を潜った辺り_5
その銀杏越しに本堂の右角が見えている
仁王門を潜った辺り_6
本堂
ご本尊の木造釈迦如来坐像(東京都指定文化財)
凄い風格。お面かぶりの時に二十五菩薩を迎える。未だに活躍する生きた釈迦如来坐像である。
本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
本堂_6
本堂_7
乾漆珂碩上人倚像(世田谷区指定文化財)
布で覆われていて、ご尊顔を見ることは出来なかった
本堂_8
本堂_9
高祖善導大師像
本堂_10
木造五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来坐像(世田谷区指定文化財)
本堂_11
本堂_12
内陣天井
本堂_13
大きな数珠
本堂_14
何やら粋な寄付者名の掲額
本堂_15

 

九品仏浄真寺(1)

九品仏浄真寺へは我が家からも歩いていくことができる。片道20分(現在、足腰の不調があるので25分程度かかると思う)である。我が家のある旧碑衾村は日蓮宗の勢力の強い土地柄だったようだ。何が言いたいかというと、第4代将軍徳川家綱の延宝6年(1678年)に、この地(旧碑衾村と境を接する旧奥沢村)に九品仏浄真寺が創建された。江戸時代は基本的にお寺さんが新しく作られるのは認められていなかった。そんな時代に日蓮宗の勢力が強い土地の近くに、どうお上と話をつけたのか浄土宗の大きなお寺さんが出来たのだ。上の方では話がついても、下々の間ではしこりが残ったようだ。
九品仏駅
自由が丘駅から歩いてもそんなに遠くないが、道を知らない方は、こちらの駅で乗降したほうが無難だろう。改札を出た直前を道路が走り、そこが踏切になっているのだが、ちょっと変わった眺めだ。
九品仏駅
参道
スイーツ屋さん、お蕎麦屋さんなどの誘惑に負けず、ともかくも九品仏浄真寺拝観を優先させた。
参道_1
参道_2
『禁銃猟 警視廳』か。この辺りでも銃による猟が行われていたんだ。それくらい鳥獣が存在したのだろう。『廳』の文字も時代を感じさせる。明治32年のことか。う~~ん。
参道_3
参道_4
総門が見えてきた
参道_5
参道_6
総門
扁額には『般舟場(はんじゅじょう)』と書かれてある。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る般舟三昧する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるそうだ。おわかりいただけだであろうか。
総門
重要な情報
次回の『お面かぶり』は、来年の8月16日ではなく、5月5日に変更になったようだ。9ヶ月も覚えていられるかなあ。3年に一度の行事だから、見逃したら、大後悔必至だろう。直前まで日程変更に気付かずにいる方が少なくないのだろうなあ。
重要な情報
前回の『お面かぶり』の様子
前回の『お面かぶり』の様子
総門を潜った辺り
その先に山門があり、本堂があるのが普通だろうが、ここはそうはなっていない。右手には閻魔堂があるだけ。
総門を潜った辺り
閻魔堂
後述するが、死んだ時に9つのタイプに類別されるそうだ。だが、それもこれも、この閻魔堂で引っかからなければの話だ。ご同輩、その自信はお有りだろうか?
閻魔堂_1
何故だか、とても怖く感じた。今からでも改心すれば、認めてくれるのだろうか。
閻魔堂_2
閻魔堂_3

参道を左に折れるが、その前に右手に折れて東門を見ておく

東門
東門からは、仁王門まではまっすぐ進むことができる。扁額には何と書かれているのだろうか。『釈迦如来仏法…』と書かれてあるのかなあ。
東門_1
東門_2
仁王門(紫雲楼) (世田谷区指定文化財)
楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているが、この日は前の扉が開けられておらず、確認できなかった。それが残念だったが、仕方がない。それにしても、この風格のある仁王門(紫雲楼)が世田谷区指定文化財にとどまるとは。寛政5年(1793)の建立で223年前のものなのだが、…。
仁王門(紫雲楼)_1
仁王門(紫雲楼)_2
仁王門(紫雲楼)_3
仁王門(紫雲楼)_4
仁王門(紫雲楼)_5
仁王門(紫雲楼)_6
仁王門(紫雲楼)_7
仁王門(紫雲楼)_8

仁王門
重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。
一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像も立って、寺域全体の安全が意図されている。
紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩
当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。
すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。
この楼門は寛政年間の建立である。
当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。


歴史
浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。
「九品仏」の由来
広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にも見られる。
これは「観無量寿経」に説く九品往生(くほんおうじょう)の思想に基づくものである。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。浄真寺の九品仏の場合、阿弥陀如来の印相の内、定印を「上生印」、説法印を「中生印」、来迎印を「下生印」とし、親指と人差し指(中指、薬指)を接するものをそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充てる。なお、九品往生を9通りの印相で表す教義的根拠は明確でなく、日本において近世になってから考え出されたもののようである。

 

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