散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(9)

浦賀船渠
今回(追加往訪日)は外から覗くだけだったが、ときどき探訪ツアーがあるようだ。そういう機会に内部を見学に行きたいものだ。
『浦賀ドック』として横須賀市民には馴染みの会社だった。殆どの人が船渠(せんきょ)という社名だとは知らなかったのではなかろうか。前身は、幕府の浦賀造船所で、同じ場所において1897年(明治30年)に設立された。その後変遷があり、浦賀工場自体は2003年に閉鎖された。その間、一貫して地域経済の協力な牽引役を果たしてきた。
在りし日の浦賀ドック
外から見た浦賀ドックの様子_1
浦賀造船所の外壁も一部は煉瓦造り
ドックと同じフランス積みという積み方。構内にそのまま残る昭和20年製造のクレーン。
外から見た浦賀ドックの様子_2
外から見た浦賀ドックの様子_3
外から見た浦賀ドックの様子_4
外から見た浦賀ドックの様子_5
外から見た浦賀ドックの様子_6
外から見た浦賀ドックの様子_7
外から見た浦賀ドックの様子_8
外から見た浦賀ドックの様子_9
外から見た浦賀ドックの様子_10
川間ドック跡
多分、川間ドック跡だと思う。きちんと撮っておくんだった。マリーナレストランの駐車場からよく見えるようだ。
川間ドックはかつては石川島が浦賀分工場として開設したもの。その後、浦賀船渠に買収された。wikipediaには、
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつである。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
と記載されている。なんでこの部分ギリギリまでマリーナに売ってしまったのだろうか。
米軍横須賀基地内にあるドライドックは違うのかなあと思ったが、あちらは江戸時代建造&石積み&現役のようだ。さらに貴重なもののグレードが上のようだ。

川間ドック跡_1
川間ドック跡_2
この川間ドックは、レンガ造りのドックとして知られ、横浜のランドマークタワーのドックヤード以上の価値があるものですが、あまり知られていません。200t位の船まで建造されていました。
手前のコンクリートが少し朽ちている部分は、川間工場の擁壁だったようだ。
川間ドック跡_3

浦賀駅の階段を下ると、巨大な建物が海側の道沿いに続いています。一世紀以上にわたって約1000隻にのぼる艦船をつくり続けてきた浦賀ドックの跡地です。
平成15年(2003)に閉鎖されるまで、30mを越す高さのクレーンが空を覆い、日本丸、海王丸をはじめ、青函連絡船・大型タンカー・自動車運搬船・護衛艦などの船がこの浦賀ドックで建造され、街はドックで働く人たちでにぎわいました。
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浦賀ドック
浦賀での造船の歴史は古く、安政元年(1854)現在は暗渠となっている浦賀駅前を流れる「長川」の河口で、中島三郎助らにより日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸が建造されました。太平洋横断直前の咸臨丸も、この河口で修理が行われました。
明治24年(1891)中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争の同志であった荒井郁之助が浦賀に造船所を造ることを提唱しました。榎本武揚が賛成して地元の有力者に働きかけ、明治30年(1897)浦賀船渠株式会社が創設され、2年後にはドライドックが建造されました。
浦賀船渠株式会社は、浦賀重工業㈱を経て住友重機械工業㈱となり、平成15年(2003)3月に閉鎖されました。現在、一般の見学はできませんが、「咸臨丸フェスティバル」や「中島三郎助まつり」などの際に、ドライドックを含め一部が公開されます。
昭和18年(1943)に作られ、1基のみ解体されずに残されているクレーン、明治32年(1957)に建造されたドライドックなど(いずれも浦賀生協付近からフランス積みのれんが塀越しに見ることができます)に、当時の面影を偲ぶことができます。


『廃造船所で行われる、まつり』の記事へjump
同上記事のドック部分へjump
『浦賀ドック跡』の記事へjump

締まらない最後になってしまいましたが、以上で『浦賀の幕末前後の遺跡を回る』シリーズはおしまいです。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(8)

西浦賀(7)

いよいよ最後の目的地の燈明堂跡に向かう。途中、愛宕山公園でかなり体力を消費したので、残りのエネルギーはわずか。そんなに遠いわけではなかったはずなのに、非常に辛かった。

City Marina Velasis
愛宕山公園からも見えていた手前側のマリーナ。かなり大規模な施設だ。
City Marina Velasis_1
City Marina Velasis_2
City Marina Velasis_3
City Marina Velasis_4
City Marina Velasis_5
City Marina Velasis_6
City Marina Velasis_7

燈明堂跡
燈明堂跡に行ったことがなかった。何故なのだろうかと考えたら、私が横須賀に住んでいた頃は台座くらいしか残っていなかったんだ。それを平成元年に復元したとか。道理で見たことがなかったわけだ。
燈明堂は、実に220年もの長きにわたって浦賀の海を1日もかかさず照らし続けてきたんだ。すごく頑張った施設だったんだなあ。

バス停「燈明堂入り口」付近
バス停「燈明堂入り口」付近_1
バス停「燈明堂入り口」付近_2
燈明堂跡への道
せっせと歩いたつもりだが、スピードがまったく出ない。お兄さんに簡単に追いぬかれてしまった。それでもかすかに『燈明堂』が見え出した。そうなると現金なもので、俄然やる気が起きてきた。
燈明堂跡への道_1
燈明堂跡への道_2
燈明堂跡への道_3
燈明堂跡への道_4
燈明堂跡への道_5
やっと着いた
やっと着いた_1
やっと着いた_2
やっと着いた_3
やっと着いた_4
やっと着いた_5
やっと着いた_6
浦賀の港に安全に導くために設置されていたのか。ついでにぺりーまでやってきてしまったのは、誤算だったのだろうか。
やっと着いた_7
やっと着いた_8
やっと着いた_9
やっと着いた_10
やっと着いた_11
東京湾フェリー
東京湾フェリー_1
東京湾フェリー_2
あちらの方から延々と歩いてきたんだ
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_1
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_2
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_3
あちらの方から延々と歩いてきたんだ_4
へえ、三浦半島八景というのもあったんだ
平成13年11月に選定されたとか。大塔(鎌倉宮)の夜雨、灯台(燈明堂)の帰帆、大佛の秋月、長者ヶ崎の夕照、神武寺の晩鐘、猿島の晴嵐、城ヶ島の落雁、建長寺の暮雪なのか。
三浦半島八景

干鰯(ほしか)問屋について少し説明します。江戸時代の初期、関西方面、特に紀州から鰯を求めてたくさんの漁船が関東に来るようになりました。これは、近畿地方を中心に綿作が発達し、その最適な肥料が干鰯であったので、それを求めるためのことでした。そして、水揚げされた鰯を油抜きをして干し、干鰯肥料として関西方面に送り出す干鰯問屋が東浦賀に建ちはじめました。
初期に15戸あった干鰯問屋は、最盛期には倍に増え、一時期には全国の干鰯商いを独占するほどまでになっていました。こうして、干鰯問屋が拡大されれば、当然に船の出入りも多くなり、これらの船の安全を図るため、幕府は浦賀湊の入口に燈明堂を建設しました。
燈明堂の経費は、初めは幕府が負担しましたが、元禄時代からは、東浦賀の干鰯問屋が全額負担し、明治維新までその灯をともし続けました。
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浦賀港の入口に、燈明崎と呼ばれる小さな岬があり、江戸時代には「燈明堂」と呼ばれる今日の灯台のような役割をする施設があった。慶安元年(1648)幕府の命によって築造された燈明堂は観音埼灯台にバトンタッチするまで、約220年間にわたって一日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍したが、明治五年(1872)に廃止された。
燈明堂は、我が国の灯台史の上で極めて貴重なもので、建物は明治20年代まで残っていたが風雨で崩壊、土台の石垣だけが残されていた。平成元年その石垣の上に、現在の燈明堂が復元された。

 

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(7)

西浦賀(6)
奉行所跡
此処が浦賀奉行所跡。今は住友重機械工業株式会社の社宅になっていた。愕然とするほど何もない跡地。少しくらい往時の痕跡を残しても罰が当たらなかったと思うが、…。此処の奉行所は極めて短命の奉行所だと思っていたのだが、なんと150年もの歴史があったようだ。初代から最後の土方出雲守まで53人が勤めたのか(奉行が2人のときもあった)。
奉行所跡_1
奉行所跡_2
奉行所跡_3
奉行所跡_4
奉行所跡_5
奉行所跡_6
昔の姿はこんなだったようだ
奉行所_昔の姿
享保5年(1720)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。
その業務は、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。
また、文化・文政(1804~1830)のころから、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防備するため、海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになりました。
享保5年から、江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの約150年間に、奉行は2人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。
また、奉行所には、与力10騎・同心50人の役人たちも勤めていました。
現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。

陸軍桟橋
陸軍の桟橋として本来の目的は別にあったのだろう。が、終戦に際して、最後の役目は引揚船の着桟場所だったのだろう。
56万人がここから上陸したのか。引揚者はみな命からがら逃げてきたのだろう。コレラ騒ぎまであって、大混乱したことが容易に想像できる。
大したこと無い桟橋のように見えるが、それなりの大きさの船舶が着桟できる深さがあったのだろう。それにしても岸壁の長さが異常に短い。荷物など殆どなしに、身一つで逃げてきたのだろうか。

西浦賀の渡船場から川間方面に少し歩くと、通称「陸軍桟橋」と呼ばれるL字型の桟橋があります。太平洋戦争終了後、南方や中国大陸からの引き揚げ者約56万人が、懐かしい日本の地に第一歩を印したところです。
浦賀港の引き揚げの歴史を後世に伝えようと平成18年10月に記念碑が設置されました。
周辺はボードウォークが整備され、浦賀港を隔てて東叶神社を望む東屋もあり、一休みすることができます。

陸軍桟橋_1
陸軍桟橋_2
陸軍桟橋_3
陸軍桟橋_4
陸軍桟橋_5
陸軍桟橋_6
陸軍桟橋_7
対岸の東浦賀
対岸の東浦賀_1
対岸の東浦賀_2
対岸の東浦賀_3
対岸の東浦賀_4
対岸の東浦賀_5
右端に東叶神社が見える。そのすぐ後ろの山が八幡山。浦賀城址などがある山だ。上らなくて良かった。あの辺りの高いところ伝いにずーっと曲輪が続いた様だ。
6
東叶神社が見える
対岸の東浦賀_7
周辺の様子
周辺の様子_1
周辺の様子_2
周辺の様子_3
周辺の様子_4
周辺の様子_5
周辺の様子_6
周辺の様子_7
船番所跡
船番所跡
同時に此処は、その昔は、船番所跡だった。昔の姿はこんなふうだった。
船番所_昔の姿_1
船番所_昔の姿_2
陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところです。
番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。
その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していました。

 

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