散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

再び浦賀を歩く(5)

マリーナのレストランで昼食
お昼だったし、十分撮らせていただいた感謝の気持もあったので、此処で昼食を食べた。美味しかったし、たまたま同行させていただいた方との話も楽しく、贅沢な時間を過ごせた。
マリーナのレストランで昼食_1
マリーナのレストランで昼食_2
マリーナのレストランで昼食_3
燈明堂
向かう道筋で
レストランでたっぷり休憩を取り、元気回復。道端にはまたもや八重咲きの日本水仙が。
向かう道筋で_1
こちらも彩りが綺麗だなと思って撮ってみた。アオキの実かな。
向かう道筋で_2
燈明堂
燈明堂_1
燈明堂_2
燈明堂_3
天正18年(1590年)の、徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた。
慶安元年(1648年)、江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した。燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた。当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている。建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが、元禄5年(1692年)以降は浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出するようになった。
海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた。

燈明堂から浦賀方面を望む
浦賀湾は天然の良港のようだ。江戸時代から盛んに利用されていたのも首肯できる。
浦賀方面を望む_1
左側が川間ドック跡になる。浦賀ドックとは目と鼻の先で壮烈な受注競争を展開していたようだ。
浦賀方面を望む_2

以上で、『再び浦賀を歩く』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

再び浦賀を歩く(4)

川間ドック跡
この川間ドックは、浦賀船渠の設立とほぼ同時期に東京石川島造船所が浦賀分工場として設立した施設。激しい受注合戦の展開がおき、それに伴う経営の悪化で共倒れが懸念される状況に陥った。その後、浦賀船渠が買収し、以後、同社の川間分工場になった経緯がある。
この経緯は、田町にあった千代田瓦斯と浜松町にあった東京瓦斯との関係に似ているかもしれない。
世界に4カ所しか現存していないとうレンガ積みドライドックの内の一つで、そのうちの2カ所が日本国内にあり、いずれも明治期に造られた横須賀市内の浦賀ドックとこの川間ドック跡とである。

マリーナに買収されて、水を入れた状態になっている
入渠及び出渠するときは、水がある状態にするが、その他の時は、水が抜かれた状態で作業を行う。だからこそのドライドックなのだが。大型船などがなかった明治半ばの構築物だが、それなりに大きなものだ。
川間ドック跡_1
川間ドック跡_2
川間ドック跡_3
川間ドック跡_4
川間ドック跡_5
川間ドック跡_6
川間ドック跡_7
川間ドック跡_8
川間ドック跡_9
川間ドック跡_10
レンガ積みのドライドックだということが一番わかるショット
川間ドック跡_11
川間ドック跡_12
川間ドック跡_13
マリーナ
優雅なマリン・ライフを楽しんでいる人も少なからずいるんだなあ
マリーナ_1
マリーナ_2

(株)東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治二十八年(1895)十月に浦賀分工場として建設に着手し、同三十一年に営業を開始しました。同三十五年には浦賀船渠(株)が買収し、以後、同社の川間分工場になりました。
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1894年(明治27年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。

川間ドックとを取り上げた記事(1)へjump
川間ドックとを取り上げた記事(2)へjump

 

再び浦賀を歩く(3)

西浦賀の蔵など
関東大震災の被害をトタン板で巻いたりして、少し寂れてしまった感じが否めない
西浦賀の蔵など_1
西浦賀の蔵など_2
西浦賀の蔵など_3
西浦賀の蔵など_4
UFOパプリカ
民家の軒にあったUFOパプリカ。味は普通のパプリカと変わらないようだが、形が何ともユニークだ。
UFOパプリカ

湾口近くの桟橋に出てみた
手前側には割と大型の船舶
手前側には割と大型の船舶_2
手前側には割と大型の船舶_3
対岸には東叶神社や明神山などが
対岸には東叶神社や明神山などが
手前側も対岸側も共に見える
対岸まで泳いでいけそう。そう思うくらい幅は狭い感じ。
手前側も対岸側も共に見える

陸軍桟橋など
陸軍桟橋はL字型のごく小さな桟橋。これで、多数の引揚者を運んできたとは、意外なほどだ。太平洋戦争終了後、南方や中国大陸からの引き揚げ者約56万人が、懐かしい日本の地に第一歩を印したところだ。確かにその通りなのだが、引揚船内でのコレラの大発生などで、無念なことに祖国を目の前にして、あるいは、上陸を果たしたものの、命を落とす人が多数居た。
今はそんなことも知らずにのんびり、釣り糸を垂れているお気楽人が少なくないようだ。

陸軍桟橋など_1
陸軍桟橋など_2
昔は此処に船番所があり、少し奥まったところに浦賀奉行所があった。この模型のあるところが午前中休館だったので、前回撮影分を使用する。
船番所
浦賀奉行所
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。

 

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