散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

皇居東御苑(6)

本丸
中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっているが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていた。現在、二本のケヤキが門柱のように聳えている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたるそうだ。文久3年(1863年)の火災以降は再建されなかった。その機能は西の丸御殿が果たした。ということで、江戸城の天守閣が早々に姿を消し、幕末には本丸御殿をも失った。薩長の藩主には徳川幕府の弱体化が手に取るようにわかったことだろう。

二本のケヤキ(本丸御殿の正面玄関にあたる位置)

イメージしづらいと思うので、下記URLの江戸城本丸図を参照していただきたい。

江戸城本丸図

本丸地区は、江戸城の中心をなし、周囲に石垣と濠をめぐらした高台で、約13万平方メートル(約4万坪)と最も広い場所です。
江戸城は、天正18年(1590年)の徳川家康入城以来、秀忠、家光の三代にわたって完成されたのですが、その当時の本丸の建物は表・中奥・大奥からなる壮大豪華な殿舎(面積約一万一千坪)が所せましとたちならんでいました。天守閣のほか、櫓が十棟、多聞十五棟、諸門二十数棟がありました。
現在は、本丸跡地として、大きな芝生の広場になっています。芝生のず~っと向こうに見える石垣が天守閣跡になります。
その後、江戸城本丸内では五回の罹災にあい、そのつど復旧されましたが、文久3年(1863年)の火災以降は再建されませんでした。現存するものは、富士見櫓と富士見多聞のみです。


石室
時代小説などを読むと、こういったものがよく登場する。本当のところ、使用目的は何だったのか想像をたくましくしてしまう。
石室_1
石室_2
石室_3

抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際の、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。
伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の板が使われています。


富士見多聞
数少ない江戸から残る建物だと聞いていたので、写真を撮ろうと思ったが、かなり魚眼に近いレンズじゃない限り駄目な感じ。うろちょろしている間にやぶ蚊にだいぶ刺された。
富士見多聞_1
富士見多聞_2

「多聞」とは、防御をかねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれていました。
鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて狙い撃つことが出来ました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万が一に備えられていました。


富士見櫓
天守閣の方はわずか50年の命で終わり、突如としてその代役を担わされた。その頃は安定期に入っていただろうから、大げさな天守閣は必要がなかったのだろう。
富士見櫓_2
富士見櫓_1
皇居参観ガイドの写真を使用
富士見櫓_3

現在のものは明暦の大火の後(1659年)に再建されたもの。江戸城の天守は、明暦の大火で焼失した後に再建されることがなかったので、それ以後、江戸城のほぼ中央に位置していたこの富士見櫓を天守の代わりにした。

松の廊下跡
勿論建物内部の大きな廊下だったようだ。本丸御殿はかなり敷地いっぱいに建てられていたことになる。
松の廊下跡_1
松の廊下跡_2

忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が殿中で吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)への刃傷事件(にんじょうじけん)を起こした場所です。
廊下に沿った襖戸(ふすまど)に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていました。江戸城で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。


中雀門跡
本丸御殿の正面玄関前だった。それだけに、万が一の狼藉者の侵入をも防ぐべく、厳重な警戒態勢がとられていたのだろう。確かに人に対しては強かったかもしれないが、火に対してはからっきし弱く、すぐ下の写真でも分かる通り、巨石の表面がボロボロになっている。当然、本丸御殿への延焼を食い止めることはできなかった。
中雀門跡_1
中雀門跡_2

中之門を入り大番所前を左に進むと、正面に大形の石材で積まれた石垣を見ながら登る坂道があります。この坂は、もともと江戸城東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると、本丸正門の中雀門があります。この門は、文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっていますが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていました。現在、二本のケヤキが門柱のようにそびえている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたります。

 

皇居東御苑(5)

二の丸を後にし、いよいよ一段高いところにある本丸跡に向かう。

白鳥濠と汐見坂
本丸と二の丸をつなぐ坂道。結構な急坂。昔は、今の新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海が見えた。それが名称の由来だそうだ。太田道灌の時代はこの門が大手門だったとのこと。
汐見坂_1
汐見坂_2
汐見坂_3
汐見坂_4
白鳥濠

桃華楽堂など
このエリアは通常は一般の人の立ち入りはできない。そのため、一部の写真は皇居参観ガイドの写真を使用させていただいた。説明も引用のみ。m(_ _)m
桃華楽堂
桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后さまの還暦記念として建設されました。
鉄仙の花弁を形どった屋根と八面体の珍らしい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。

桃華楽堂
宮内庁書陵部庁舎
40万点に及ぶ皇室の古文書と全国に存在する陵墓の管理を行っている。
皇居参観ガイドの写真を使用
宮内庁書陵部庁舎

楽部庁舎
宮内庁式部職の楽部では,雅楽の保存,演奏,演舞,宮殿で演奏される洋楽を担当しています。毎年秋には,楽部による雅楽の一般公開が行われています。通常は一般の人は入れません。
皇居参観ガイドの写真を使用
楽部庁舎

天守台
本丸の北端に位置している。最初の天守は1607年に完成し、このときの天守台は少し南にあった。3代将軍家光が大改修を行い、最終的な完成をみたのは1638年。このとき、現在の天守台ができた。天守は、外観5層、内部6階建てで、天守台を含めた高さが58mであり、天気が良ければ房総半島からでも見ることができたという。しかし、明暦の大火で焼失してしまい、再建策もあったが、家光の弟である保科正之(会津松平家藩主)の反対により再建は延期され、それ以後天守は建設されなかった。
天守台_1
天守台_2

 

皇居東御苑(4)

今回は、二の丸庭園に植えられている樹木をとりあげる。

ゴンズイ
遠目には百日紅かと思ったが、近づいてみると、何やら実が赤く色づいていた。それで赤く見えたようだ。標識によれば、ミツバウツギ科のゴンズイ。初めて目にした。魚のゴンズイは知っていたが、こちらは全く知らなかった。
ゴンズイ_1
ゴンズイ_2

都道府県の木
私の気になった樹木のみ紹介する。

皇居参観ガイドの写真を使用
都道府県の木の石碑

やまもも…徳島県
雌雄異株だそうだ。2本植えられていたように記憶している。雌株と雄株とであればよいがどうだろうか。
やまもも

フェニックス(カナリーやし)…宮崎県
南国ムードを演出するのに最適な樹木かもしれない。いろいろな場所で目にする機会が多い。
フェニックス(カナリーやし)

だいせんきゃらぼく…鳥取県
大山に登らないと自生している様は見られないのか。見たいけれど、高いところは大の苦手だ。う~~ん。
鳥取県大山の山頂部にはキャラボクの大群落がある。このキャラボクは「ダイセンキャラボク」として国指定の天然記念物に指定され、独立の種とされていたが現在は母種の変異の範囲内とされている。群落は1700m前後の山頂平坦面に広がっており、群落の高さは数m。幹は地面を這ってまるで高山のハイマツ群落のようである。
だいせんきゃらぼく

あて(ひのきあすなろ)…石川県
阿天(あて)は翌檜(あすなろ)のことで、石川県の県木に指定されている
あて(ひのきあすなろ)
ひば(ひのきあすなろ)…青森県
檜葉(ひば)も翌檜(あすなろ)のことで、青森県の県木に指定されている
ひば(ひのきあすなろ)

 

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