散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

妙見堂

池上本門寺の近くに妙見堂がある。池上本門寺の建物はことごとく灰燼に帰したようだが、妙見堂は無事だったようだ。
妙見堂_1
妙見堂へ至る階段
妙見堂_2
妙見堂_3

元は日蓮宗の坊様の学校『南谷檀林』の鎮守として創立された堂宇で、妙見大菩薩を奉安する。
慶応2年(1866)の再建で、明治初年に南谷檀林は廃檀となったが、その後にも増築工事が行われたようだ。
江戸末期の社寺装飾彫刻が残されている。これがなんともいえず素晴らしい。出先だったので、偶々持ち合わせたコンデジで撮影した。細部がきちんとわからないのが残念だ。
奈良時代の頃から江戸末期まで神仏は融合し習合されていた。明治の御世の神仏分離によって、現在は妙見様は神社に属するものが多いが、妙見堂のようにお寺さんの中に残っていてもおかしくはないのだろう。
それにしても何故、妙見信仰が商売繁盛に繋がるのだろう。うーーん、よくわからない。ともあれ、冬至星祭りが賑わいのピークだそうだ。
見事な彫刻_1
見事な彫刻_2
見事な彫刻_3
見事な彫刻_4

宝永7年(1710)の大火で妙見堂が消失したことから、全面的に管理が照栄院に移管された。檀林の中にあり修行僧の信仰を受けていた妙見尊像が、どうして壇信徒の信仰を受けるようになったのか、そこには、妙見尊像の修復の際に広く浄財を求めたことに起因するという。特に「講中」の役割が大きかった、のちに「妙見講」として商売繁盛の神として多くの参詣者を集めるようになった。

 

池上本門寺(2)

空襲で多くの建物は焼かれてしまったが、五重塔(前回紹介済)の他に、経蔵と石段が残った。

経蔵
空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていた。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移された。どういう理由か知らないが、大田区指定有形文化財にとどまる。
経蔵_1
経蔵_2
最近、盗難事件が発生したようだ。まったく罰当たりな輩がいるものだ。
http://honmonji.jp/00index/tonan.pdf

此経難持坂(シキョウナンジザカ)
池上本門寺の表参道96段の石段坂。膝の靭帯を損傷する前だったらいざ知らず、今の私にはきついだけの坂にしか思えない。それでも経文を読誦しながらでなくとも、十分に上れるはずで、やや大げさなネーミングのように思える。こちらも大田区指定有形文化財。

熱心な法華信者で築城家としても有名な、加藤清正公の築造寄進になる。同公は、慈母の第七回忌にあたる慶長11年(1606)、その追善供養のため、祖師堂を建立寄進し、併せて寺域も整備しているので、その折の築造と考えられる。第14世日詔聖人のときである。第22世日玄聖人代の元禄年間(1688-1704)に大改修されているが、清正公当時の原型を残す貴重な石造遺構である。
なお、名称の由来は、『妙法蓮華経』見宝塔品第十一、此経難持の偈文96字にちなむ。すなわち、末法の世に法華経を受持することの至難を忍び、信行することの尊さを石段を上ることの苦しさと対比させ、経文を読誦しつつ上れば自然にのぼれる、と言い伝えられている。

此経難持坂(シキョウナンジザカ)

以下は、新しいものばかり。前回述べたが、建物が由緒あるか新しいかが重要なのではなく、信仰の場であるということが重要なのだろう。

日蓮聖人像(説法像)
宗祖七百遠忌記念として昭和58年奉納された。制作は、北村西望。アルミニウム製の像。
日蓮聖人像(説法像)_1
日蓮聖人像(説法像)_2
『ブリリンパパの写真館』の中で取り上げられた井の頭公園にある北村西望の快傑日蓮像と比較して見るのも面白いかもしれない。
http://blpapa.blog.fc2.com/blog-date-20120703.html

総門
ただの寺域への入り口に過ぎないと思うが、池上本門寺のWEBサイトではやけに持ち上げた説明がなされている。
第22世日玄聖人代の元禄年間に建立されたと伝えられる。扁額「本門寺」は門より古く、寛永4年(1627)本阿弥光悦の筆になるそうだ。残念ながら扁額に何が書いてあるか見てこなかった。
総門

仁王門(三門)
昔の三門と仁王尊は凄かったが、戦後再建されたものは、それなりのもの。仁王尊は勿論木造であるものの、今の三門は鉄筋コンクリートのもの。建物としては、有難くも何もなさそうだ。こんなものかという感じ。
仁王門(三門)_1
仁王門(三門)_2

大堂(祖師堂)
同様に鉄筋コンクリート製のもの。
大堂(祖師堂)_1
大堂(祖師堂)_2

お会式の様子はいずれ日を改めて取り上げることとする。
以下にパブリックドメインの画像を使用する。
広重

 

池上本門寺(1)

由緒ある建物は戦火によってことごとく灰塵に帰し、文化的な価値あるものは残念ながら殆ど残っていない。国指定の重要文化財は、池上本門寺五重塔、池上本門寺宝塔、木造日蓮聖人坐像 日法彫刻、兄弟抄 日蓮筆のみ。今は偏に信仰の場なんだろう。

池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。 
毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。
そして池上本門寺は「日蓮聖人ご入滅の霊場」として700年余り法灯を護り伝えるとともに、「布教の殿堂」として、さまざまな布教活動を展開しています。


宝塔(日蓮聖人御荼毘所)
確かに大きく派手なものだ。これが宝塔というものかとつくづく見惚れてしまった。
宝塔は、仏塔の建築形式の一つである。形態・形式にかかわらず、仏塔全般を指す美称として宝塔の語を用いる場合もあるが、日本建築史の用語としては、円筒形の塔身に平面方形の屋根をもつ一重塔を指すのだそうだ。
現在のものは、文政11年(1828)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。
宝塔(日蓮聖人御荼毘所)_1
宝塔(日蓮聖人御荼毘所)_2

この地は、当山の重要な浄域の一つで、日蓮聖人御入滅の折の御荼毘所である。『新編武蔵風土記稿』などによると、かつては2間に3間の御灰堂があって、当初、開基檀越の池上宗仲公が宝塔を作り、聖人の御余灰を中に盛って奉安したと伝える。現在は、北側に第33世日謙聖人が天明元年(1781)に造立した石碑の宗祖第五百遠忌報恩塔が建つ。
その霊場に建てられた木造の大宝塔は、棟札(現存せず)抄により、第47世日教聖人代の文政11年(1828)、宗祖五百五十遠忌を目前に、前犬山城主成瀬侯・家老浅野蔀を大本願人とし、飯田町福田長次郎を世話人として再建されたことがわかる。


五重塔
他の建物が空襲でことごとくやられたのに、よくぞ焼失を免れたものだ。国の重要文化財に指定されている。
五重塔_1
五重塔_2

高さ31.8メートル。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立された。全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。1997年(平成9年)10月から2003年(平成14年)3月にかけて国庫補助事業として解体修理が行なわれた。基礎部分の石段からはホンモンジゴケというコケの一種が見つかっている。五重塔下付近、東京国立博物館蔵・池上本門寺経筒(藤原守道作)が出土している。

 

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