散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(12) 2014.10.08 15:20追記

荏柄天神社
荏柄天神社は、名前の通り菅原道真を祀る神社。太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神の一つ。前二社は著名だが、荏柄天神社は知る人ぞ知る神社の位置づけだろうか。
建武の中興を果たしたものの足利尊氏と衝突し、幽閉後殺害された護良親王を祀る鎌倉宮。その目と鼻の先に荏柄天神社がある。こちらは、源頼朝が鎌倉に入ると、新たに社殿を造営し、幕府の鬼門(北東)を鎮護する神として祀られた神社だ。鎌倉宮とはまったく立場を異にする。その神社同士が至近距離に鎮座しているというのは、皮肉なことだ。
鎌倉宮が近くに造営中であったり、徳川幕府からも重視された関係かもしれないが、明治維新後は冷遇されたようだ。神仏分離令で衰退し、明治6年(1873年)になってやっと村社と扱われた程度。かたや、鎌倉宮は同年に官幣中社に列格されたというのに。しかし、それだけの価値しかない神社では決してない。

鳥居の直前にこんなくぐり口が。洒落たものだ。
どうも2本のビャクシンがX字状に交差しているようだ。なおこの荏柄天神社の参道と鎌倉宮の参道もX字状に交差している。
鳥居の直前にこんなくぐり口が_1
鳥居の直前にこんなくぐり口が_2
ちょっと長めの石段
ちょっと長めの石段
菅公一千年祭記念碑
明治35年が菅原道真公の千年忌にあたったようだが、その折に建てられたものだろう。『菅公』とは、決してあの馬鹿な菅直人のことなどではない。
菅公一千年祭記念碑
謂れはこんなもの
姿絵が降ってきたのか。さぞかし鎌倉の村人は有難い印だと思ったことだろう。
謂れはこんなもの
神門
神門_1
神門_2
神門_3
拝殿
目に飛び込んでくるのは目にも鮮やかな拝殿。幣殿や拝殿は、関東大震災による倒壊で再建されたもの。
拝殿_1
拝殿_2
拝殿_3
本殿(国指定の重要文化財)
樹木の陰ではっきり撮ることができなかったが、拝殿の背後(画面左側)には本殿が有る。本殿は、三間社流造、銅板葺き。江戸幕府第2代将軍徳川秀忠が資材・資金を下賜して元和8年(1622年)に始まった大規模な修造の際、寛永元年(1624年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受け移築したものだそうだ。鶴岡八幡宮の若宮旧本殿は正和4年(1315年)の鎌倉大火の後、翌正和5年(1316年)に建立された。記録によれば、中世、近世を通じてたびたび修理が行われているが、社殿全体が再建された記録はない。移築と度重なる修理を経ているとはいえ、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構の一つだそうだ。
ということで、国指定の重要文化財になっている。

本殿(国指定の重要文化財)_1
反対側から撮っても樹木が邪魔になる。と言っても天神社というからには境内に梅の木はつきもので、これがなくては話にならないのだろう。致し方無しかも。
本殿(国指定の重要文化財)_2
絵筆塚
「かっぱ筆塚」を建てた漫画家清水崑の遺志を継いだ同じく漫画家の横山隆一らが建立してもの(平成元年)。横山隆一をはじめとする漫画家154人によるカッパのレリーフが飾られた筆形の塚で、毎年10月には、清水崑を偲ぶ「絵筆塚祭」が行われているそうだ。
いい加減疲れた頃に此処に来たが、この絵筆塚で癒やされたのか、ちょっと元気が戻ったような気がした。

絵筆塚_1
絵筆塚_2
2絵筆塚_3
絵筆塚_4
絵筆塚_5
絵筆塚_6
絵筆塚_7
絵筆塚_8
文化財の説明表示板
文化財の説明表示板
熊野権現社
伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の熊野三柱神がまつられているそうだ。
熊野権現社
神輿庫
社殿の右側には、神輿庫がある。何の建物かと思うほど堂々としていた。
神輿庫
大銀杏
鎌倉市指定の天然記念物。樹齢600年と伝えられている。天神が降った場所とされているところに植えられているとか。
大銀杏

荏柄天神社本殿…文化遺産オンラインから
荏柄天神社は、鶴岡八幡宮の東方に位置している。長治元年(1104)に菅原道真を勧請し、創立されたとされ、鎌倉時代初期より幕府との関わりが記録に見える。
現存する本殿は、寛永元年(1624)の鶴岡八幡宮若宮の社殿造営に伴い、若宮の旧本殿を移築して再興されたものである。若宮は、正和5年(1315)再建後、中世を通じて維持されていることから、この本殿は14世紀に遡る可能性がある。
形式は三間社流造 、屋根は銅板葺である。内部は小組格天井とし、内法長押上の小壁に横連子を入れる。
荏柄天神社本殿は、江戸時代初頭に鶴岡八幡宮の若宮本殿を移築したもので、鶴岡八幡宮の室町時代に遡る主要社殿を伝える唯一の例として重要である。
三間社としては大型で、内外ともに細部の意匠も優れ、中世鎌倉における社殿の様式を知る上で欠くことのできない貴重な遺構である。

荏柄天神社境内…国指定文化財等データベースから
荏柄天神社は、鎌倉市中央部の東側、源頼朝が開いた幕府跡伝承地の北東約200mの丘陵先端部に位置し、谷を挟さんで約300m西側の対岸丘陵には史跡法華堂跡(源頼朝墓)が隣接している。江戸時代成立の「相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起」によれば、長治元年(1104)8月25日に天神が降臨したことに始まるという。天保12年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』は、幕府の鬼門鎮護のために祀られたとの社伝を採録している。周囲よりも7m程高い東西約55m、南北約50mの削平地に社殿を設けている。社殿裏は人工的に切り落とした急崖で、社殿の両側は袖状の尾根が張り出しており、鶴岡八幡宮の上宮敷地造成との共通性が見られる。
天神は、東国では八幡神とともに平将門に新皇の位を授ける神として現れ(『将門記』)、武家政権の成立に関わる神であり、弘安4年(1281)には鶴岡八幡宮の境内末社としても祀られた。貞永元年(1232)成立の『御成敗式目』の末尾に付された起請文には、幕府ゆかりの神々の最後に「天満大自在天神」として記されており、誓約に関わる神でもあった。
『吾妻鏡』での初出は建仁2年(1202)9月11日条で、大江広元が荏柄社祭の奉幣使を奉仕したとある。建保元年(1213)2月25日・26日条には、渋川兼守が荏柄社に奉じた詠歌によって、将軍実朝より罪を赦されたとある。寛元2年(1244)7月20日・8月3日条には、密通の被疑者が起請文を進めて参籠して失無しとされたとある。弘長元年(1261)5月8日の「天神坐像胎内銘文」では、荏柄神主平政泰によって朝廷と幕府の鎮護が祈願されている。
当社は鎌倉における詩歌信仰の中心であり、室町時代には鎌倉公方が正月25日に参詣し、千句の催しが行われた(『鎌倉年中行事』)。鎌倉公方足利成氏は宝徳3年(1451)9月23日の御教書で「天下安全祈祷事」を命じており、武家政権の維持に当たり、鶴岡八幡宮と対になって信仰されていた。北条氏康は天文17年(1548)に社殿造営用途のために関を寄進している。豊臣秀吉は天正18年(1590)に鎌倉に入り、鶴岡八幡宮と当社の造営を沙汰し、徳川家康は天正19年に社領19貫文余の朱印状を下して造営を命じている。
元和8年(1622)、徳川秀忠による鶴岡八幡宮造営の際に、若宮旧社殿を当社に移し、幕府の援助で本社・末社の造営が行われている。これ以後、幕府による30年から40年ごとの鶴岡八幡宮修造に併せて当社も修造され、当社は鶴岡八幡宮と並ぶ武門の神として維持されてきた。平成13年の修理の際に鎌倉市教育委員会が建造物調査を行い、当社本殿が正和5年(1316)の造営で、元和8年に当社に移築された旧鶴岡八幡宮若宮本殿であることが確認された。
荏柄天神社は幕府の鬼門鎮護の神社と伝えられており、武家の誓約を保証し、武家政権を守護する神として鶴岡八幡宮とともに信仰され、東国の天神信仰、詩歌信仰の中心でもあった。また、境内地は宗教的な環境を良好に残しており、武家の信仰形態を伝える遺跡として重要である。


以上で、12回にも亘った『ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社』シリーズは終了です。最後までご覧頂きありがとうございました。

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(11)

鎌倉宮

市内の少し奥まった場所とはいえ外れという程でもない二階堂の地に、鎌倉幕府を倒し建武中興を実現した人物である護良親王を祀るのか。天皇家からすれば手中に権力を取り戻す上での大功労者なのだろうが、皮肉な感じがしないでもない。鎌倉幕府は確かに瓦解したのだから、皮肉であろうがなんだろうが、史実であることは間違いがないことだ。しかし、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められてしまうとは、鎌倉人にとっても残念な話だっただろう。
明治天皇は大政奉還によって戻ってきた皇室を中心におく新しい国の、その頂点に立つ『天皇』としての力をはっきりと示したかったのだろうか。


境内(無料ゾーン)の様子
厄割り石
盃割り舎があり、厄割り石が置いてある。盃に「フーッ!」と息を吹きつけて、自分についた悪いものを移し、この石に投げつけて割ると、厄を払うことができるとされているそうだ。
厄割り石_1
厄割り石_2
境内では骨董市が開かれていた
骨董市
村上社と身代りさま
拝殿の右側(境内社の「村上社」)には、護良親王の部下の村上義光の像が置かれている。「撫で身代わり様」といって、なでると体の悪いところを身代わりになってくれるとされている。吉野の戦いで危地に陥ったとき、村上義光は護良親王の鎧と直垂(ひたたれ)を身にまとい、「われは護良親王なり。切腹の手本を見せようぞ!」と言うと、壮烈な最後を遂げた。というようなことがあり、つらいことを引き受けてくれる「身代わり様」として、人々の信仰を集めているとのこと。
とは言うものの、10年前の台風で倒れた境内のケヤキを使って彫られた像だとか。意外に新しいものらしい。
新しいご利益なのかなあ。商売上手なのかも。

村上社と身代りさま
拝殿
舞殿をも兼ねているようだ。今頃行われる薪能は此処で行われるのだろう。
拝殿
境内(有料ゾーン)の様子
本殿、幣殿が見える
本殿、幣殿が見える
本殿の手前にある小さな建物は境内社の『南方社』
本殿の手前にある小さな建物は境内社の『南方社』_1
本殿の手前にある小さな建物は境内社の『南方社』_2
本殿後方にある土牢への階段と門
皇室ゆかりのところである事がわかる
本殿後方にある土牢への階段と門
一段高くなる手前にあった石碑
『大塔宮御坐所』と書かれているのかと思う。右側が『人』の字で無く、『口』の字になっているので自信なしなのだが。
一段高くなる手前にあった石碑
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢
実際にこの土牢に幽閉されていたかは疑問を呈する人も少なくないようだ。実際に幽閉されていたのは、この地にあった東光寺の一室であったという説もある。
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_1
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_2
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_3
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_4
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_5
護良親王が幽閉されていたと言われる土牢_6
御構廟(おかまえどころ)
此処に護良親王の首が打ち捨てられていたという
御構廟
宝物殿
神苑を通って、入り口の方へもどると、左手に宝物殿がある。ガラス越しに、鎌倉宮が蔵するさまざまな宝物を見ることができるようになっている。サービスレベルが低いなあ。明治天皇の御座所跡を宝物殿として活用しているようだ。
宝物殿_1
宝物殿_2
護良親王の騎馬像
撮影禁止扱いになっていたので、wikipediaの画像を借用
『制機先者勝』(「機先を制すは勝ち」の意味だと思う)と書かれた東郷元帥の書が置かれていた。達筆だなあ。
護良親王の馬上像

鎌倉宮(かまくらぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社である。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮(おおとうのみや)。
祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。
明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。
本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。土窟で2段になっている。「鎌倉覧勝考」によれば、上段は入り口から6尺ばかりの深さで2間四方余あり、下段はさらに7、8尺下って9尺四方あり、周囲は赤い土であるといい、さらに、「太平記」に「建武元年五月二日大塔宮を足利直義うけ取鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参らせける」とあり、土の牢とは記されておらず、薬師堂谷の御所または牢の御所と書いているものもあり、土籠は塗りごめた土蔵であり、四面を禁錮して入れ置いたのであるから、牢の御所と称したにすぎないという。

 

ヴェルニー公園、瑞泉寺、永福寺跡、鎌倉宮、荏柄天神社(10) 2014.10.06 20:28追記

往路で存在を確認したものの、先を急ぐためにパスした『永福寺(ようふくじ)跡』に向かう

途中にて
美味しそうな梅干しだ。子供の頃、よく手伝わされたものだったなあ。見ていたら、唾液が、口中に。
美味しそうな梅干し

国指定史跡『永福寺跡』
永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのは、この建物が二階建てで二階堂とも称されたことが由来となっているのか。なるほど。
永福寺は、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院だったのか。確かに頼朝の強引なやり方を恨んでいた人は少なくなかったことだろう。だから、こういうことでもしないと枕を高くして寝られなかったのかもしれない。
頼朝は建築時には何度か顔を見せていたようだが、完成後は一度も顔を見せなかったようだ。刺客に狙われていたということもあっただろうし、怨霊に祟られる感じがして、どうにも足が向かなかったのかもしれない。

怨霊に祟られたのは京都ばかりじゃなかったようだ。
現在の跡地の様子
現在の跡地の様子_1
現在の跡地の様子_2
現在の跡地の様子_3
現在の跡地の様子_4
現在の跡地の様子_5
現在の跡地の様子_6
現在の跡地の様子_7
現在の跡地の様子_8
現在の跡地の様子_9
現在の跡地の様子_10
かなり大きな寺院だったようだ。以下の2点は湘南工科大学作成のCGイメージを借用した。
湘南工科大学作成のCGイメージ_1
湘南工科大学作成のCGイメージ_2

『鎌倉遺構探索:永福寺跡』のページヘjump
『はまれぽ』の特集記事にjump

永福寺跡(ようふくじあと)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある史跡。永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建てであった事から二階堂とも称された。現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。昭和58年(1983年)から開始された調査で翼廊などが発見され、国の指定史跡となった。
源頼朝は文治5年(1185年)9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
応永12年(1405年)の火災ののち廃絶した。
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頼朝が奥州藤原氏征討の際、中尊寺・毛越寺・無量光寺などを見て深い感銘を受け、鎌倉での建設を決意。滅ぼした藤原泰衡や源義経などを供養するため建久3年(1192年)建立した。
中央に二階大堂、左右に薬師堂、阿弥陀堂を配し、その前に池を配する浄土庭園になっている。
怨霊の侵入から守るため幕府の鬼門の方向である東北に建立した。応永十二年(1405年)の火災により焼失。二階大堂は、33㍍四方の二層の大きな建物で、この辺が二階堂という地名で残っている。
建設時、頼朝はしばしば現地にきて指示をしたが、建設後一度も訪れていないそうである。それは、建設時、上総五郎忠光という暗殺者が潜入していたり、弟義経の怨霊を非常に恐れていたのではないかと児島氏は言う。

 

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