散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(6)

芝東照宮
ずっと安国殿が端の方にあったので気になっていたのだが、下記のような経緯があったのか。黒本尊は大殿の真後ろにあったようで、そう考えれば、安国殿の位置も納得できる。
以前の東照宮の建物を見てみたかったが、皆戦災でやられてしまったようである。現在の社殿は非常に可愛らしいものだ。

芝東照宮_1
芝東照宮_2
芝東照宮_3
芝東照宮(しばとうしょうぐう)は、東京都港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。
芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。
その後、3代将軍家光により寛永10年(1633年)に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となった。寛永18年(1641年)には移転改築がなされた。駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整った。
明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。明治6年(1873年)郷社に列した。本殿は大正4年(1915年)、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定された。しかし、昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。


芝丸山古墳
丸山貝塚
丸山貝塚_1
丸山貝塚_2
反対側の平地には石蕗がたくさん咲いていた
石蕗がたくさん咲いていた
中段の踊り場状の広場に進む
中段の踊り場状の広場に進む_1
中段の踊り場状の広場に進む_2
中段の踊り場状の広場に進む_3
円山随身稲荷大明神
円山随身稲荷大明神_1
円山随身稲荷大明神_2
古墳の表示
確かに古墳の表示はあるのだが、もこもこと膨らみのようなものが古墳なのだろうか。樹木が邪魔をして、全体像がわかりにくい。
古墳の表示_1
古墳の表示_2
前方部
前方部というが本当に方形になっているのか、よくわからなかった。とりあえず、前方部の墳丘への階段を上る。
前方部の墳丘への階段
前方部の墳丘上にある虎の像
前方部の墳丘上にある虎の像_1
前方部の墳丘上にある虎の像_2
大野伴睦の句碑
虎の像の台座部分に、花崗岩と思しき石の板に「鐘がなる春あけぼのゝ増上寺」とあった。それは辛うじて読むことができたのだが、句の前と後ろとにも何か書いてあるようだった。こんな見難いままに放置してあるところを見ると、大した価値はないのだろうと、勝手に判断した。
よくよく見ると前の文字は『万木』らしい。伴睦の雅号かな。

大野伴睦の句碑
後円部への道
くびれ部には先ほど見た円山随身稲荷大明神が鎮座している。どうにも古墳の上を歩くのには抵抗があるのだが、そこを通らないことには先に行けないので致し方無い。
後円部への道
後円部
こちらは確かに上の部分も円形だった
こちらは確かに上の部分も円形だった
『瓢形大古墳』の表示
確かに前方後円墳というよりも瓢単形に見える。学者先生も私と同じように認識したようだ。
坪井正五郎の標識の石があるが、文字は風化して読み取りにくい。「瓢形大古墳、外部遺物・埴輪、石槨・無シ、遺体・不詳、副葬品・鏃其他鉄器・馬歯」と記されている。
『瓢形大古墳』の表示
『伊能忠敬測地遺功表』
明治22年に伊能忠敬の功績を顕彰して東京地学協会が建てたが、戦災で失われ、昭和40年に再建された。
『伊能忠敬測地遺功表』_1
『伊能忠敬測地遺功表』_2
『伊能忠敬測地遺功表』_3

赤羽橋に出るべく前方部側に戻って、階段を降りた。

芝公園のテニスコートがあった。首都高の出入口脇にある。
芝公園のテニスコート_1
芝公園のテニスコート_2
案外急な階段だ
案外急な階段だ

妙定院
赤羽橋から自宅へバスで帰るべく歩いていた時に、妙定院の前を通りかかった。何やら非常に立派な佇まい。通りから見えた熊野堂もほんとうに美しい感じ。特別公開を実施中だったのだが、帰宅を急いでいたので、今回は内部拝観はパスした。いずれかの機会に行ってみたいものだ。
寺社建立厳禁の当時に、官許により家重公の霊牌所として、一宇が創建されたとは、本当に凄いことだ。

高僧の誉れの高かった定月大僧正(1688~1771)が増上寺第四十六世住職であった宝暦十一年(1761)六月十二日、九代将軍家重公が薨去。幕府は遺言に従い、将軍の帰依信仰が篤かった定月大僧正に大導師を依頼、七月十日増上寺本堂において葬儀が盛大に厳修されました。この徳により、宝暦十三年(1763)十一月、家重公(惇信院殿)の御中陰の尊牌(白木の位牌)をお守りするため、寺社建立厳禁の当時に、官許により家重公の霊牌所として、一宇が創建されたのでした。
定月大僧正は明和三年(1766)十一月、増上寺住職を辞職、麻布一本松の隠居所に移られましたが、さらに明和七年(1770)十一月、山下谷に移られ、幕府より二百石を賜り、さらに翌年十一月、御本丸大奥老女方より、惇信院殿霊廟永代御供養料・仏具荘厳・水引・打敷・御膳具・御供養具などの寄進を受け、惇信院殿霊廟御念持仏も移されたのでした。こうして、定月大僧正は名実ともに妙定院の開山となられたのです。
その後、十代将軍家治公(浚明院殿)の尊牌も安置されました。
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熊野堂と浄土蔵(国の登録有形文化財)
土蔵造りの熊野堂は寛政八年(一七九六)に妙定院の鎮守として建立されました。熊野三社大権現を本尊としています。上土蔵は文化八年(一八一一)建立で、妙定院の収蔵品を守り続けてきました。
二棟は戦災を免れ、創建期以来の江戸の記憶を伝える建造物として、平成十三年に国の登録有形文化財となりました。近代工法では再現できない技法と意匠を伝承するものと評価されています。
熊野堂は開山定月上人から、第二世仰願上人、第三世宝観上人へと建立の願いが連綿と受け継がれた瞑想空間として、昔口の姿に復元されました。
また上土蔵は妙定院古記録より判明した意匠を採用するとともに、第十三世貞賢上人ゆかりの昭和本堂の建築彫刻と須弥壇を内部に移設しました。「浄土蔵」と新たに命名され、伝来の仏像・彫刻を展示する空問として再生されています。

妙定院_1
妙定院_2
妙定院_3
妙定院_4

東京タワー
色々なところからタワーがよく見える。今でもお好きな方は数多くいるようだ。
東京タワー_1
東京タワー_2
東京タワー_3

以上で『増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー』のシリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(5)

徳川家墓所(3)
旧霊廟で増上寺にあったもの
徳川秀忠(1579年 - 1632年、家康の三男)増上寺 台徳院霊廟…増上寺の南側
現存する建築物
1-1)台徳院霊廟 惣門 [国指定重要文化財]
建立当初は現在地より西寄りにあり、1959年に45メートル東方へ曳家された。入母屋造八脚門で、全体を朱塗とし、装飾的要素のない簡素な門である。徳川家霊廟では、奥にある建物ほど華美な装飾が施されるようになっていた。門内に安置する金剛力士(仁王)像は、もと埼玉県川口市の西福寺にあったもので、1948年に浅草寺に譲渡され、さらに1958年頃に現在の惣門に移された。
これでも装飾性が低いのかなあ
台徳院霊廟 惣門_1
台徳院霊廟 惣門_2
金剛力士像は元々は別の寺のものだったのか。堤さんがそうしたのだろうか?
台徳院霊廟 惣門_3
台徳院霊廟 惣門_4
台徳院霊廟 惣門_5
惣門跡と水路跡
惣門跡
水路跡
以下の3棟は、ホテル建設に際し、埼玉県所沢市の狭山不動尊(西武ドーム前)に移築されている。これらの画像の撮影は出向く機会がなく未済。
1-2)勅額門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。切妻造四脚門。
1-3)丁子門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。一間平唐門で、北隣の崇源院(秀忠夫人)霊牌所への通用門であった。
1-4)御成門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。切妻造妻入で、桁行2間、梁間1間とする。切妻造で妻入(屋根の破風のある側を入口とする)の門は珍しい。内部天井は格天井の中央部を円形の鏡天井とし天人像を描くことから、この門には「天人門」の別称がある。
注)この御成門は、旧台徳院霊廟(増上寺の南側で、江戸城からは遠い位置になる)の御成門であり、将軍が増上寺に入るときに使用した御成門は、これとは別のものと思われる。
焼失した建物で写真等が残っているもの
1-5)左右の水盤
左右の水盤
1-6)奥院中門・玉垣・宝塔覆屋
奥院中門・玉垣・宝塔覆屋

徳川家宣(1662年 - 1712年、家光の三男甲府城主綱重の長男)増上寺 文昭院霊廟…増上寺の北側
 (12代将軍家慶(慎徳院)・14代将軍家茂(昭徳院)・14代将軍家茂正室(静寛院)合祀)
現存する建築物
2-1)旧文昭院霊廟奥院中門
現在の増上寺徳川家墓所入口にある鋳抜門がそれである。残念だが、それ以外には現存するものは残っていない。
旧文昭院霊廟奥院中門
焼失した建物で写真等が残っているもの
2-2)文昭院霊廟勅額門
文昭院霊廟勅額門_表側
文昭院霊廟勅額門(フェリーチェ・ベアト撮影)
2-3) 文昭院霊廟中門(フェリーチェ・ベアト撮影)
文昭院霊廟中門(フェリーチェ・ベアト撮影)
2-4)文昭院霊廟水盤舎(フェリーチェ・ベアト撮影)
文昭院霊廟水盤舎(フェリーチェ・ベアト撮影)

徳川家継(1709年 - 1716年、家宣の四男)増上寺 有章院霊廟…増上寺の北側
 (9代将軍家重(惇信院)合祀)
現存する建築物
3-1)現存する有章院霊廟 二天門 [国指定重要文化財]
門の両脇には、広目天と多聞天が祀られているため二天門と言われます。北廟には、文昭院(6代家宣の法号)の霊廟もあり、その門には、持国天と増長天が祀られていて、2門あわせて仏法を守護する四天王が祀られていました。左が西方を守護する広目天、右が北方を守護する多聞天(別名毘沙門天)です。
柵で仕切られていて、それ以上に近づくことはできない。塗装は随所が剥げ落ち老朽化が激しい。いやしくも黄に指定の重要文化財なのだから、もう少し補修を積極的に行って、取り返しがつかない結果に陥らないようにすべきと思った。四天王を形成するための文昭院霊廟の二天門は残念ながら焼失してしまったようだ。
有章院霊廟二天門_1
有章院霊廟二天門_2
有章院霊廟二天門_3
有章院霊廟二天門_4
有章院霊廟二天門_5
有章院霊廟二天門_6
焼失した建物で写真等が残っているもの
3-2)有章院霊廟
Bjh34_Burial_Taikuns.jpg
747px-Farsari_Shiba.jpg

1720年(享保5年)、吉宗が御霊屋建立禁止令を出した。それ以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か霊牌所が建立されたそうだ。

御成門
狭山不動尊に移築された国指定重要文化財の『御成門』とは別物。姿形がまるで違う。あちらは、台徳院霊廟の御成門であり、ここで取り上げる『御成門』は、増上寺の裏門であった御成門である。
裏門の位置づけだったが、将軍が参詣する際に使用されたので『御成門』と呼ばれるようになった。この門は、初めは現在の御成門交差点のところにあったが、明治25年、現在の日比谷通りが建設された際に、現在地に移転された。
関東大震災や戦災をくぐりぬけた貴重な建物。その割には、かなり傷みが激しく、何らかの文化財に指定して、きちんと補修をしたら良いのにと思う。

御成門_1
御成門_2
御成門_3
寄りかかったら倒壊しそうだった
御成門_4
このいい加減な表示は何を意味するのだろうか
御成門_5
御成門_6

 

増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(4)

徳川家墓所(2)
現在の徳川家墓所(2)
現在の徳川家墓所の宝塔の位置図
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)
青銅製
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)_1
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)_2
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)_3
パネル写真から
パネル写真から_6_1
パネル写真から_6_2
パネル写真から_6_3
7代家継(有章院)
石塔。家継は夭折したため、正室はいない。婚約者は八十宮吉子内親王だった。
7代家継(有章院)_1
7代家継(有章院)_2
パネル写真から
パネル写真から_7

吉宗が御霊屋建立禁止令を出した。このことにより、以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か霊牌所が建立された。ということで、以下の将軍は、独自の霊廟を持たない。

9代家重(惇徳院)
石塔。家重の正室であった増子女王は家重の将軍就任前に薨じたため、御台所とは称されていないそうで、寛永寺に葬られているとのことだ。
9代家重(惇徳院)_1
9代家重(惇徳院)_2
12代家慶(慎徳院)
石塔。家慶の正室喬子女王は寛永寺に葬られているとのことだ。
12代家慶(慎徳院)_1
12代家慶(慎徳院)_2

14代家茂(昭徳院)
石塔
14代家茂(昭徳院)_1
14代家茂(昭徳院)_2
家茂夫人和宮(静寛院)
青銅製。彼女だけは特別扱いなんだなあ。皇室に敬意を表したということなのだろうか。11代家斉の正室・広大院、13代家定の最初の正室・天親院などは、合祀塔に入っている。それからすれば、破格の扱いだ。
家茂夫人和宮(静寛院)_1
家茂夫人和宮(静寛院)_2

合祀塔
石塔。家宣の父・綱重(清揚院)、5代綱吉の生母・桂昌院、11代家斉の正室・広大院、13代家定の最初の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院・殊妙院。
その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されている。合祀以前はそれぞれ宝塔・墓が独立していた。現在の合祀塔は、もとは月光院に在った。

合祀塔_1
合祀塔_2

 

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