散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(7)

宝戒寺(2)

本堂
北条一族鎮魂のための寺なんだなあ。頼朝などはこの時点で完全に過去の人になっていたのだろう。頼朝は、鶴岡八幡宮と島津氏が建てたお墓で偲ぶしか無いのだろう。寂しい話だ。
北条一族鎮魂とどういう関係があるのか不明だが、本尊は、木造地蔵菩薩坐像。1365年(貞治4年)、仏師憲円の作で、国指定の重要文化財。

本堂_1
本堂_2
本堂_3
本堂_4
本堂_5
本堂_6
本堂_7
本堂_8
本堂_9
本堂_10
撮影禁止なので、free画像を借用
本堂内部

境内の様子(2)
德崇大権現堂
鎌倉幕府執権北条高時公を德崇大権現として祀っている。北条高時公が自刃し鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、鎮魂のため、德崇大権現として祀っているご神像を本堂にお迎えし、供養を行うのだそうだ。
北条一族を鎮魂するための寺であるならば、此処はもう少し大きなものにしても良かったのではなかろううか。

德崇大権現堂_1
德崇大権現堂_2
德崇大権現堂_3
大聖歓喜天堂
秘仏である大聖歓喜双身天王(歓喜天・聖天様)を祀っている。木造歓喜天立像は、国指定の重要文化財。
これまた何のために此処に祀ってあるのか、私にはよくわからない。

木造歓喜天立像:秘仏で一般には公開されていない。歓喜天は聖天(しょうでん)とも称し、象頭人身の2神が相抱擁する形に造形される。歓喜天像は一般に小像が多いが、宝戒寺像は像高155cmに及ぶ大作として珍しい。川端康成の妻は自ら聖天信者を名乗り、行者の予言でこの像の存在を知り、ノーベル賞受賞前に足しげく参詣していたという。
大聖歓喜天堂_1
大聖歓喜天堂_2
梵鐘
梵鐘
宝篋印塔
1333年に滅亡した北条氏並びに鎌倉合戦東勝寺戦没諸精霊を供養する慰霊塔
写真を撮り漏らしてしまった。これがあってこその宝戒寺だというのに、なんとも間の抜けた話だ。

以上で『釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺』シリーズは終了です。最後までご覧いただき大変有難うございました。

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(6)

宝戒寺(1)
宝戒寺の門前
『北条執権邸旧蹟』の石碑
寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡
『北条執権邸旧蹟』の石碑
宝戒寺の説明板
後醍醐天皇も寝覚めが良くなかったのだろうか。頼朝が建てさせた永福寺と同様の性格の寺院のようだ。
宝戒寺の説明板
通路の敷石が立派
萩の花が咲く季節には相当きれいなことだろう。八角形の敷石には意味があるのだろうか?…撮り漏らしたのでFREE画像を借用
通路の敷石が立派
山門かな
山門かな

境内の様子(1)
境内に入ってすぐのところにあったモニュメント
『北』の字をデザインしてあるのだろうか。洒落たデザインだ。
境内に入ってすぐのところにあったモニュメント
聖德太子堂
聖德太子を祀る必然性がよくわからないが、ともかくも此処にお堂がある。姿形がとても格好良い。
聖德太子堂_1
聖德太子堂_2
庭にはいくつかの花が
花の寺と言われるだけあって、この寺にも福寿草や蝋梅などの花が咲いていた。福寿草は咲き始めかな?
福寿草_1
福寿草_2
福寿草_3
蝋梅は、見慣れているものより、色味が薄い感じ。違う種類なのだろうか?
蝋梅_1
蝋梅_2
東久邇宮お手植えの柏槇
東久邇宮お手植えの柏槇_1
東久邇宮お手植えの柏槇_2
東久邇宮お手植えの柏槇_3

宝戒寺(ほうかいじ)は、神奈川県鎌倉市にある天台宗の寺院。山号は金龍山。詳名を金龍山釈満院円頓宝戒寺と称し、本尊は地蔵菩薩。萩の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれる。
宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居前の道(横大路)を右に行った突き当りに位置する。寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡と伝える。
『吾妻鏡』によれば、鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺(鎌倉市)で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の1335年(建武2年)3月28日付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行われたと推定されている。
建武2年寄進状から17年後の1352年(観応3年)に作成された足利尊氏寄進状案には、宝戒寺の造営料として上総国武射郡小松村(現千葉県山武市)と、出羽国小田島庄(現山形県東北部)の土地を寄進するとあり、この頃ようやく宝戒寺の造営が本格化したことがわかる。「惟賢灌頂授与記」という文書によると、2世住持の惟賢によって灌頂(密教の重要な儀式の1つ)が宝戒寺で初めて行われたのが1354年(文和3年)であり、この頃にようやく寺観が整ったものと思われる。

 

釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(5)

大江広元、島津忠久、毛利季光の墓
墓が3つ並んでいる。左から、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓だ。写真を丹念に見てもらえばわかると思うが、大江広元の墓と彼の四男の毛利季光の墓とは行き来が自由にできるが、島津忠久の墓はそういうわけにはいかない。階段も別である。下まで降りて登り直すのも業腹だから、蟹の横歩きをしたが、ちょっと冷たい扱いのように思えた。階段の下まで行くと、大江広元の墓と毛利季光の墓とに行くための階段には鳥居があり、島津忠久の墓に行くための階段には鳥居がない。毛利と島津とは仲が良くなかったのだろうか。
そう考えたのだが、これらの墓はすべて島津家が建造したようだ。相手を立てるそういう家風だったのかもしれない。
3つの墓の集合写真
かろうじて、3つの墓が写っている。これ以上は下がることができない。
3つの墓の集合写真
大江広元の墓
亀趺(キフ)というらしい。時々見かけるが、格式が高い墓にしかないものなのだろう。
大江広元の墓_1
大江広元の墓_2
大江広元は、源頼朝の政務の側近として「政所別当(長官)」を務めた人物。この墓は、1823年(文政6年)、長州藩によって建てられたもの。十二所にも大江広元のものと伝わる墓がある。 
毛利季光の墓
毛利季光の墓_1
毛利季光の墓_2
大江広元の四男季光は、愛甲郡毛利庄を相続しして「毛利氏」を名乗った。1247年(宝治元年)の宝治合戦で毛利氏はほとんど滅んでしまうが、季光の四男経光の家系が後世にのこり、戦国時代に中国地方を統一した毛利元就の祖となった。
島津忠久の墓
毛利家側にはあった亀趺が島津家側にはなかった。敢えて横並びにしなかったのは、考え方の相違によるものなのだろうか。
島津忠久の墓
島津忠久は、九州島津氏の祖で、源頼朝の子ではないかとされているが定かではない。江戸時代には、島津藩主や家臣が墓参したという。現在の墓は、1779年(安永8年)に修造されたもの。源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したといわれている。
島津忠久の墓の端から見た様子
邪魔が入り、向こう側との行き来ができない
島津忠久の墓の端から見た様子
島津忠久の肖像画…FREE画像を借用
島津忠久の肖像画
階段も別々
『島津家の人達は怒らないのだろうか』と思ったが、この墓を作ったのは島津家だったようだ。大大名になっても、頭を低くしていたのだろうか。
階段も別々_1
階段も別々_2
階段も別々_3
北条義時法華堂跡
先ほどの崖の上から見えた平場。ここで三浦一族と共に島津忠久と毛利季光とが自刃したのか。この一角には、三浦一族のやぐらもあるようだ。wikipediaには、島津忠久は『安貞元年(1227年)6月18日の辰の刻、脚気と赤痢により死去(『吾妻鏡』)』と書かれている。
平成17年、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘された。調査の結果、1辺が8.4メートルの正方形の三間堂であったと推測されている。
義時の法華堂は、遺言によって建立されたとされ、『吾妻鏡』には、「故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記載されている。故右大将家とは源頼朝のこと。

北条義時法華堂跡_1
北条義時法華堂跡_2
北条義時法華堂跡_3
北条義時法華堂跡_4
大蔵幕府の方へ下りる階段
大蔵幕府の方へ下りる階段

室町、江戸を生き抜き、明治維新を成し遂げた薩長の祖が並んで眠る場所
鎌倉幕府の基盤整備に多大な貢献を果たした貴族、大江広元の墓と伝わるやぐらがあります。階段を登るとまず大きな平場があり、ここは北条義時の墓があったといわれる場所です。平場の左手には北条氏によって滅ぼされた三浦泰村一族の墓があります。
平場の奥、鳥居をくぐって急勾配の階段を登るとやぐらが3つ並んでいます。左から、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓となっています。
大江広元は、兄である中原親能が源頼朝と親交があり早くから頼朝の臣下となった縁で京都より招かれました。
頼朝の右腕として活躍し、幕府制度の基盤整備や京男たちが渦巻く朝廷との交渉などに活躍しました。頼朝没後も北条氏を中心とする数多くの政変を巧みに避け、1148年に生まれ1225年に没するまで77歳という長寿を全うしました。
広元の墓と並んで右に島津忠久の墓もあります。島津氏の祖といわれる人物です。母は源頼朝の側室、比企能員の妹、丹後局。このことは頼朝の落胤であるという言い伝えが生まれる根拠になっていますが、この伝説は現在では真実ではないとされています。
大江広元の左隣に眠る毛利季光は大江広元の子。毛利元就を生んだ毛利氏の祖です。島津、毛利、明治維新を成し遂げる薩長の祖が並んで眠る場所でもあります。

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源頼朝の墓所の右奥の山腹に玉垣に囲まれて3つのやぐらの墓がある。真ん中に鎌倉幕府の要職を務めた大江広元の墓がある。左右には北条対三浦の戦い(宝治合戦)に、三浦に与して法華堂で三浦一族と共に自刃した島津忠久と毛利季光(大江広元の四男)の墓がある。島津も毛利も後にも手を結んで行く事になった。島津忠久は薩摩藩主・島津氏の祖である。比企義員の娘・丹後局(頼朝の愛妾とも言われた)が生んだといわれている。したがって、島津家の系譜も忠久を「頼朝の庶子」としている。墓の下方に三浦一族の墓もある。
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亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものである。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされる。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」である。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされるが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」意味に使われるようになった。

 

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