散歩三昧

散歩や旅行の合間に撮った写真に簡単な説明を加えました

 

称名寺(3)

金堂
禅宗様。天和元年(1681年)に再建。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺(再建当初は茅葺)。
金堂は、寺院で本尊を安置する仏殿。伽藍配置の中心。現在の本堂に相当するものだろう。堂内を金色に装飾したことから、あるいは仏を金人ということからこの名があるのだそうだ。称名寺金堂の本尊は、『木造弥勒菩薩立像』で、国指定の重要文化財。隣接する『神奈川県立金沢文庫』に、写真と複製の彩色された木造がある。金堂の覗き口から見たのではよくわからなかったが、この複製の像は明るいところに展示されているので、非常にわかりやすく私のような者には有難い。写真撮影禁止なので、残念ながら写真はない。複製くらい写真撮影を許可してもバチは当たらないと思うが、頭の硬い役人は聞く耳を持たないのだろうか。
金堂_1
金堂_2
金堂_3
金堂_4
金堂_5
金堂_6
釈迦堂
禅宗様。文久2年(1862年)に建立。方三間、廻縁付、宝形造、茅葺。
本尊は、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来立像(三国伝来の釈迦如来)を模刻したもの(国重文・清涼寺式釈迦如来)。1308年(徳治3年)、北条実時の三十三回忌に造立された。
清涼寺の釈迦如来立像は、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が中国宋より持ち帰ったもの。

清涼寺式釈迦如来像は目黒の大円寺にもあった。あちらも国指定の重要文化財だ。そういうものなのだろうか。
釈迦堂_1
釈迦堂_2
釈迦堂_3
釈迦堂_4
称名寺境内 
称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉二年(一二五八)、金沢氏の祖と称されてぃる北条実時(一二二四~一二七六)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(一二四八~一三〇一)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに、顕時の子、貞顕(一二七八~一三三三)は伽藍の再造営を行い、元亨三年(一三二三)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘三年(一三三三)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正十一年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和四七年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和六二年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。

称名寺之晩鐘
称名寺の鐘は、金沢北条氏の初代実時が、文永6年(1269)に父実泰の七回忌に寄進したもの。のちに破損していたのを、二代顕時が正安3年(1301)に改鋳した。このため、鐘には実時と顕時の二人の名が刻まれている。
梵鐘の総高は128.5cm。さほど大きくはないが、形の美しい鎌倉時代を代表する名鐘の一つで、国指定の重要文化財。
鐘を鋳造したのは、当時関東一円で盛んに造鐘した鋳物師の棟梁・物部国光と子の依光。鎌倉最大という円覚寺の洪鐘(国宝/総高259.5cm)も、杉田・東漸寺の永仁の鐘(重文)も、物部国光がほぼ同じ時期に造った名鐘である。
なお、「称名晩鐘」と呼ばれるようになったのは、元禄時代に中国の心越禅師が金沢八景詩を詠んだ以後のことになる。

称名晩鐘_1
称名晩鐘_2
称名晩鐘_3
『はるけしな山の 名におふかね沢の 霧よりもるゝ入あひの声』と書かれてあるとか。『入あひ』とは、夕暮れにつく鐘の音をいうそうだ。昔は『かねさわ』という読ませ方だったようだ。
山の中腹に建物が3つ並んでいる真ん中に小さいのが、鐘楼だろうか。手前が仁王門。その間に、阿字ヶ池があったのでは。
称名晩鐘_4
謡曲「六浦」と青葉楓
謡曲「六浦」と青葉楓_1
謡曲「六浦」と青葉楓_2
国宝の画像(FREE画像を借用)
北条実時像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)
北条実時像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)
金沢貞顕像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)
金沢貞顕像(国宝、金沢北条氏肖像のうち)

内容的に貧弱で恐縮ですが、以上で『称名寺』のミニシリーズは終了です。最後までご覧頂き有難う御座いました。

 

称名寺(2)

阿字ヶ池、反橋、平橋
称名寺の金堂前の庭園は、貞顕の代に完成され、阿字ヶ池の中島に反橋と平橋が架けられた浄土式庭園となっている。関東地方では珍しい存在のようだ。
浄土式庭園は、毛越寺、白水阿弥陀堂、平等院などで見たことがあるが、どういうものを指して言うものか私にはよくわからない。いずれも非常に美しい庭園であるくらいしかわからない。平安・鎌倉期の権力者の考えた浄土のイメージなのだろうか。
現在の称名寺の庭園は、称名寺絵図に基づき昭和62年に鎌倉時代の浄土庭園造営当初の姿に復元してつくられた。と聞くと『なあんだ詰まらない』と思われる向きもあろうが、実際にそうだったのだから仕方がないことだ。新名所的なものかもしれない。

浄土式庭園
うーーん、本当に美しい庭園だ
浄土式庭園_1
浄土式庭園_2
浄土式庭園_3
浄土式庭園_4
浄土式庭園_5
反橋
かなり反りの大きな橋。少しだけ、金堂とずれていて、それを指摘する向きがあるが、どうなのだろう。
反橋_1
反橋_2
反橋_3
反橋_4
反橋_5
橋の上から見た阿字ヶ池の右側の様子
橋の上から見た阿字ヶ池の右側の様子_1
橋の上から見た阿字ヶ池の右側の様子_2
橋の上から見た阿字ヶ池の左側の様子
池の奥辺りに称名寺殿、つまり、北条実時が住んでいたようだ。また、この一画に三重塔もあったようだ。だけど、遺構はまだ見つかっていないとか。説明ボランティアの人に聞いた受け売りだが。
橋の上から見た阿字ヶ池の左側の様子
平橋
平橋_1
平橋_2
金沢四石に数えられる阿字ヶ池の美女石と姥石
夕日が落ちる池の美しさに、称名寺を訪れていた「さる姫君」が畔に近づき、足を滑らせて池に落ちてしまった。助けようとした乳母も池に落ち、二人ともに溺死してしまった。そして、落ちた二人は石となったという伝説が残されている。その石が金沢四石に数えられている「美女石」と「姥石」。現在は美女石のみが残っている。
「称名のみのりの池の美女石も今でも乳母もろともに蓮のうてなに」
他の金沢四石は、金龍院の「飛石」と琵琶島の「福石」。
阿字ヶ池の美女石

 

称名寺(1)

存在は十分すぎるほど承知しているのに、今まで一度も足を運んだことがなかった称名寺。金沢北条氏ゆかりの寺院の往時から現在までの来し方を確認してみようと思い立った。
北条氏滅亡後は、後醍醐天皇や鎌倉公方、豊臣秀吉、徳川家康ら時の権力者の庇護を受けたが、寺運は回復せず、江戸期には大きく衰退したようだ。宗教人として、この寺院を中興する器量を有した僧侶が存在しなかったのだろうか。金沢北条氏の寺院に過ぎなかったのが、寂しい限りだ。
画面が暗いのは、雨が降ったりやんだりの分厚い雲に覆われていたからで、私の印象で恣意的に暗くしたわけではない。


称名寺惣門(赤門)
称名寺の南辺を限る朱塗門。明和8年(1771年)に再建。四脚門、切妻造、本瓦葺(再建当初は茅葺)。
称名寺惣門(赤門)_1
称名寺惣門(赤門)_2
称名寺惣門(赤門)_3
赤門の内側にある参道
赤門の内側にある参道_1
赤門の内側にある参道_2
赤門の内側にある参道_3
称名寺塔頭光明院表門《横浜市指定有形文化財(建造物)》
赤門から近づくと、門の側面が先に目に入る。そのときは、駐車場に残してあった単なる古い門くらいにしか思わなかった。が、正面に回って、説明書を見てびっくり。横浜市で最古の建物だったのか。うーーん。
何の変哲もないような門ですが、寛文5年(1665年)の建立で、移築されたものを除けば現存する横浜市内最古の建造物です。横浜市指定有形文化財にもなっています。
称名寺塔頭光明院表門_1
称名寺塔頭光明院表門_2
称名寺塔頭光明院表門_3

仁王門
これは立派な仁王門だと思った。文化財の指定がないのか。200年経過くらいではダメなのだろうか。
禅宗様。文政元年(1818年)に再建。三間一戸の楼門、入母屋造、軒唐破風付、銅板葺(再建当初は茅葺)。
仁王門_1
仁王門_2
仁王門_3
本当に大きな像だ。院興という名の仏師は知らなかったので調べてみた。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news2-2.html
称名寺には、鎌倉時代末に造立された木造の釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)と金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)があります。これらの像は、体内に記されている墨書銘から、釈迦如来立像は徳治(とくじ)3年(1308年)に大仏師(だいぶっし)院保以下院吉など17名の仏師によって、金剛力土立像は元亨(げんこう)3年(1323年)に院興、院救等の仏師によって造られたことが知られています。
名前に「院」字を冠したいわゆる「院派仏師(いんぱぶっし)」は、平安時代中期の定朝(じょうちょう)を祖とする日本の仏師系譜の中で、「慶」の字がつく慶派(けいは)仏師、「円」の字がつく円派(えんぱ)仏師とともに、由緒ある正系仏師の系譜であり、室町時代まで約130人の名が知られています。…以下省略

なるほど、そんなにマイナーな仏師たちではなかったようだ。作品を見てもそのことが伺える。
安置されている仁王像(金剛力士像)は、胎内墨書により、1323年(元享3年)の院興らの作であることが判明している(県重文)。神奈川県教育委員会のホームページによれば、関東における最大の金剛力士像だという。
仁王像_1
仁王像_2

概要
金沢は、鎌倉の外港である六浦を抱え、東京湾を介した交通・軍事上の要衝、すなわち鎌倉の東の要衝であり、そこに重要な拠点として営まれた称名寺は、防御を重視した鎌倉幕府の政権所在地の造営の在り方の特徴を示す寺院です。
また、当時の称名寺は仏教教学の研究がとりわけ盛んに行われ、「金沢学校」とも呼ばれた日本における中世の大学でした。さらに、1275年に、称名寺に設置された「金沢文庫」には、教学研究のために収集された大量の文物が引き継がれています。これらは、中国伝来の美術工芸品、書籍、典籍類を主体としており、武家文化の成立に中国文化が重要な影響を及ぼしたことを示すとともに、武家文化の精華を現在に伝えています。
歴史
称名寺は、第5代執権北条時頼や第8代執権北条時宗の補佐役として幕府内部で重きをなした北条実時(1224~1276年)が営んだ持仏堂が始まりで、1267年に寺院としての体裁を整え、鎌倉時代末に実時の孫金沢貞顕(1278~1333年)によって伽藍や庭園が再造営され最盛期を迎えました。その様子を描いた『称名寺絵図並結界記』によれば、境内の中央に浄土池を配し、東西及び北に金堂や講堂他の諸堂が建ち並ぶ大伽藍が形成されていました。
現在の境内は、山門の正面に浄土池を中心とした庭園を配し、その北側に諸伽藍が並んでいます。これらの建物の北方及び浄土池の東西には、講堂他の伽藍が営まれていた平場が展開し、それらの外側は周囲の山稜部へと連続しています。
なお、前述の「金沢文庫」に引き継がれた大量の文物は、現在、境内に隣接する「神奈川県立金沢文庫」において、厳重に保管されるとともに、活発な調査研究及び積極的な公開活用が図られています。
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称名寺は、金沢山(きんたくさん)称名寺。真言律宗、別格本山。金沢(かねさわ)北条氏の菩提寺である。称名寺の創建年は明らかでないが、北条実時(ほうじょう さねとき)(1224~1276)が六浦荘の居館内に阿弥陀三尊を祀った持仏堂から発展したものという。実時は、正嘉2年(1258)に持仏堂で潅頂の儀式を受け、また翌正元元年(1259)頃に称名寺を建立したとの記録がある。実時は、鎌倉幕府二代執権北条義時の孫で、引付衆や評定衆など幕府の重職を歴任して北条得宗家を政治的に支えるとともに、学問に造詣が深く、収集した和漢の書籍を鎌倉から六浦に移し金沢文庫の基礎を作った。実時は、奈良西大寺の叡尊(えいそん)に帰依し、称名寺をそれまでの念仏宗から真言律宗に改め、下野国薬師寺の審海上人(しんかいしょうにん)(1232-1304)を迎えた。実時の子顕時(あきとき)(1248~1301)は、寺内外の土地を寄進し、本尊弥勒菩薩立像(重要文化財)を建立、顕時の子貞顕(さだあき)(1278~1333)は伽藍の再造営を行って寺の拡充・発展に尽くした。元亨3年(1323)の「称名寺絵図」は、中央の苑池を囲み、金堂や講堂、鐘楼、仁王門など七堂伽藍を備え、当時の壮麗な寺観を伝えている。特に、南の仁王門から池を東西に分けて反橋、中島、平橋を渡り金堂に至る形式は、平安中期以降盛んに築造された浄土式庭園の最後の遺例として貴重とされる。
元弘3年(1333)北条氏滅亡後は、後醍醐天皇や鎌倉公方、豊臣秀吉、徳川家康ら時の権力者の庇護を受けたが、寺運は回復せず、江戸期には大きく衰退した。
昭和53年(1978)度から10カ年にわたって称名寺庭園・苑池の発掘調査と保存整備事業が行われ、「称名寺絵図」に基づいて昭和60年度に平橋、61年度に反橋が復元され、翌年にかけて庭園の復元的整備が行われた。しかし、その後の風雨等の影響で橋が劣化・腐朽したため、平成19年度に平橋、20年度に反橋の架け替えが実施された。
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境内は国の史跡に指定され、赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などがある。金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、1320年(元応2年)、金沢氏3代貞顕の代に整備されたもので、発掘調査を経て1987年(昭和62年)に復元された。浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられた。塔頭としては光明院(運慶作の大威徳明王像を所蔵)と大宝院がある。

 

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