散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

またもや日本民家園に行ってきた(14) 2016.08.25 05:28訂正

何の花かなあ
ウコンの花だろうか。自信なしだなあ。ニョキッと花茎を伸ばしたユリ科のオオバギボウシだそうです。makiraさんに教えていただきました。花のように可憐できれいですが、コレは花茎の先端部で花ではないそうです。花はもっと花茎を伸ばしてからになるそうです。
何の花かなあ_1
何の花かなあ_2

(21)菅の船頭小屋 (市重歴)
昔は簡単に橋を渡すことなどは許されなかったのだろうか。この船頭小屋は昭和4年の建物だとか。古くから始まり、つい最近まで、多摩川にもこの『菅の渡し』のような渡しがいくつもあったようだ。童謡の歌詞によれば、『今年60のお爺さん』が船頭さんだった。数えの60で早くもお爺さん扱いか。私などはヨボヨボの爺さん扱いになってしまうんだ。
菅の船頭小屋 (市重歴)_1
鉄輪が下がっているのがおわかりだろうか。大水が出たりすると、急ぎ安全なところまで丸太を通し担いで避難したのだ。
菅の船頭小屋 (市重歴)_2
船頭小屋を担ぐイラスト
菅の船頭小屋 (市重歴)_3
内部はこんなふう。本格的な囲炉裏があるわけもなく、ちょいと地面を掘っただけの簡単なものだった。
菅の船頭小屋 (市重歴)_3

多摩川の「菅の渡し」にあった船頭小屋
この船頭小屋は多摩川の「菅(すげ)の渡し場」にあったもので、船頭が客待ち・休憩・川の見張りをするのに用いていました。
菅の渡しは、川崎側の菅と、東京側の調布とを結ぶ渡船場で、商品作物の輸送、肥料や日用品の仕入れ、親戚や寺への往来など、暮らしの中で使われていました。
この建物の屋根は杉皮葺きで、前後に傾斜させた「招き屋根」の形をしています。背面には小さな窓があり、対岸の客を見ることができるようになっていました。
なお、外回りの柱には大きな鉄の輪が取り付けられています。出水のさいにはこの輪に丸太を通して担ぎ上げ、小屋を移動させました。


(18)蚕影山祠堂(市重歴)
川崎市麻生区辺りでも近年まで養蚕が行われていたんだ。そういえば、世田谷区の民家園でも養蚕が行われていたと説明がなされていたなあ。
覆堂(さやどう)
覆堂(さやどう)
宮殿(くうでん)
宮殿(くうでん)
金色姫伝説を表現した側面の彫刻
金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されている。
『獅子』の場面かな?
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_1
「鷹」の場面
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_3
「舟」の場面
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_2
金色姫伝説を表現した側面の彫刻_4
芝棟にはイチハツが植えられている
5月には早くも開花する。その頃は非常に綺麗なことだろう。
芝棟にはイチハツが

養蚕信仰を今に伝えるお堂
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。覆堂の茅葺屋根は、頂上を土と草で固める芝棟で、春にはイチハツが咲き誇ります。宮殿は正面に唐破風を設けた春日造風の社で、浮き彫りの彫刻を施しているのが特徴です。中でも注目に値するのは、金色姫伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。


 

秋の日本民家園(18)

20.船越の舞台
何度見ても驚くものだと思う。最後の最後にこの舞台に至る上り坂は長く急勾配で、見に行く気を萎えさせかねないほどだ。でも、我慢していってみると、見事な舞台が眼前に。
船越の舞台の断面図
船越の舞台の断面図
舞台の真裏
舞台の真裏
奈落への入り口
奈落への入り口
正面に見えるのが回り舞台を回す仕掛け
正面に見えるのが回り舞台を回す仕掛け
垂れ下がっている棒を人が掴んで回した。イラスト通りだとすると、棒は4本だが、薄暗くて勘定し損ねた。
垂れ下がっている棒を人が掴んで回した
随分頑丈に作ったようだ
随分頑丈に作ったようだ
回り舞台の断面図
回り舞台の断面図
舞台正面側
舞台正面側_1
舞台正面側_2
舞台のクローズアップ
時々公演をする都合があるのか、照明用のランプが見える。その昔は、夜間の公演に際しては、ロウソクを使ったのだろうか。西洋でも、バロック時代の大作曲家たちは、演奏会の照明用にろうそくを使った。そのロウソク代を工面するのが大変な仕事だったと聞いている。日本ではどうだったのだろうか?薪能みたいなことをしたのだろうか?
舞台のクローズアップ_1
舞台のクローズアップ_2
舞台のクローズアップ_3

重要有形民俗文化財
 建物区分:歌舞伎舞台
 構造形式:正面入母屋造、背面切妻造、桟瓦葺、一部二階、桁行9.1m,梁行10.8m/側面出語付、桟瓦葺/背面庇付、桟瓦葺、桁行10.8m、梁行2.7m/側面楽屋付、切妻造、桟瓦葺、桁行5.3m、梁行7.3m
 建築年代:安政四年(1857)、墨書
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回り舞台を備えた漁村の歌舞伎舞台
この舞台は、もと志摩半島の漁村の神社境内にありました。建てられたのは江戸時代末期の安政四年(1857年)です。
屋根は正面が入母屋造、大棟(おおむね)には凝った鬼瓦を配しています。これに対し背面は切妻造で、鬼瓦も小さく単純です。こうした外観は、正面性を重視する舞台建築の性格をよくあらわしています。なお、鬼瓦や軒先瓦につく「若」の字は、舞台建築に若者組という伝統的青年組織が関わったことを記念するものです。
舞台両側の張出し部は出語りといい、上手(正面に向かって右側)は芝居の語り手の席、下手は寄付金を扱う会計係の席です。
舞台装置としては、直径三間(5.4m)の回り舞台、スッポン(せり上がり)のある花道、高所作業用の簀子(すのこ)等、歌舞伎芝居のために必要なものはほとんど備えています。
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見どころポイント!
 瓦の「若」の文字は、舞台の建築に若者組が関わったことを示しています。
 建物地下の奈落(ならく)は、回り舞台を回すための空間です。


付け足し
紅葉の様子
紅葉の様子_1
紅葉の様子_2
紅葉の様子_3


かなり長くなってしまいましたが、以上で『秋の日本民家園』シリーズは終了です。最後までお付き合いいただき、大変有難うございました。

 

秋の日本民家園(17)

18.蚕影山祠堂(こかげさんしどう)
前回は工事中で全く様子を窺い知ることができなかった。興味津々見たのだが、想像以上に格好が良かった。
正面から見た様子
見えているのは覆堂(さやどう)に当たる部分。覆堂といえば、横浜市の三渓園に国指定重要文化財の『旧天瑞寺寿塔覆堂』がある。向こうは、豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物なので敵うはずもないのだが、こちらもなかなかの威風を誇る。
正面から見た様子
覆堂内部の様子
覆堂の厳しさではなく、こちらこそ、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)で、意味あるもの。徒や疎かに考えてはいけないのだろう
覆堂内部の様子
「鷹」の場面の彫刻のイラスト
「鷹」の場面の彫刻のイラスト
「舟」の場面の彫刻のイラスト
「舟」の場面の彫刻のイラスト
側面から見た様子
小さいながら芝棟がしつらえてあり、イチハツが植えられていた。
側面から見た様子

川崎市重要歴史記念物
 旧所在地:神奈川県川崎市麻生区岡上 東光院内
 建物区分:宮殿および覆堂
 覆堂=正面入母屋造、背面寄棟造、茅葺、桁行4.6m、梁行2.7m
 建築年代:文久三年(1863)、宮殿棟札
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養蚕信仰を今に伝えるお堂
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕(ようさん)の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。覆堂の茅葺屋根は、頂上を土と草で固める芝棟(しばむね)で、春にはイチハツが咲き誇ります。宮殿は正面に唐破風(からはふ)を設けた春日造風の社で、浮き彫りの彫刻を施しているのが特徴です。
中でも注目に値するのは、金色姫(こんじきひめ)伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺(てんじく、現在のインド)に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この 彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。
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見どころポイント!
 内部の宮殿の両側面には養蚕の神様である金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されています。
 屋根にはイチハツという花が植えてあり、5月には花が咲きます。


19.岩澤家住宅
岩澤家住宅があった清川村は、神奈川県の北部に位置する県内で唯一の村。県内の市町村では最も人口が少ない。宮ヶ瀬ダムのある村で、現在は結構観光でも有名なようだが、昔は本当に山奥の谷あいの村の辺鄙な農村だったことだろう。昔は、炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていたというから、相当に生活が厳しかったのではなかろうかと思う。名主の家でも、他の名主の家ほど贅を尽くせなかったのではないかと思うのだが、見た感じは同じようにみえる。もしかしたら、林業で栄えていたのだろうか?
外観
茅葺屋根が撓んでいるように見えて、気になって仕方ないのだが、大丈夫なのだろうか。どうも支えの竹が折れているようだ。豪雪に耐える仕様になっていないようで、ドカ雪でやられたのかもしれない。
大戸口の右側は竹で外側を覆っているようだ。あまり見たことがないものだ。土壁に縦方向の竹を貼ってあるとのこと。

外観
家屋内部の様子
岩澤家住宅の間取り図
岩澤家住宅の間取り図
ダイドコロ
ダイドコロ_1
右手に鎮座するのは、「ホイロ」というお茶作りに使う道具。木枠の底に和紙を張り、火鉢などにかざして海苔・茶などを乾燥させる道具とのこと。手もみの茶を作るのに使ったのだろうか。
ダイドコロ_2
ザシキ
ザシキ
デエとヘヤ
床の間の前身といわれる押板とは、『ヘヤ』の表示の右手のことを言うのだろうか?少し引っ込んだスペースになっていたか、記憶に無い。(^_^;)
デエとヘヤ

神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷
 建物区分:農家(名主の家)
 構造形式:入母屋造、茅葺、桁行14.5m、梁行7.3m
 建築年代:17世紀末期
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茶畑に囲まれた山間の農家
この建物は、名主もつとめた農家の家でした。谷間の斜面に敷地をひらき、江戸時代は炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていました。
屋根は、典型的な入母屋造(いりもやづくり)です。間取りは、「ザシキ(居間)」「デエ(座敷)」「ヘヤ(寝室)」からなる広間型三間取りです。しかし、園内に移築された他の神奈川県内の古民家には見られない特徴がいくつかあります。まず、デエの正面を半間後退させ、ここにザシキへの出入口を設けています。また、デエには押板(おしいた、床の間の前身)を備え、ヘヤにはザシキからだけでなくデエからも出入りできるようになっています。
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見どころポイント!
 デエにある押板は床の間の前身といわれ、古い家の特徴の一つです。
 入口右手の道具は「ホイロ」といい、お茶作りに使います。

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岩澤家住宅の旧所在地は丹沢山塊東麓の山あいの地、神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷である。相模川の支流・小鮎川の段丘上に立地し、名主も勤めた家柄という。現在の主屋の建立年時を示す資料はないが、17世紀末頃と推定されている。屋根は移築前は寄棟造だったが、入母屋造に復原されている。
間取りは神奈川の古民家の主流である広間型3間取で、土間(ダイドコロ)と床上3室からなる。生活の中心であるザシキは桁行2.5間が通例だが、当家は3間で、これは上層農家の格式を示すものである。ザシキの前面2間を格子窓とするのはこの時代の関東の古民家に共通する。デエは客座敷だが、床の間はなく、かわりにヘヤとの境に押板を設ける。県内の古民家では、押板はザシキとヘヤ境のザシキ側に付けられるのが通例だから、この形式は特異である。また土間の妻側に格子窓を設けるのも類例が少ない。主屋表側の外壁はデエの部分だけ半間後退させ、上屋柱筋に建具を入れている。こうした構えは、この半間幅の下屋を客座敷の玄関として扱ったことによるらしい。正面上部の2間とばしの枕梁に製材した木を用い、しかもそれを虹梁に似せたり、あるいはこの枕梁の中央に乗る下屋の繋梁を同じく虹梁型にするのも、客座敷の出入口の格式付けのためだったのだろう。ただ、出入口の装置として不可欠な式台や縁の痕跡は発見されなかったので、座敷から直接外に出る形に復原されているが、おそらく低い置縁のようなものが据えられていたのではないかと思われる。このデエも含め、天井はすべて竹簀子天井で素朴である。
四周の半間幅を下屋とする構造だが、県下に一般的な四方下屋造とは異なっている。通常の四方下屋造ではやはり四周の半間幅を下屋とするものの、上屋柱の立つ位置は下屋柱筋より1間内側である。これに対し、岩澤家では下屋柱筋より半間内側に上屋柱を立てるから、上屋・下屋の違いがきわめて明瞭である。こうした構造は東北地方などに多くみられるが、県内では津久井郡や愛甲郡北部にわずかにみられる古式の構造で、四方下屋造の祖形と考えられている。また、柱がすべて手斧仕上というのも、この時期の民家としては古めかしい。
梁は太く、梁組は豪快だが、虫害等による再用不能の材も多く、移築修理時にかなりの梁が新材に置き換えられている。そのうちザシキ上部の2本の梁行梁は当初材で、一本の木を半割にして使用している。小屋組は通常の扠首構造で、棟束は両妻側から9尺入った位置に2本だけ立てている。
土間周りとヘヤの、外に面する壁は土壁だが、他の外壁は板壁という使い分けも珍しい。土間周りも上部小壁は板壁である。間仕切も同じく板壁である。
以上のように、岩澤家住宅は神奈川の他の地域にはみられないいくつかの特色を有し、また四方下屋造というきわめて整備された構造が形成されてゆく過程を知るうえでも大変貴重な遺構である。

 

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